そして流れていく愛しき日々に
初夏の午後編


一穂・光己編
 ふと前を歩いている二人のうちの一人が空を指して、隣の青年が空を見上げた。つられたように光己が上を見上げると、真っ青な空に飛行機雲が一筋、いっそ気持ちが良いほど真っ直ぐな白線を描いていた。
 ピカーっと晴れた空、と言ったのは同室の智だった。まだしっとりと濡れる空気に、深緑が眩しい。ついこの間まで、そこは枝ばかりが見える寂しい並木だった気がするのに、と光己は目を細めた。
 そう言えば、この間下界に来てから、一ヶ月は経っている。新学年になって、色々忙しくしていた所為だ。主に、光己ではなくて一穂が。生徒会の役員名簿には載らないくせに、総総代という厄介な役職についた彼は、孤高の狼から、裏の玄武というあだ名に変更された。
 優しいのは、前から知っている。実は、世話焼きなのだということも。
「こら光己。上ばっかり見て、躓くなよ」
「あー、うん」
 答えながら、何となく手を伸ばすと、手首を掴まれた。それから、それが一穂の肩に載せられる。
 あれ、と思った。
「浅木……もしかしてまた背が伸びた?」
「あー、身体測定では三センチぐらい伸びてたけど。あれ、あんまり当てにならないぞ」
 何しろ落ち着きのない生徒がたくさんいる九重で、あれだけの数の生徒の身体測定を一辺にやるのだ。保健委員は最後の方は疲れて、いい加減になってくる。ついでに、賄賂やら脅迫などで、正確な数字などわかりもしない。
 確かに、あのときは小さい方が可愛いなどと言われて頭をぐいぐい潰されたものだから、智と二人で抗議をしまくった。
 そのときのことを思い出して、光己は微かに笑った。
「なんだ?」
「ほら、身体測定のとき……」
 ああ、と一穂も笑う。あのとき、怒り狂った智と光己に手が負えなくなった保健委員は、一穂と、一緒に身体測定を回っていた雅道を連れてきたのだ。そのときに、雅道が智に「じゃあ俺のを少しやろう」と言って、自分の身長から五センチほど引いて、智の方に足した。そうすると、二人の身長差は二センチほどになって、「キスもしやすい」と雅道が言ったものだから、智が真っ赤になったのだ。
 あの智の素直さと純情さは、ときどき羨ましいと光己は思う。
 肩から腕を下ろして、光己は一穂の隣に並んだ。そうすると、影にさえ身長差が出てしまうのだと、思わず少し前に出てみる。二人の影が、同じ高さになるように。
 でもそんなことをしても、足の長い一穂の一歩で、それはすぐにまた戻ってしまうけれど。
「なんだ? 光己にも俺の身長分けてやろうか?」
 一穂がからかうようにそう言う。三センチ伸びたのなら、二人の身長差は十センチ近くになる。
「……浅木がでかすぎるんだよ」
 言っても、一穂は肩を竦めるだけだ。それから、ふいにわき道に逸れて、人通りの少ない道に入っていく。ビルの隙間のその道で、一穂は階段の後ろに光己を引っ張った。
「なに、どうしたんだよ突然」
「キス、しようか」
 は? と光己が首を傾げたところで、両手を掴んで、肩に乗せられる。ほら、と促されて、ゆっくりと落ちてくる顔はでも、途中で止まってしまっている。
 光己はそっと、顔を上げた。一穂にちょっと笑いかけて、背伸びをする。
 十センチ。丁度いいと思う。
 その差を埋めるために、一穂は屈んで、光己は背伸びをする。そうやって、二人で埋めるには、丁度いい。
「さて、何を食べに行くんだっけ?」
「天丼! 上手い店があるんだって」
 再び大きな通りに戻って、今度こそ並んで歩く。
 きらきらと落ちる木漏れ日が、もうすぐ来る夏を知らせていた。




藤川・真崎編

「あ、飛行機雲」
 藤川がふいにそう空を指差して、真崎もつられて空を見上げた。気持ち良いほど晴れた青い空に、くっきりとまっすぐな飛行機雲がすうっと引かれていく。
「チャコ、あれに乗ってるのかなあ」
 婚前旅行なの、とにっこりと笑った智耶子は、五月の連休にヨーロッパに行くのだと言っていた。もちろん、婚約者の須賀も一緒で、美味しいものを一杯食べてくる、と笑っていた。二人の結婚は、智耶子の大学卒業と共に行われることに決まっている。来年の今ごろは、今度は新婚旅行になっているかもしれない。
「出発は三時とかじゃなかったか? まだだろ」
 時刻はまだお昼を過ぎたばかり。あの二人のことだから、空港で優雅に昼食でもしていることだろう。真崎が歩きだして、藤川も顔を前に戻した。
「大丈夫かなあ」
 えー、飛行機! と智耶子の旅行に反対したのは、藤川だった。あの鉄の塊がどうやって飛ぶというのか、理解出来ないらしい。さんざん、危なくない? を繰り返して、智耶子に呆れられていた。
「大丈夫だって。藤川も一回乗ってみればいいんだよ」
 今まで、旅行はもっぱら電車だったのだという。智耶子の雰囲気からすると海外など何度も行ったことがあるのではないかと思ったが、家族は店を持っている都合上、あまり長い休みを取れないし、高校から藤川と付き合っていたから、そう言う機会には恵まれなかったのだと言う。
「真崎は乗ったことあるんだよね?」
 それに真崎は、まあね、と適当に答えた。こちらもまた家の都合で、何度か海外にも行っている。でもこの分では、今年はどこにも行かないことになるかもしれない、と思った。家には極力帰りたくない真崎だが、夏の旅行だけは同行することが多かった。飛行機の便は別にしても良かったし、滞在先に着いても、単独行動をしていればいいからだ。
 でも今年は、あの部屋で二人でいるのもいいかもしれない。
「あーあ。チャコ、無事に帰ってきますように」
 それこそ縁起でもない、と真崎は呆れた。
「大丈夫だろ。須賀さんも一緒だし」
 飛行機に関することは、別に須賀がどうにかできる問題ではないが、藤川はいい加減、智耶子のことを考えすぎる。だいたい、一応デートのはずなのに、どうして前の女を心配する言葉を聞かなくてはならないのだ。
「うーん。じゃあさ、俺が飛行機に乗るときは、ってそんなことないかも知れないけど」
 乗る気はあるのか、と真崎は少し笑った。でも、その後のセリフに、笑うどころではなくなった。
「もしもそう言うときが来たら、真崎、一緒に乗ってな?」
 ほとんど変わらない高さから、少しばかり縋るような目で、藤川が真崎を見る。
 ああ全く、と真崎は思わず口元を手で覆った。柄にもなく、顔が赤くなっているのがわかる。
「な? 絶対だぞ?」
 念を押す藤川に、真崎はどう答えていいのかわからなかった。すっかり立ち止まった真崎に、藤川が眉根を寄せる。
「あれ、真崎なんか顔赤い?」
「ほっとけ」
「え? 何? 調子悪い? な、ちょっと休もうか」
 藤川は急に慌てて、真崎の腕を取って近くの喫茶店に入った。大丈夫だって、と真崎が言っても、こう言うときの藤川は人の話を聞かない。
「わっ、あ、ごめんなさい」
 慌てて、それも真崎の腕を掴んだまま扉を開けた藤川は、誰かにぶつかったようでそっと真崎を自分に引き寄せた。
「あ、こちらこそすみません。ちょっと急いでて……」
 ちらりと見ると、携帯を手にしたその少年は、ぺこりと頭を下げた。顔にもちょっと焦りが見えている。
「大丈夫だから。急いでいるならどうぞ?」
 藤川がそう言って、少年はもう一度ぺこりと頭を下げると、慌てて道を駆けっていった。携帯に向かって「もっとまともな説明しろっ、つーか店の名前を間違えるな」と怒鳴っている。先刻の礼儀正しさはどこにいったのやら、と言う感じだ。
「元気だ」
 そう笑った藤川に、真崎も頷く。それから、店に入ろうと促して、そっと腕も外した。
 智耶子といたときなら、平気だろうけれど。
 真崎は智耶子ではないし、ましてや女でもない。だから、藤川のこう言った極自然な行動は、嬉しくもあって、哀しくもある。
 そう少し目を伏せた真崎の首に、藤川が急にがしっと腕を回した。
 でもさ、と少し笑ったような声がする。
「でもさ、男同士ならヘッドロックしても変じゃないし」
 それは大いに違う、と思いながら、真崎はその腕を外せなかった。
「馬鹿。昼間っから酔っ払いの真似すんなって」
「はーい。それは夜になったらします。ところで腹減った。おまえ、調子大丈夫? 平気ならここで飯食ってこうよ」
 曇りなく、藤川が笑った。
 そう、大丈夫。藤川ならば、きっと平気だ。
「最初から平気だって言っただろ。俺もなんか腹減ってきた。いいよ、なんか喰おう」
 二人はそう言いながら、ようやく中に入っていく。
 するりと後ろを通り過ぎた風が、爽やかな初夏を感じさせた。




七緒・哲史編

 細いからだが、懸命に走ってくる姿が見えた。そんなに急がなくていいから、事故ったりするなよ、と七緒は思いながら、そのすらりとした青年を見ていた。
 最初にあったときは、もっと細くて頼りなかった。決して健康的とは言えないほど、顔色もあまり良くなくて、こう言う少年を抱いて、何が楽しいのだろう、と思った。
 今はそこそこに肉もついて、明るい顔をしているが、それでも細いという印象は拭えない。成長期の薬の摂取と栄養不足と――色々要因は考えられて、だから七緒もそのことについてはあまり煩く言えなかった。
『刑事のくせにその説明はなんだ、何でよりにもよって名前を忘れた上に、間違えるんだ』
 そう喚いていた哲史は、すぐ行くから動くなよ、とまるで子供に対するようなセリフを最後に携帯を切った。
 一緒に住んでいるはずなのに、まともに会話をしないこと二週間。その前も少し忙しくて、かれこれ三週間抱き合っていない。だから、哲史が言った「動くなよ」と言う言葉が少し切実だったのもわかる気がする。
 七緒だって、携帯の電源を落としてしまおうかと思っているくらいだ。
 薄いブルーのシャツを着た哲史は、どうやらやっと正しい待ち合わせ場所に辿り着いたのだとその扉の前でため息を吐いた。ちらりと窓際の席を見たら、七緒の横顔が見えた。その前の席の少年たちが、反対側を熱心に見ていて、扉を開けながら哲史は道路の反対側をちらりと見た。小さな雑貨屋だ。
 喫茶店に入って、待ち合わせだからと中に進んでいくと、少し疲れ気味で煙草を吸っている七緒が見えた。前の席には、少年が二人。と言っても、もう青年と言っていいかもしれない。その一人がふわりとあまりに幸せそうに笑ったのが見えて、哲史は一瞬立ち止まりそうになった。
「ああ良かった。今度こそ間違わなかったな」
「間違ったのは七緒だろう。全く」
 哲史がどさりと向かいのソファーに坐ると、七緒が全く悪びれずに「ごめんな」と言った。どうも機嫌がいいらしい。
 お詫びに何でも奢ってやろう、と七緒が言って、哲史はウエイターが持ってきた水をこくりと一口飲んでから、メニューを開いた。走ったおかげで喉が渇いていた。
「七緒は?」
「哲史の好きなもんでいい」
 食に拘りがないのかはたまたただ面倒なのか、七緒はよくこう言う。おかげで哲史は、食べたいものを二つ頼んで七緒と半分ずつ食べたりして、満足感を味わう。
「ねえ、来生さんたちとご飯食べたりするときもそう言うの?」
 少し悩んで、そぼろ味噌クリームパスタと、マグロと水菜のパスタ、七緒に「サラダ」と命令されてジャコサラダを頼むと、哲史はようやく落ち着いた。そろそろ夏を感じさせる陽気で、走ったらさすがに暑い。
「そうって?」
「来生の好きなもんでいい」
 七緒の口調を真似て言ったら、ふっと笑われた。
「面倒なときはな。それに、あいつうるせーんだ。あれも美味しそう、これも美味しそうだとか言って、なかなか決まらない。あんまり煩いときは俺が適当に注文する」
 その様が想像できて、哲史は笑った。来生らしいと思う。
「……仕事、終わったって?」
 哲史は、七緒の仕事について、何も聞いてこない。それを、朝井などは「出来た連れだ」と誉めたりするが、こうして遠慮させてしまっているのだと実感する身としては、少し切ない。
「ああ。とりあえず一山越えた。これでゆっくり出来る、とは言えないところが辛いけどな」
 そう言う平和な世の中になってくれねーかな、とため息をつく七緒に、哲史もそうだね、と頷いた。
 サラダが一足早く運ばれてきたところで、後ろの二人が立ち上がったのがわかった。
 あの、幸せそうな笑顔。
 見ているこっちまで、つられて微笑みそうになったその顔を思い出して、哲史は小さく微笑んだ。
 自分も、七緒といるときは、きっとあんな顔をしている。していいはずだ、と哲史は思った。世の中は平和とは言いがたく、七緒は忙しいけれど。
「どうした?」
「ん? いや。とりあえずさ、今晩だけでも平和を祈ろうかと」
「欲のない奴だな。どうせなら毎晩の平和を祈っとけ」
 つんっと前髪を引っ張られて、哲史は今度こそ満面の笑みを浮かべた。
 外の街路樹から、きらきらと木漏れ日が落ちている。
 季節は、ゆっくりと、過ぎていく。




坂城・樹編

 あ、と和高が小さな声を洩らして、コーヒーをふーふーと冷ましていた樹は、カップを手に持ったまま顔をあげた。和高の、高校生にしては引き締まった横顔が見える。自分より余程大人っぽい顔をしたこの恋人が年下なのは、どうしてなのだろう、と馬鹿みたいなことを考える。
 あと一年。たった、一年。
 でも、そこにある未来が自分が望む形であるのか、樹はいつも不安になる。
 自分が望むことなど、ほんの些細なことでしかないのに。
「ね、見て樹先輩」
 こうやって、学校の枠組みから外れたはずの今でも、自分を先輩と呼ぶ和高も、悪いのかもしれない。
 樹はそれでも何?と微笑みながらその指差す方向を見た。
「あ、お客さん」
「うん。あれ、絶対先輩のサボテン買ってる」
「そんなの、わかんないだろ」
 樹は大学に入ってから、知り合い経由で、小さな雑貨屋の片隅にミニ・サボテンを置かせてもらっている。場所代は払わず、サボテンの売上からたった五パーセントを引くだけと言う、とても好条件なものだった。単価が安いから、五パーセントでは申し訳ないくらいなのだが、最初は要らないと言っていたくらいで、それでは置かせてもらう樹の気が治まらないと言って、やっと折り合った率だった。樹にしてみれば、サボテンの栽培は趣味のようなもので、売りに出そうなどとは思っていなかったのだ。
「絶対だって。だって、入る前からあの棚眺めてたから」
「……いつから見てたんだ」
 ずっと、と和高が外を見たまま笑う。変わらない笑顔は樹を安心させる。だが、どうして自分を見てくれていないのか、不満でもある。
 でも、和高がいつもは坐らない喫茶店の窓際に坐った理由を、今更ながら知った樹は、少し可笑しくなった。
「どれ買ったのかなあ。あの丸いの可愛かったよね」
 和高は、すっかり自分が育ての親のような顔をしていた。本当は、今日の搬入を手伝っただけなのだが。
 店を見たい、と言ったのは和高だ。手伝わせるつもりはなかったが、そんなのいつものことでしょ? と和高に言われて、樹も甘えた。確かに、高校時代から、樹は何かにつけて和高に園芸部を手伝わせていた。滅多なことでは、人に花壇や花をいじられるのは嫌だったのに。
「寂しい?」
 ふいに聞かれて、樹は言葉に詰まった。視線を正面に移すと、和高があの柔らかい笑みを浮かべていた。
「なんかほら、娘を嫁に出す心境って言うか」
 ああ、と樹は先刻の言葉の対象を誤解した自分に気付いた。
「そんな大げさな」
 そう笑いながら、寂しいよ、と素直に答えられたらどれだけいいだろうと思う。
 今は、植物が周りにどれだけあっても、肝心な人がいないから寂しいよ、と。
「大げさじゃないと思うけど。先輩が手塩に掛けて育てたんだし」
 和高は優しく笑ったままだ。そう言う顔をするから、悪い。
 そんな優しそうな顔を、無自覚に振りまくから。
「大事にして貰えると良いですね」
 和高は、すっかりあの二人のお客さんがサボテンを買ったと決め付けている。男の二人組みだ。サボテンなど買うだろうか、と思う。それとも、プレゼントにでもするのか。
 でも、あまりにやさしい顔でそう言うから、樹はそうだな、と頷いた。
 少しでも、あのサボテンが可愛がられたらいい。そういうとき、人は優しい気持ちになれるから。
「それでね、樹先輩」
 アイスコーヒーをブラックのまま飲みながら、和高が言う。
「将来、ああいうお店、二人で出来たらいいですね。もっと植物に重点置いて。花屋でもいいけど、サボテンが主役が良いし」
 なんでもないことのように。
 一年後なんて未来を飛び越えて。
「ね?」
 優しいままの顔で、和高は軽々と樹の不安を吹き飛ばす。
 こつりとテーブルに乗せられたままの手を、その長い指で叩く。すっと離れていくその感触を、寂しいとは思うけれど。
「ああ、そうだな」
 今度ばかりは、真剣に、そう頷いた。
 まだ春は、過ぎたばかり。




坂倉・響貴編

 珍しく響貴がふと足を止めたから、坂倉は響貴が何か言う前に、その小さな雑貨店の扉を開けた。後ろで少し焦ったような声が聞こえたが、いつまでも遠慮がちな響貴のそんな声は無視するに限る。
 響貴がじっと見ていたのは、小さな鉢植えのサボテンだった。雑貨店なのにサボテンなんてと思ったが、そこは色味の少ない、洗練された感じの店だった。木と緑と、ガラスと鉄と。そういうもので出来た雑貨ばかりが置いてある。店の中も深く艶やかな木で出来ていて、落ち着いていた。
 いらっしゃいませ、と小さく静かな声がする。顔を上げた先にいた店員は、小柄な女性だったが、にっこりと笑っただけで手元の仕事の続きを始めた。
 入り口でまだ迷っているらしい響貴に苦笑して、坂倉はそっとその肩を引き寄せるようにする。それに何か言いたげな目をしたが、響貴は促されて先刻のウインドウの前に立った。
 小さなサボテンが、ぽってりとした白や濃い茶色の陶器の植木鉢に植えられている。中には赤い可愛らしい花を咲かせているものもあった。
 相変わらず殺風景な二人の部屋の中に置くには、主張しすぎなくて良いかもしれない。一目見たとき、響貴はそう思った。
 あの部屋を、淋しいと思ったことはない。でも、そこに自分たち以外に息づくものがあってもいいんじゃないか、と能瀬が言ったことを思い出した。
 ときどき怖くなるほど、あの部屋は密度が高いのだと、後になって能瀬が坂倉に言っているのを響貴は聞いていた。酒に酔っていて、ぽろりと本音が零れたようだった。
 二人だけの世界。
 他を拒絶するようなその空間を、能瀬が苦手に思っているのはどことなく気付いていた。一緒に来たことのある小雪など、ほどほどにしなさいよ、と笑っていた。
 二人に、そんなつもりはないのに。
 そんなことを思い出していたら、ウインドウの向こう、さっきまで自分たちが歩いていた道に、二人の少年が立ち止まった。一人が上ばかり見て歩いていて、背の高いもう一人がごく自然な動作で、その少年の手を取って肩に乗せていた。
 高校生ぐらいだろうか。それなら、自分とほぼ同じ年――。
 どうやら背の低い少年は、身長のことをなにやら気にしているのか、急に歩き出したと思ったら、その影を同じ高さにしようと頑張っている。
 思わず、頬が緩んだ。
 自分も、学校に行っていたら、あんな友達が出来ただろうか。
 響貴は自分が、ひどく狭い世界にいることはわかっていた。それを能瀬も気にしていたし、たぶん、坂倉も心配している。
 響貴は坂倉がいればいいと思っていても。
「どうした」
 ふいに後ろから低いが穏やかな声で言われて、響貴はなんでもないと首を振った。それから、丸いサボテンと、上から見たら平たい葉が十字になっているサボテンのどちらがいいだろうかと坂倉に聞いた。そうしたら、坂倉が「二つ買えばいい」と言って、それをさっさと店員に渡してしまった。
「でも……」
「こんな小さいんだ。一つじゃ淋しいだろ」
 笑っていないが、坂倉の声は優しい。
 でこぼこのサボテン。同じサボテンなのに、全然違う二つ。
「育て方は知ってますか?」
 店員に聞かれて、坂倉は響貴を振り返った。もちろん、響貴も知らないから、首を振る。
 置き場所から水遣り、肥料を上げる時期まで聞いて、店を出たとき、響貴はその二つの小さなサボテンを大切そうに持っていた。
「刺、気をつけろよ」
「大丈夫だよ」
 初夏を感じさせる陽気だった。久しぶりに外に出かけようと誘ったのは、坂倉だった。そうでもしないと、響貴は能瀬の事務所と部屋のあるアパートの往復だけで日々が過ぎていく。
 まだ、ただふらふらと知らない場所を歩くことにどことなく抵抗がある。
「それにしても、結構面倒なんだな、サボテンも」
「そうだね。砂漠に突っ立ってるようなイメージあるから、何もしないでいいと俺も思ってた」
 でも、生き物だから少しくらい手間がかからないと面白くないでしょう? とあの可愛らしい店員は言っていった。でも、構いすぎるのも良くないんですよ、と付け加えて。
「まあ、頑張って世話しろよ」
 坂倉が目を細めるように笑う。
 それに、響貴は笑って頷いた。
 それから、ふと思い出して、先刻の少年を真似てみることにした。少しだけ前に行って、影の高さを揃える。でも、「何やってんだ」と呆れたような声をした坂倉に、何気なく腕を捕まれて、それはすぐに元に戻ってしまった。
 並ぶ二つのくっきりとした影に、これから強くなるだろう陽射しを響貴は思った。