そして流れていく愛しき日々に 02
真夏の夜編
真夏の夜 穂積・周編
あ、上がった。
周の呟きに、穂積も暗い空を見上げた。大きな音と同時に、ぱあっと赤い花が空に咲く。その残骸がきらきらと消えるまで見て、二人はまた歩き出した。二人とも、一本ずつワインの瓶を持っていた。
「始まっちゃったね」
「ああ。この辺りまでこんなに凄い人ごみになるとは思ってなかったからな……もっと早く出てくれば良かった。失敗したな」
人込み嫌いな穂積は、不機嫌な声を出した。今夜は大きな花火大会で、普段はそれほど込まないはずの道も、人で溢れている。朝から場所とリまでしている人たちもいるこの日、指月に特等席だと言うビルの屋上に招待されていた。場所とリには縁がないと、ゆっくり出てきたのが間違いだった。そこに辿り着くために、この混雑を抜けなくてはならないのだ。
「ちょっとearshotでゆっくりしすぎたな」
「でも、美味しかった」
穂積の悪友が経営するバーでワインを調達した際、周は初めてだからとビールをご馳走になったのだ。そのとき、つまみとして出された手作りだというソーセージは、周にドイツ時代を思い出させた。すっと、綺麗な仕草でそれらをサービスしてくれた若いバーテンに、どこで買えるのか聞いてしまったほどだ。実際は、バーテン見習だと言っていたが、つまみは彼が作るのだと鷲見が言っていた。
「もう少し近ければ、あのバーは鷲見が経営している割にはいいバーなんだけどな」
声が届く距離、というバーの名前どおり、少し親密な雰囲気を出しているバーだった。どの席もそこだけの空間を作っていて、確かに二人で行っても周りを気にしなくても良いかもしれない、と周も思った。
「鷲見さんが経営してる割にはって……鷲見さんが手がけた他のバーだっていいところばかりじゃないか」
デザイン系の外国の雑誌に取り上げられたこともある。確かに、色々勉強になる作りだと周も思う。でも、穂積、鷲見、指月は悪友と互いを呼んで、いつもお互いを貶してばかりいる。だが、本当はその才能を認め合ってもいるのだ。その辺りは、周にはわからないところだった。兄の尋由など、子供の意地の張り合いだ、と言っている。
「何がいいところだ。客を差別しやがって」
周には過剰なほどのサービスをした鷲見は、穂積からはきっちり料金を取っていた。だが、それよりも、周に色目を使っているのが気に入らない、と穂積は店を出たときから言っていた。
「……子供の言い合いね」
兄の言っていることもあながち外れていないんだよな、と最近周は思っている。
「なんだ?」
「いや、確かに、この人込みは予想外だったなあって……花火大会なんて久しぶりだからなあ」
周の顔が綻ぶ。指月と花火鑑賞など冗談じゃない、と思った穂積が、思わず頷いてしまったのもこの笑顔の所為だった。それに、パーティだと言っていたから、指月だけではなく色々な人間がいるはずだった。
わあ、と歓声が上がって、大きな柳の花火が夜空を彩った。どんっと腹に響くその音も凄い。
「近いね。これでビルの屋上なんか行ったら、もっと凄いのかも」
花火の灯りが、その無邪気なまでの横顔を照らして、穂積は自分の頬も緩んだのがわかった。思えば、まだ少年と呼べる年から、穂積は周の大人びた表情しか見たことがない。 ――いや、自分がそうさせていた。
それを、今見せてくれると言うのなら、随分と幸運なことだと穂積は思った。
「早く、行こう」
振り返って目を輝かせた周に、穂積は微笑を返して、止めていた足を動かした。
広・千速編
ずんずんと、自分のリーチも考えずに歩く目の前の大きな背中を追いかけながら、千速は少々の理不尽さを感じていた。
そうだよ。そもそも、遅れて来た広が悪いんじゃないか。
人込みの中でも、人より頭一つ分くらい背の高い広を見失う心配は少ない。それでも、避けながらじゃなくては進めないほどの混雑だった。
あれから、まだ一度も振り返っていない。
ため息を吐きたくなりながら、でも置いていかれたくはないと千速は足を緩めない。先刻から、無意識に左の二の腕を擦っている。広を待っている間に絡んできた、九重の卒業生だという先輩に掴まれた場所だった。
千速は、その先輩たちのことは知らなかった。だが、ときどき撮られた写真が卒業生にも流れているらしく、相手は「春姫の重藤千速」を知っていた。先輩だから、なんて考えたのが間違いだったのだ。いつもなら無視して冷たくあしらうところを、今日は上手く対処できなかった。
ちょっと遅れる、と電話をくれた広の後ろで、女の子の声が聞こえた。それが気になって、考え込んでいたのも不味かった。
広は大学のバスケ部の練習に参加していて、だからそこに女の子がいても可笑しくはない。山奥の、あの高校とは違うのだから。
そうだよ。そもそも、広が悪いんじゃないか。
広の大きな背中が千速は好きだった。でも、それは振り向いてくれるからであって、振り向かない背中は、嫌いだった。
不安になる。
また、置いていかれてしまうのではないかと、すごく怖くなる。
「……はや、千速!」
ふいに広の心配そうな顔が目の前にあって、千速は驚いた。
「ばか。ぼーっとしてたらはぐれるぞ」
肩をそっと掴まれる。それに、千速はむっと顔を歪ませた。
「……一度も振り返らなかった奴がよく言う」
それには広は何も言わずに、でも、困ったような顔をした。そんな顔はずるい。まるで自分が、子供の我侭を言っているようだ。
「悪い。千速は悪くないのにな。わかってても、感情が追いつかなかった」
かなり急いで待ち合わせ場所に走っていった広に、千速は「九重の卒業生なんだって」と笑って紹介したのだ。それも、腕を掴まれたまま。
笑っていたって、助けを求めていたのだと広にはわかった。だから、凄んで挨拶をして、千速を無理やりのように引っ張った。その凄んだ顔が、なかなか元に戻らなかったのだ。
笑うなよ、と思った。醜い嫉妬が沸き起こって、千速にまで嫌味を言ってしまいそうだった。だから、ただ無言で歩いた。
千速の大きなため息が聞こえてきて、広はどきりと心臓を鳴らした。ちらりとばつが悪そうな目で隣を見ると、千速が苦笑していた。
「俺、喉渇いたなあ」
「なんか飲むか? 何がいい?」
ちょうど飲み物を売る露天が少し先にあるのを見て、そこに誘う。千速は「ラムネ」と言った。
昔懐かしい、瓶入りのラムネを二本買うと、広はその一本を千速に渡した。どうやらそれで許してくれるらしい。寛大な恋人で良かった、と広は胸を撫で下ろした。
「広、やってやるから貸して」
空いた片手を差し出されて、広は「大丈夫」という言葉を飲み込んだ。
幼い頃、このビー玉を落とすのが、広は下手だった。と言うより、怖かったのだ。思い切りのよさが足りなくて、なかなかビー玉が落ちてくれなかった。それを千速が、いつも親指でぽんっと軽く落としてくれた。
いつから、強くなりたいと願っただろう。
今なら、本当に軽くこの蓋を落とすことが出来る。それでも、広は「ありがとう」と千速に瓶を渡した。
からん、と涼しげな音がして、ビー玉は落ちた。二人はなんとなく見詰め合って微笑んだ。たぶん、同じ光景を思い出しているのだ。あの、幼かった日々の。
「あ、上がった」
ふいに隣を歩く人から聞こえた呟きに、二人は空を見上げた。その日最初の、赤い花火が夜空に広がった。始まっちゃったね、と言いながら、隣の二人は歩いていく。でも、広も千速も立ち止まったまま、ラムネを呷った。
しゅわりと泡が口の中ではじける。
懐かしい味は、昔と変わりなかった。
真夏の夜 春日・真己編
あれ、海田だ。
春日は人より少し背の高い友人を見つけて、首を捻った。花火大会に来ることは知っていた。だが、彼はどう見ても一人に見えたのだ。
いや、後ろにいる。
いるはずの人物を見つけて、何故かほっとした春日はでも、珍しい光景だなと思った。この人込みの中、海田がずんずんと歩いて、重藤がその後を追っている。せめて逆ならばわかるのに、と思いながら、でも、海田はきちんと後ろを気にしていることも春日にはわかった。伊達に三年間、海田番をしているわけではないのだ。
「どうしたんだ?」
人込みに疲れて立ち止まった春日と真己は、小腹が減った、と訴えた春日の食料調達をしたところだった。真己の目の前に来て急に立ち止まった春日は、片手にたこ焼きを、片手にラムネ瓶二本を持っていた。
「いや、知り合い見つけた」
「学校の子?」
頷いて、ラムネを一本真己に渡す。自分はそれを開ける前に、たこ焼きに手を伸ばした。
「ほら、あそこ。前に話した、バスケ部の主将。西の白虎だよ」
ほら、と指された先は道の反対側で、どの人物を指差しているのか、真己にはわからなかった。なにしろ、ひどい混雑なのだ。
「……よく、わかったね」
「ん? だって俺、あいつの担当だからな」
あっさり言ってのけるのが悔しい、と真己はラムネ瓶のビー玉をぐっと押した。しゅわっと、泡が立つ音がする。
「はは。あいつらもラムネ買ってる。普段は別に飲もうと思わないけど、こう言うときってなんで飲みたくなるんだろうな」
楽しそうに笑う春日の耳を、真己はちょっとばかりぎゅっと力を込めて引っ張った。
「いて。なんだよ、真己」
一体、今誰とここにいるのか、わからせないといけない。少なくとも、目の前に自分と言うものがいるのだ。
「真己?」
訝しげな春日を無視して、その手の上からたこ焼きを一つ失敬する。頬張って、おお、結構大きいたこだ、と感激しつつも、声には出さない。一方春日は、急に機嫌悪そうに目を眇めた真己を、困惑顔で眺めていた。
沈黙が続いて、どうしようかと春日が口を開いた途端、どんっと大きな音がして、背後の夜空に赤い花火が打ち上げられた。それを振り返って見てから、春日はまた真己に視線を戻した。
「真己、怒ってる?」
「怒ってないさ」
いや、怒っているだろう。春日はどうしたものか、とラムネを一口飲んだ。きつい炭酸が口の中をぴりぴりと刺激する。そう言えば、初めてラムネを飲んだとき、その刺激に驚いて飛び回ったな、と思い出した。真己が美味しそうに飲んでいて、自分も欲しいと強請ったのだ。
ふっと春日の口元が緩んで、真己は眉根を寄せた。怒ってはいないが――嫉妬はしている。情けないほどに、余裕がないのだ。それを何とか繕おうと思ったのに、結局この年下の恋人の方が余裕綽々なのだ、いつも。
「なんだよ」
「ん?」
「笑ってる」
不機嫌なままの声の真己に、春日は優しい目をして、今度はにっこりと笑った。
「いや、子供のときのこと思い出してさ。ほら、俺が初めてラムネ飲んだとき。口の中で泡がはじけるのにそれはもうびっくりして、飛び上がったの覚えてない?」
言われて、ああ、と真己も口元を緩ませた。
「覚えてる。目を思いっきり見開いてさ、大変大変、って俺にしがみついてきて」
「そうだったっけ?」
「なんだ、そこは覚えてないのか? じゃあ、その後自分が何て言ったか覚えてるか?」
「え? 何か名言吐いた、俺?」
言った言った、と真己が頷く。それから、ラムネをぐいっと飲んで、また笑う。
「真己ちゃん大変、お口の中で花火が上がってる」
あまりの可愛い言い草に、周り中爆笑したのだ。それからしばらく、春日は炭酸飲料を欲しがらなかった。
「覚えてねー」
「あのときは、可愛かったよなあ」
「今は可愛くなくて悪かったな」
「はは。いいんだよ、かっこいいんだから」
どうやら、機嫌は直ったらしい。でも、さらりとそんな言葉を言わないで欲しい。
どんっと上がった花火に、春日の赤い顔が照らされた。
伊織・和音編
花火を見に行かないか、と言ったのは伊織だった。人込みは避けていると思っていた和音は、それに驚いた。
「別に今現在で、やばい仕事をしてるわけじゃないし……そういう情報も入ってきてないから、大丈夫。こういうときは、返って人込みの方が良いしね」
伊織がそう言うのなら、和音に反対する理由はなかった。それどころか、嬉しかった。外を歩くときは、神経質にならざるを得ない。だから、和音もどこかに出かける誘いはあまり掛けたことがなかったのだ。
花火大会の会場は、伊織の部屋からそう遠くない場所だった。ただし、その部屋から花火を見ることは敵わない。ビルに囲まれた古いアパートだからだ。
近くのバーで待ち合わせて、会場に向かった。いつもはそれほど賑やかではない地域なのに、今日ばかりはそんな路地裏までどこか落ち着かない感じだった。
思ったよりもひどい混雑で、二人は早々に会場まで行くのは諦めた。今いる道からでも、十分花火を見ることは出来る。夜店を冷やかしながら、のんびりと歩くことにした。食欲を誘う匂いが漂い、色鮮やかな露天ののれんがはためいている。自分が幼い頃に見たものとは随分違うお店が多くて、和音はいちいち珍しそうにそれらを覗いた。
何か食べて飲もう、と伊織が言って、和音も頷いた。たこ焼きと焼きそばとお好み焼きと……とオーソドックスな夜店のメニューを上げる。いか焼きもいいね、と伊織が言って、お好み焼きがいか焼きに変更された。
それなら飲み物は、と考えたところで、ラムネの甘い匂いが漂ってきた。誰かが近くで飲んでいるのだ。すぐ傍を、片手にラムネを二本、もう片方の手にたこ焼きの皿を持った青年が通り過ぎていく。
「ラムネかな?」
「健全だね」
「はは。伊織はビールが良いならどうぞ」
和音はバーで既に一杯飲んでいるが、直前に急な用事が出来た伊織は、バーには入っていない。もうすぐ着くから出てきて、と言われて、二人は外で会ったのだ。
和音には、幼い頃ラムネを飲んだ記憶は、あまりない。それなのに懐かしいのはどうしてだろうと思う。
買った食べ物は和音が持って、伊織は飲み物を買いに行った。人込みから抜けて、夜店の裏側に回ったとき、どんっと音がして花火が上がった。
街並みの向こうに、花火が煌く。その大きさに、和音は驚いて目を見開いた。
「始まったな」
ラムネとビールを抱えて戻って来た伊織も、同じ空を見上げた。二発目のしだれ柳のような花火が、黒い空を彩る。
「……和音? まさか初めて見るわけじゃないよな?」
あまりに驚いた子供のような顔をしている和音にそう尋ねると、和音は首を振った。
「違うけど、こんなに近くで見たのは初めてかもしれない」
まだ遠い方なんだけどな、と思いながら伊織は微笑んだ。煌きながら落ちるその欠片も見逃さないと、和音はじっと空を見ていた。
「ほら、食べよう。それからもう少し近くまで歩いてみよう」
はい、とたこ焼きを突き出されて、ぱくりとそれを食べる。もの凄く久しぶりに食べると、そのときになって和音は思った。
「美味しい」
もごもごとしながらも思わず呟くと、伊織も一つ頬張って、にっこりと笑った。
「この親父さんのたこ焼きは絶品なんだよ」
和音がその親しげな口調に驚いた目をすると、伊織は笑ったまま「毎年買ってるんだ」と言った。
裏事情を話せば、このテキ屋の親父は情報屋もやっている人物であり、伊織も何度か一緒に働いているのだった。でも、そこまで和音に話すつもりはなかった。今夜は本当に、花火を見に来ただけなのだから。
ゆっくりとした間隔で、花火が上がる。散る光が出す音に、和音は「こんな音まで聞こえる」と少し興奮気味に言った。
食べ物をあっと言う間に片付けた二人は、少し歩くことにした。昼間の暑さが残っていて、人込みに余計に熱気を感じる。それでも隣に感じる熱は特別で――和音はなんとなく左隣を見上げた。
どれだけ混んでいても、伊織はゆったりと歩く。それに付いて行けば、和音も混んでいる割にはするりと歩けるのだ。
「どうしたの?」
じっと見つめる和音に気付いて、伊織が微笑む。それに、なんでもないよ、と答えた途端、大輪の花火が夜空に咲いた。
ただなんとなく、こんな風に伊織が隣にいることが、和音には不思議だった。焼きそばを食べ、たこ焼きを食べ、ビールを飲んで……自分はまるで、学生のようなはしゃいだ気持ちになって。
伊織はそれ以上、何も言わなかった。二人はただ、そっと手を触れ合わせて、並んで歩いていった。
東・イズル編
煩くはないが賑やかな客が去って、イズルはグラスと小皿を洗った。ワインを取りに来た二人のうち一人は鷲見の悪友で、もう一人はドイツに行っていたことのある青年だった。(この青年が、二人のことを「悪友」と言ったのだった。)
最近見つけた手作りの腸詰屋から仕入れたソーセージを味見してもらったイズルは、確かに美味しいと本場の味を知る人間にお墨付きを貰って、ほっとしていたところだった。
今夜は、近場で花火大会がある。近所と言うほどではないが、しっかりと音は聞こえてくるような距離だった。その所為か、週末だと言うのに今日は客が少ない。今も、カウンターに一人、奥の席に二組の客がいるだけだった。
カウンターの客は人待ち顔で、この人も花火大会かな、とイズルは思った。
ふと携帯が震えて、客がメールを見た。待ち人は来るのかそれともキャンセルなのか――彼は立ち上がって、お金を払った。表情を見る限り、待ち人来たる、だ。
イズルは自分を待っているはずの人物を思い浮かべて、小さくため息を吐いた。花火を見ようと誘われて、でも、バイトがあると断った。それでも、どのみちそのホテルに泊まるから、とその場所も部屋番号もメールしてきた。花火が終わってからでも良いから、来て欲しいと。
忙しい東と会える機会はなかなか訪れない。だから無理にでも会いたいと思うが――自分が東一色になってしまうのは怖かった。二人は、恋なんていうあやふやなもので結ばれて、一緒にいるだけだ。ましてや二人は男同士であり、東は芸能界と言うプライバシーなどないような場所に身を置いている。不安がないはずがなく――それでも今こうしてイズルが東のことを想ったりできるのは、未来を考えないからだった。
会いたい、と率直に綴られたメールの言葉は、そのままイズルの気持ちでもある。それなのに、約束できなかった。会いに行くと、答えられなかった。
どこかで自分を抑えなければ、いつかきっと傷ついて後悔する。
「イズル、今日はもう上がっていいぞ」
無心でガラスを磨いていたら、鷲見から声が掛かった。オーナーである彼はあまり店で顔を出すことはないのだが、今日は先刻の二人のために来ていたらしい。結局は仲の良い「悪友」なのだと、イズルも青年に賛成した。
「上がっていいって……でも」
「ご覧の通り、今日は客も少ないからな。例年、この日はあまり人が来ないんだ。だから、いいよ、行って」
東との約束を知っているんだ、とイズルは頷くことも首を横に振ることもできずに思った。仕事なのだ。中途半端にはしたくない。東のところに行きたいのなら、最初から相談して休みを貰った。
「イズル……頑固さはおまえの親父に似たな。そういうところは似るなよ。とにかく、今日は大丈夫だから」
「俺も、大丈夫ですよ」
「イズル、たまには我侭になるべきだ」
「我侭なんていいことじゃないですよ」
きゅっと音がして、イズルは目の前にグラスを翳した。磨き忘れがないか、チェックする。
「じゃあ、素直になれ、か。きついだろう、そう言われると」
最後のセリフに、イズルは手を止めた。隣を見上げると、父親が苦笑したときのような顔をした鷲見がいた。
「鷲見さんには、勝てないなあ」
「そもそも俺に勝とうなんて言うのが生意気だ。ほら、着替えて来い」
ぽんっと肩を叩かれて、イズルも観念した。他の従業員に挨拶をして裏に入ったところで、鷲見がひょいっと顔を出して白ワインを一本掲げた。
「これ、持っていけ」
「え?」
「貢物だ。これからもご贔屓にって、言っておいて」
東のようなライフリーダー的な人間が訪れると言うのは、その店にとって確かなステータスにもなる。ただし、earshotは隠しておきたいと思っている東は、もう一つのeyeshotにもよく顔を出して、イズルがいる店では極力プライバシーを侵されないようにしていた。そこは鷲見もわかっていて、二人の間では取り引きめいた暗黙の了解がなされていた。もともと、earshotは小さなバーだ。静けさと落ち着きがうりなこともあるから、鷲見も派手な宣伝などはしない。
「あの、でも……」
「いいから持って行きなさい」
鷲見は時々、こうして父親めいた口調をする。結婚をして自由を奪われたくないと公言しているやり手オーナーは、だが親友の子供をまるで自分の子のように扱うのだった。
イズルは、ありがとうございます、と頭を下げて、着替えをした。壁の時計をふと見ると、花火の打ち上げは始まっているが、これなら十分楽しめる時間帯に東に会えそうだった。
ワインの入った紙袋を抱えて、裏道を歩く。賑やかなざわめきはそこまで届いてきていて、イズルはそれを一緒に楽しめない東の身に嘆息した。仕方がないとわかっている。だが、それが精力的な東から自由を奪っていると考えると、哀しいような気持ちになる。
そんなことを考えながらホテルの部屋をノックしたイズルは、東の驚いた顔とすぐに嬉しそうに綻んだ顔に、ああ来て良かった、と鷲見に感謝した。自分の職業が原因の不自由さに、最も歯痒い思いをしているのは東自身なのだ。それでも、俳優をやめられない自分に。
「早かったんだな」
「うん。これ、鷲見さんから。これからもご贔屓に、だって」
「狸親父に言われても贔屓する気にはなれないけどな……まあ、ありがたく頂こう。それと、何かルームサービスをとろうか」
食べてないだろう? と言った東は、こんな日に花火の見えるホテルの最上階を確保して見せたにも関わらず、普段と変わりなかった。
あれもこれもと頼んで、二人は夕食をとりながら花火を見た。人目を気にすることなく二人で騒ぐことが出来たのは、ホテルの部屋だからだ。窓を開け放って音も存分に楽しんだのは、本当は外でこの花火を満喫したかった東の願望だった。
心底他人の目を気にしているのは、東ではなくイズルだった。二人のことが暴かれたら、この関係は終わるのだと、イズルは確信している。そのときは、イズルはあっさりと身を引くだろう。内心はどうであれ、きっぱりと潔く。
いつの間にか沈黙が漂って、イズルは広いバルコニーに出た。花火を見るために室内照明はかなり落としてあって、外に出てしまえば闇に包まれる。だが実際は、後ろから温かい身体に包み込まれた。
慌てて振り払わなかったのは、ホテルの最上階であるということと、闇があったからだ。そして何より、東も不安があるのだとわかったからだった。イズルは後ろの肩に頭を預けると、そっと前に回された腕を撫でた。
「春には花見に行ったし、夏は花火だろ? 秋は紅葉狩りに行って、冬はどうしようか」
「温泉、スキー、スノボー……いっぱいあるな」
「冬になったら考えればいいな。それから、来年……」
イズルが何を言いたいのか察して、東は微笑んだ。きゅっと腕の中の身体を抱き締めると、近くの頬が緩んだのがわかった。
「またあそこに花見に行くのは外せないな。花火も見よう」
その先も、ずっと一緒に。
保証も確信もない。でも、今の二人にとっては、そう約束することが大切だった。
夜空に、いくつもの花火が散った。二人はしばらくそのまま、その花火を眺めていた。