そして流れていく愛しき日々に
春うらら編
幸野・ユーゴ編
「あれ、幸野さん、香水変えた?」
呼び出されて、部屋に飛んできた途端、ふわりと漂った香りがあった。いつもとは違う、匂い。ユーゴは思わず、腕の中から幸野を見上げた。
普段は爽やかで、すっきりした香りを纏う幸野だ。甘い花の香りは、違和感があった。どうしたって勘ぐってしまう。ユーゴの身体が、変に硬直した。だが、幸野はそれを宥めるように、くすりと笑うと、そっとその背を撫でた。
「よく気付いたな。料理は匂いも関係するから、敏感なのか?」
「敏感かどうかは……でも、確かに鼻が利いたほうが有利でしょうね」
ぎゅっと抱き締められると、いつもの幸野の香りがした。そこでようやく、漂っているのは香水ではないとユーゴは気付いた。
「幸野さん? これ、何の匂い?」
幸野は笑って、手を緩めた。ユーゴはそこからぐるりと部屋を見渡した。
「わあ、どうしたんですか、あれ」
「知り合いに貰ったんだ。郊外に家を持ってる奴でね。庭に植えているらしい」
キッチン前のダイニングテーブルの上に、大きな花瓶に刺さった黄色い花が見えた。ユーゴがするりと幸野の腕を抜けて近寄ると、いっそう香りがする。花は、両手に抱えきれないほどあった。
「これ、ミモザですよね?」
「ああ、良く知ってるな。君は料理だけじゃなくて、花にも詳しいのか」
花の匂いを嗅いでいるところを後ろから抱き締められて、ユーゴは微笑んだ。
「花にはそれほど。ただ、ミモザは砂糖漬けでお菓子類に使ったり、ミモザサラダって、ゆで玉子を使ったサラダのことを言ったりするんです」
「ああ、カクテルにも、ミモザっていうのがあったな」
幸野はそう言うことには詳しい。ユーゴは「ええ、黄色のカクテルですね」と笑った。
「さあ、誤解は解けたようだし、夕飯を作らないか?」
幸野がいやににやついた顔で言うので、ユーゴは軽くその顔を睨んだ。気付かない振りをしてくれたと思ったのに。
こんな些細なことで嫉妬をしたなど、自分でも情けない。
それでも幸野はにやけた顔のまま、嬉しかったけどね、と口付けてくれた。そうされたら、ユーゴだって頬を緩めないわけにはいかない。
「今日はその、ミモザサラダっていうのを食べたいね」
言われて、ユーゴは満面の笑みで、頷いた。
蘇芳・カイ編
風が吹いて、桜が散った。
カイは足を止めて、空を仰いだ。一律同じ、青い空。トウキョウと違って、ここのカバーフィールドには雲は流れない。
蘇芳が僅かに身を屈めて、ふうっとカイの頭の上に乗っていた花びらを吹き飛ばした。カイが見上げたままの角度で視線を横に流すと、キスを落としてくれる。
「咲いては散り、咲いては散り――桜も忙しいよね」
カイがぽつりと呟くと、蘇芳も近くの桜の木を見上げた。
カバーフィールド内は一年中春の陽気だ。おかげで桜は一年に二度三度と咲くようになってしまった。花を散らした後、桜の木は新葉を芽吹かせる。それが色づき始めると、あっという間に葉が落ち、やがて薄いピンク色の蕾が見え始める。
――生き急ぐようだ。
その桜の様子を、誰かがそう言った。実際、カバーフィールドがなかった時代に比べて、桜の寿命は半分、または三分の一の五十年から三十年ほどになってしまったのだと言う。
「結局、自然に逆らうってそう言うことなのかもね」
カイの言葉に、蘇芳が後ろからぎゅっと抱きついてきた。
つぎはぎで出来た自分の身体が、どれほど保つのかカイにはわからない。同じようにして作られた王太子の浅葱は、身体と脳の差異に、狂ってしまったと言う。彼がどうなったのか、カイたちは知らない。
はらはらと、花びらは落ちつづける。カイは蘇芳の頭の重さを肩に感じながら、咲き誇る桜をじっと見つめた。
いつ壊れるかわからないカイの身体を、一番怖がっているのは蘇芳なのかもしれない。カイは出来るだけ穏やかに終わって欲しいと願うばかりだった。
残されるのは、蘇芳なのだ。
自分のために、何もかもを捨てて蘇芳は一緒にいてくれる。その蘇芳を残していくのだ。
「蘇芳――」
謝ることも、感謝をすることもしない。まだ、終わりではないから、その言葉は言わない。
ただ、愛していると、それだけをカイは伝えた。
風が吹いて、花びらが舞った。二人はゆっくりと、家への道を歩き出した。