そして流れていく愛しき日々に
七夕編(広・千速編)
ペットボトルを左手に、薄水色の短冊を右手に持って、千速は何を書こうかと考えていた。書き終わったら、笹に吊るしに行こうと広と約束している。それ以外、動く機会がない。春姫という名称は、こう言うときはとても面倒だ。七夕には織姫と彦星は必須だと、今日は夕方からずっと、浴衣を着せられ、写真を撮られ、本部席に坐らされている。
足をぶらりと揺らすと、からんっと下駄が音を立てた。
浴衣を着るのを承知したのは、広も着ると言ったからだ。自分ではどこか優男風になってしまうが、がっしりとした体格の広なら、きっと似合う。執行部仲間となにやら話している広をこっそりと見て、千速は内心うっとりとした。白地に、濃淡のある何本かの青い線が入っている浴衣は、麻だと言うことだった。同室の梅野は母親の趣味でこういったものに多少知識があるらしく「小千谷ちぢみだ」と目を見張っていた。一体誰の浴衣なのか。広は借り物だと言っていた。
去年の濃紺の浴衣も良かった。七夕祭りの後、写真が出回るのは知っているが、千速は同じ学校の男子生徒の写真を買うなど馬鹿馬鹿しいと思っていて、買ったことはない。頼んで撮ればいいのに、と思っているのだ。ただ、去年の広の七夕の写真だけは、欲しかった、と思っている。
「まだ書いてないのか」
呆れた声に上を見上げると、深山がいた。彼もまた、強制的に浴衣を着せられた一人だ。その上、イベント前のゲームに恋人が巻き込まれ、深山は準備会の責任者をしていた。少し疲れた顔をしている。
「深山は? 書いた?」
広の椅子を指して坐れば? と促したが、深山は長居したくないとばかりに首を振った。
「書いたよ」
「何て?」
「そりゃあ、俺は常に寮生を思ってる寮長だからね。寮の平和を」
それはまた皮肉一杯だ。千速が思わず笑うと、深山も口の端を緩めた。しかしそれでは、参考にならない。
「まあでも、せっかくだから、素直な願いでも書いたら?」
深山はそう言って、ひらひらと手を振ってどこかに行ってしまった。
素直なね、と千速はなんとなく広を見た。何か揉め事でも合ったのか、後輩たちに指示を出している。千速は勝手に動かないように、と言われていたが、広はそうはいかない。先刻からあちこちに呼ばれては、隣からいなくなってしまう。
本当は、それが少しだけ不満でもある。いや、不安だった。
そんな風に、いつか隣からいなくなるかもしれない。広は千速にとっては幼なじみで、友人で、それ以上に大切な人間でもある。でも、当たり前のことだが、広は千速だけのものではない。執行部の仕事や部活の部長としての広を見ていると、ひどく不安になることがある。広は多くの人間に必要とされ、頼られている。たぶん、これからもずっと広は変わらないだろうし、もっと多くの人間に必要とされることだろう。
千速はボールペンを手に持って、短冊を書き始めた。
――このままでいられますように。
本当は、ずっと隣にいられますように――というのが一番の願いだった。でも、いくら校内公認と言えども、あまり露骨なことは書けない。
書き終わって顔を上げると、広が戻ってくるところだった。千速と目が合って、ふっと笑う。優しく目が細められた。
そう、今のままでいい。それだけでも、幸せだと千速は思う。
どこかに行ってしまっても、こうして戻ってきてくれるなら。それだけで。
バレンタイン編(深住・陽編)
二月十四日という日を、陽は気にした事はない。学生の頃は全く縁がなかったし、今は職場に行くと花江がチョコレートをくれるから思い出すが、それ以上の日になったことはなかった。それは今年も同じ――そう、思っていた。
深住から「明日おいで」とメッセージを貰ったのは前日で、でも、日付のことなど少しも考えなかった。
だから、目の前に高そうなチョコレートの箱が現われたとき、陽は目を見開いてしまった。
「深住さん……これ……?」
「チョコレート。美味しそうだったから。陽は甘いものも好きだろう?」
ぱかりと蓋を取って、深住が差し出してくる。いつものように食事をして、コーヒーを飲んでいるときだった。
確かに、陽は食事に行くとデザートまで楽しむし、コーヒーを飲みながらチョコレートを食べるときもある。でも、この日に深住からチョコレートを貰うとは、思ってもいなかった。
小さな塊を一つ、摘む。四角い石畳のようなチョコレートは、アルコールに少し火照った陽の手の先で、すぐにも溶けそうだった。慌てて口の中に入れると、とろりと溶けていく。
美味しい、と微笑んだところで、手首を掴まれた。驚いて深住を見ると、いつもの甘い顔があった。ゆっくりと手を引かれる。それから、深住は陽のココアの付いた人差し指を、ぱくりと口に含んだ。
「……っ!」
驚いて、絶句してしまう。ぺろりと口の中で深住の舌が動いたのが分かる。
なんか、すごく――。
陽はどんどん顔が赤くなっていくのがわかった。深住はそれを、楽しそうに見ていた。
「陽、親指も舐めていい?」
ようやく人差し指が解放されたと思ったら、今度はそんなことを言ってくる。
――訊かないで欲しい……。
陽は顔を真っ赤にして、口をぱくぱくと動かすしかなかった。
甘い目とか、さりげないエスコートとか、甘やかしとか、深住は陽が赤面するようなことをいつもさらりとやってのける。陽はその度に顔を赤くして、ぎくしゃくとしながらもなんとかそれを受けるのだが、今回ばかりは、絶句するしかなかった。
答えがないのを了承としたのか、深住は笑いながら親指を咥えた。
心臓が痛い。頭に血が上りすぎて、倒れてしまいそうだと陽は思った。
だがもちろん、深住がそんなことを許すわけがない。陽が倒れる前に、深住はその腰に手を回し、口付けてきた。
さっき指を舐めていた舌が、今度は陽の咥内をゆっくりと舐め回す。ここまでくれば、陽も恥かしいとか、考えなくなる。
あとはただ、深住に翻弄されるままになればいい。
アメリカ出張から帰ってきた深住に、まず教え込まれたことだった。
任せてしまえばいい。何も考えずに。
深住に、全て――。
四月の魚――お好み焼き――編(九重大附属シリーズ)
お好み焼きが食べてえ。と呟いたのは、失敗だった。
朝から印刷の終わった九重月報を折ったり重ねたり、ホームページの更新のための原稿を打ち込んだりして、ようやく一息ついたときだった。昼食も片手で食べられるお握りで軽く済ましただけだったからだろう。俺は手にミルクティーを持っていたのに、なぜか幻のソースの匂いを嗅いだのだった。で、呟いてしまったのだ。お好み焼きが食べてえ、と。
「言い出しっぺは長柄だから、買い出しよろしくー」
俺の呟きを耳ざとく聞いた宮古部長に「お、いいねえ。夕飯はお好み焼きにしようか」と言われ、部室は瞬く間にお好み焼き談義に花が咲いた。そして、それぞれが拘る材料を書いたメモを渡され、部室を追い出されたのだった。
春休み中の九重では、食事は生徒自身が作らなければならない。最近は忙しくてまともに食事をできる状況ではなかった報道部の連中は、お好み焼きと言う言葉に大いに夢を見たようだった。
それにしたって、一人で行けって言うのは無理だろ。
報道部だけでも、現在部員は十八人。同室者や友達を呼ぶと言った部員もいるから、材料は二十五人分を越えていた。俺はやれやれと、南寮の友人、岡崎圭を訪ねた。岡崎は料理研究会会長で、その料理の腕には定評がある。
「メール読んだよ。結局何人なわけ?」
「あー、最低二十八人? そっちは、西沢とかも来るんだろ」
「稜と雅道と坂城。で、坂城と稜を買い物に差し出すから」
「あれ、おまえ行かないの?」
「基本の材料のメモは渡しといたから。俺は先生のとこ行って、調理室の許可貰ってくる」
「ってことは、先生も、か?」
「大丈夫。材料は三十五人分だから」
三十五人分……それも食べ盛り男子高校生ばかり。岡崎がそこを間違えたりはしていないだろう。三人で本当に大丈夫なのだろうか。
西沢と坂城と一緒に、街までバスで降りる。岡崎の渡したメモを見て、二人は目を丸くしていた。
報道部の連中が書いたメモには、お好み焼きの材料以外にも、ジュースやらポテトチップスやら菓子まで入っていた。打上げを兼ねるから少し部費から出るはずで、それを当てにしているのだ。
かごに次々と材料を入れていく。三人それぞれ一つずつカートを持たなければならず、一つのかごはキャベツだけでうまっていた。
「持てねーだろ、これ」
「キャベツだけで凄いのにな。三人って無謀」
恨めしそうに見られて、俺はため息を吐いた。
「一応、報道部はまだ部活中なの。ここは運動部の出番だろ」
そう言って、二人には肉と卵を探してくる任務を与えた。
二人には仕方がないというようなことを言いながらも、ジュースのボトルを手に、俺はつい迷う。これ入れたら、また重くなるんだよな……。
「おまえら何その大量のキャベツ」
ふいに声を掛けられて振り向くと、海田先輩がいた。私服姿がなんだか新鮮だ。
「お好み焼き?」
海田先輩の後ろから、重藤先輩が顔を覗かせた。今期の春姫(候補)だ。
「あれ、海田統括! 帰ってきたんですか。ご実家でしたよね? 早いですね」
肉を探しに行っていた西沢と、卵を探しに行っていた坂城が合流する。こんもり盛られたパックや菓子類の袋に、思わずうんざりした。
「おう、今から寮に帰るとこ。この時期忙しいからな。家でゆっくりってわけにもいかないだろ。それより何だ、今晩はお好み焼き大会?」
「そうなんですよ。こいつが」
と、西沢に指差される。
「お好み焼き食べたいって言ったらしくて。今の報道部、月報の締め切りが終わって、餓えてるとこなんじゃないですか。盛り上がったらしくて、俺たちも引き摺りこまれたんです」
「人聞き悪いこと言うなよな。俺は岡崎に協力頼んだだけ」
調理室を使うには、岡崎の協力がないと難しい。料理大好きなあいつは、勝手に使った上に少しでも汚したままだともの凄く怒られる。
海田先輩は、なるほど、と頷いた。
「統括たちもどうですか? 夕飯食べてから帰るつもりですか?」
「いや、買出しして、部屋でと思ってたけど」
どうする? というように重藤先輩を見る。間近で見ると、こう言うときの海田先輩の目は本当にやばいほど甘い。海田先輩が重藤先輩をそれはそれは大事に想っていることは、運動部並びに報道部内では周知の事実だ。が、当の本人が全然気付いていないのが、なんだか切ない。
「楽しそうだし、聞いたらお好み焼き食べたくなったけど、いいの?」
重藤先輩に言われて、俺たちはもちろんと頷いた。この二人なら、大歓迎だろう。
ただ、それで良かったのかと海田先輩を見ると、肩を竦められた。
「あ、俺、余計なこと言いました?」
ふいに西沢が気付いてそう洩らすと、海田先輩がその西沢を睨んだ。そっちの方が余計な一言だろう。実際、重藤先輩が不思議そうに首を傾げた。
「千速、プリン買うとか言ってなかったか? 忘れないうちに探して来いよ」
海田先輩に言われて、重藤先輩は「あ、そうだ」と冷蔵品コーナーへと足を向けた。さすが海田先輩。長年その想いを隠してきただけある。
「うわ、すいません……」
謝る西沢に、海田先輩もゆるゆると頭を振った。
あれだけ大事にしながら、本人には絶対知られないようにするっていうのは良くわからない。まあでもその辺りは、本人達の問題があるのだろう。
「それより坂城、高居も寮にいるよな」
「ええ、多分……。今日の部活には来てましたけど」
「じゃあ、高居も呼んでおいて。同室の梅野も一緒にな」
俺も運ぶの手伝うから、と言われて、恐縮してしまう。坂城は「わかりました」と頷いた。
その後、増えた人数のことも考えて、キャベツと肉のパックをもう一つずつ増やし、各自両手に二つずつの袋を手にバスで学校まで向かった。重藤先輩にまで手伝ってもらい、俺たちは恐縮しっぱなしだった。基本的に、先輩方というのは怖いが優しい。
重藤先輩が荷物を持ってくれると言ったとき、実は俺たちは瞬時に首を振っていた。そんな先輩に持ってもらうなんて! と言ったらでも、「広だって持ってるじゃん」と言われてしまった。まあ、海田先輩は鍛えてるし、重藤先輩に荷物持ちなんてさせたらその海田先輩に何を言われるか……と思ったのだけれど、実際はその海田先輩が「千速も手が空いてるし、持ってもらえよ」と言ったのだった。
俺は驚いてでも、ああそういうことか、と納得した。以前、宮古先輩が言っていたのだ。「海田は間違えないよな」と。
いくら春姫(候補)と言われ、綺麗という形容が似合い、華奢な印象があるとしても、重藤先輩も男だ。だから海田先輩は表立って守ろうとしないし、――本当は本人が自覚してくれれば一番いいとも言っていた――甘やかしたりしない。そういう、ことなのだ。
夕飯は、結局四十人近い人数となり、まるで調理実習のような様相だった。正し、それぞれが拘りのお好み焼きを作ったので、品評会のようにもなり、面白かった。そのうち、「お好み焼き九重一決定戦」をやることにもなった。こういうのりが大好きな俺としては、楽しみで仕方がない。
買い物は大変だが、さて、次はなんと呟いてみようか。