遠景涙恋  番外編 (握手お礼)


幕間 01: おしゃべりな侍女たち

 柔らかな光が部屋中に満ちていた。白の季節となった今、こんな麗らかな陽気は、人々を幸せにする。
 きゃらきゃらと、その光に反射するような声が、石畳のその部屋に響いた。水に濡れた石が、きらきらと光っている。天気の良い今日、侍女たちははりきって、洗濯に精を出していた。
「ねえ、今日はいらっしゃるかしら?」
「誰が?」
「リーフィウ様よ!」
 一人の侍女の声に、十人近くいた他の侍女たちの手が一瞬止まる。だが、すぐにまたごしごしと、服やら布を洗い出すところは、さすが働き者の侍女たちだった。水場に集まればおしゃべりに花を咲かすのは、どこでも同じ。ましてや、女ばかりである。
「キーファ王は今日はあまり忙しくないようだから……いらっしゃるかもしれないわね」
 朝にキーファの支度を手伝う侍女が呟くと、きゃーと甲高い歓声が上がった。
 先日、キーファが暴れたところを治めて以来、リーフィウは王付きの侍女たちに気に入られていた。いつも殺風景なほどに味気ない夕食が、あの日は心暖かいものだった。決して大騒ぎをするわけではなく、だがゆっくりと二人が食事をしている様子は、給仕をする侍女たちの緊張感も和らげた。いつもなら、またいつ王が暴れだすかわからないと、びくびくしているところだ。
「どうせなら、毎日来てくださればいいのに」
 大きな布を目の前に広げて洗い忘れがないか確かめていた侍女が呟いて、その場にいた侍女全員が頷いた。
「だって気付いていた?リーフィウ様がいらっしゃると、キーファ王のお酒の量が減るのよ」
 そうそう、と他の侍女が言う。
「あれ、リーフィウ様が仰ったのよね。飲み過ぎですって」
「まあ、そうなの?さすがだわー」
「お酒が過ぎませんかって心配そうな顔して言われたら、あの王も、ねえ?」
 ざばり、と水が流れる音に混じって、きゃらきゃらと、侍女たちの笑い声が響く。その中には、本当によく仰って下さったわ、と安堵のため息も混ざっていた。何だと言って、みんな王のことを心配しているのだ。
「そうそう、この間なんか、ねえ」
 隣の侍女が、目の前の仲間に笑いかける。どうしたの?と斜め前の侍女が興味津々と言った瞳をした。ここにいる全員が、食事時に給仕をするわけではない。食事係は当番制なのだ。
「食事じゃなくてね、その後なんだけど、ほら、もう寒くなってきたじゃない?せめて午前中だけでももう一枚、羽織って頂きたくて用意したら、いらないって言われて」
「ほんと、王は子供のようよねえ」
 動きずらい服は、とにかく嫌がる。王としての自覚より、剣士の自覚のほうが強いからなのだろうが、それならばそれで、きちんと服を着て欲しい。着乱れた服に、大臣達はいつも眉根を寄せるのだ。それでは、身の回りの世話をしている侍女たちの肩身が狭い。
「で?リーフィウ様がまた何か?」
「別に着た方がいいって言ったわけじゃないのよ。確かに今日は冷えますね、って言っただけなんだけど」
 くすくすと、その侍女は思い出し笑いをした。
「そうそう、それがまた、心配そうな目をしていて。だから王もそれ以上嫌って言えなくて……」
 その場にいたのだろう、もう一人の侍女がほうっとため息をついた。
「キーファ王、素直に服に手を通したのよねえ。まったくキーファ様って」
「可愛い」そう呟いた声は重なっていて、みんなは顔を見合わせて笑った。
「本当よねえ。健気って言うか」
 キーファ本人が聞いたら、怒り出すか呆れるかしそうだ。
「そうそう。シャリス様なんて、リーフィウ様に手当ての仕方とか教えてらして。薬とかも、リーフィウ様がいるときは、いつも「取って下さいますか?」とかお聞きになるのよ」
「それで、王は何も言えずに受け取ってしまう、ってわけね」
 くすくすとした笑いが、麗らかな日に溶けていく。
 イーザとシャーナは、扉の外でその会話を聞きながら、小さく吐息を吐いていた。今はルク王子とルク姫のお付きとなっている二人は、以前はキーファ付きの侍女だった。
「……まあ、みんな王を好いているのには変わりありませんし」
 困った顔のイーザに、シャーナが苦笑する。女を侍らし、それ以外は無表情に近いキーファを、侍女たちは怖がることが多い。それが、本当は優しい王なのだとわかってもらうには――それなりの時間が必要だった。そのことに最も気を揉んでいるのは、イーザだ。
「まあ、仕方ない、かしらねえ」
 幼い頃から王を見ていたイーザが、情けないような顔でため息を吐く。あのキーファを見ていたら……可愛いと言われても、仕方がない。特に色事の噂が大好きな侍女たちからしてみれば、あのキーファの態度は微笑ましいのだろう。
「何にしろ、リーフィウ様がいらしてくれて、良かったわね」
「ほんと。ずっとここに居て欲しいわ」
 本当にねえ。そう言った侍女たちの声に、イーザもシャーナも、そればかりは顔を見合わせて、大きく頷いた。
 出来ることなら、誰も傷つかない、そんな幸せな未来があって欲しい。
 そう、願わずにいられなかった。




幕間 02: 噂の人

 控え目に扉を叩く音がして、シャリスは振り返りもせずに誰何した。低い声が、今はリーフィウ付きになっている諜報員の名を告げて、シャリスは「どうぞ」と答えた。
 ハリーファが入ってきても、シャリスは手を止めることなく薬を調合している。別名医療部隊と呼ばれる第二部隊の長は、暇さえあればこうして薬品をいじっている。宮殿には薬師や医者も居るのだが、タシュラルの息が掛かっていて、王を始め王家軍の兵たちは、安心して身を任せられないのだった。口の悪い兵などは、「確かに安らかな眠りは齎してくれるかもしれないな。ただし、二度と起きられないんだろうが」などと笑う。
「どうしたのです?珍しい」
 諜報員達は、独自の知識で持って体調を管理している。ある程度の医学知識もあるはずで、シャリスたち第二部隊の世話になることは少なかった。
「キーファ王の傷の薬と包帯を頂きに……リーフィウ様が、心配しておりましたので」
「ああ。ザッハとの稽古の後に汚れましたか」
 それに無言で頷いて、ハリーファは勧められた座布団に坐った。目の前に、色とりどりのガラス瓶が、整然と並んでいるのが見えた。
「お茶を淹れましょうか」
 言われて、ハリーファはありがたくその申し出を受けた。シャリスの出すお茶は、そのときどきの相手の体調を考えたもので、いつもとても身体が楽になる。その上、リーフィウに稽古をつけたばかりのハリーファの喉の渇きを察して、冷たいお茶を出してくれた。
「リーフィウ様は、お休みに?」
「多分。お部屋まではお送りしましたが、その後はイーザに任せましたので」
 久しぶりに運動したはずのリーフィウの身を、シャリスは案じていた。ハリーファが何を言わなくとも、筋肉の疲労を和らげるお茶を調合した。
 冷たいお茶に喉を潤わせながら、ハリーファはシャリスの器用な手元を眺めていた。細く、長い指は、とても滑らかに動く。
「申し訳ありませんが、少し待って下さいね。王の塗り薬、実はもう終わってしまったのです」
 ハリーファは特に用はないからと、ゆっくり仕事をするようにシャリスに言った。ときには、こういうのんびりした時間もいい。
「……それにしても、王には呆れてしまいます。これからは、本当にリーフィウ様に手当てをお頼みしようかと本気で思いましたよ」
 こんこん、っと金属の匙を軽く皿の縁で叩いて、シャリスが笑った。それにはハリーファも、微笑んだ。
「リーフィウ様は医療にも興味があるようですよ。完全に頼むまでせずとも、手伝ってもらったらどうです?」
 笑いの含んだ声に、ハリーファもまた、今朝のキーファ王の様子を思い出しているのだとシャリスは思った。
 頑なに、シャリスに包帯を触らせなかった、キーファ。まるで子供がささやかなものを大事にするようで、可笑しくもあったが、少し、切なくもあった。キーファには、母親に手当てしてもらった記憶などないのだろう。いつもいつも、医者が恭しく、その身を見るだけで。
 それが、リーフィウに手当てしてもらったと、大切にして。
「全く王は、可愛い」
 知らず微笑んだシャリスに、ハリーファは心の中で同意した。王のことを可愛いと言ってしまえるほどの度胸は、自分にはないと思っている。シャリスはときに、周りが驚くような発言をすることがあるのだ。その、意志の強さで。
「最近は、王もあちらこちらでそう言われているようで……困ったことだと、言うべきでしょうか」
 父が生きていたら、王の威厳が!と騒いだことだろう。そのことで、王に小言を言ったかも知れない。ハリーファはそう思うと、余計に可笑しくなった。結局、父もキーファ王を子供のように見ていたのだろう。それはそれは、大切な。
「あちらこちらで、ですか?」
「ええ。この間も、侍女たちがそんな風に騒いでおりました」
 それには、シャリスも苦笑するしかない。侍女にまで――そう思うが、リーフィウの前のキーファを見たら、仕方がないかもしれないとため息がでる。
「侍女たちがそう言うのも、わからなくはないですが……」
 せめて、自分たちの前だけにして欲しい。そう思ってみても、キーファには全く自覚がないのだから、どうしようもない。シャリスとハリーファはなんとなく目を合わせて、ため息を吐いた。
「可愛いなんて……まったく」
 自分で言っておいて、シャリスはそう首を横に振った。ハリーファはその様子に、思わず笑みが零れた。シャリスにとって王は年下だ。だが、幼い頃から王に仕えていたハリーファにしてみれば、シャリスもまた、弟のようなところがあった。実際、年齢も一つ上になる。
 それを見咎められて、ハリーファは誤魔化すように残りのお茶を飲み干した。だが、シャリスはじっとハリーファを見たままだ。
「まあ別に、可愛いと言われるのも悪いことばかりではないでしょう」
 とうとう負けたかのように、ハリーファが口を開く。それでもまだ、笑った理由は説明されていない。
「たぶん、リーフィウ様も、同じように思っているときがあるでしょう。それならば、それも良い傾向だと……」
 そうですね、とシャリスがにっこりと笑った。だが、まだ納得はしていない。
「それで?」
 満面の笑みで言われると、さすがのハリーファもぞくりを背筋を震わせた。天使の笑みは、悪魔の笑みと紙一重の美しさがある。
「……まああの、シャリス様も、言われることがあるでしょう、と思いまして」
「言われる?何と?」
 ああ、言わなければいけないのか、とハリーファは僅かに身を縮めた。うっかりしたものだ、と今更後悔しても遅い。あのときふいに浮かんだ光景が、やっぱりなんだか、とても微笑ましかったのだ。あの男に、シャリスが可愛いと言われたら――。それを想像したら、笑みが零れてしまった。
「ハリーファ殿?」
「ですからまあ、最近、キーファ王が言われているのと同じことをですね」
 シャリスが、とても怒っている。でも良く考えると、それも可愛いものだ。
「誰が?」
「はい?」
「誰が、そんなことを?」
 常に動いているはずのシャリスの手が、止まっている。それを珍しそうに見て、ハリーファはこの状況を、楽しませてもらうことにした。
「言わなければ、なりませんか?言ったほうが、良いのでしょうか?」
 わなわなと、シャリスの手が震えていた。ハリーファは、笑いを押さえきれなくなりそうだった。いつも穏やかで、冷静な、あのシャリスが。
「あの男……そんなことをハリーファ殿に……」
「まあ、それくらい大目に見ても……。本人にも言えなければ周りにも言えなくて、ずいぶん我慢しているようですから」
 実際は、シャリスは本当に可愛いのだと力説するその男に、ハリーファはときどきうんざりしているのだが。
「私はっ!」
 勢い込んで、シャリスが机を叩いた。せっかく計っていたはずの薬が、飛び跳ねる。
「私は、誰にも言うなと……」
「ああ、彼は誰にも言っていませんよ。私がまあ、職業柄、たまたま気付いてしまったと言うか……」
 ハリーファの言葉など聞いていないかのように、シャリスは真っ赤になって怒っている。それを見ていると、その男の言葉も、どことなく納得してしまう。
 ――あれで可愛いんだ、シャリスは。
 だがもちろん、そんなことはハリーファは言葉に出さなかった。何もわざわざ、王家軍の隊長たちを、敵に回さなくてもいい。第二部隊長は怒ると怖いし、第三部隊長もまた、それはそれは嫉妬深いと、ハリーファは知っているのだった。



明けた夜。

 突然ぱちりと目が覚めたリーフィウは、まだ暗い中で、何度か瞬きをした。いつ自分が眠ったのか、記憶がない。
 しばらくして、ああ、気を失ったのか、と激しかった夜を思い出した。途端、かあっと、顔に血が昇る。
 もう二度と会えないと思って、離れ離れになったあの日。それから、色々あって、また再びこうして肌を合わせるほど近くに二人はいる。それでもときどき、キーファは不安なようで、溶け合うほどに抱き合おうとする。
 こんなに、近いのに……。
 月明かりに照らされたキーファの顔が、目の前にあった。身じろきをすれば、きっと起きてしまう。だから、リーフィウは息も詰めて、その顔を眺めた。
 端正な顔に、無精髭が生えている。髪もばさばさなのは、ここのところ、地方を見て歩くことが多かったからだ。だからこそ身だしなみを整えなさいませ、と言われているのに、キーファはまったく頓着がない。あらゆる地方を短期間で回るその旅は、侍女を連れ歩かないために、どうしても王の世話が疎かになるらしい。そもそも、キーファは面倒くさがるのだ。それを押さえて身だしなみを整えるのは、どうやら慣れた侍女たち以外には出来ぬことらしい。そして、ときどき帰ってきても、部屋に閉じ篭る王に、さすがの侍女たちも手が出せずにいる。
 その髭に触りたい欲求を抱えながら、リーフィウはでも、じっと見るに留めていた。とにかくキーファは、気配に敏感だ。リーフィウが寝返るだけでも目を開ける。今だって、もしかしたら起きているのかもしれない。
 本当は、こんな少し野性味が溢れるキーファを、リーフィウは嫌いではない。口付けるときに髭がちくちくするのも、ときどきならいいと思う。そう言うときのほうが、キーファは飢えているように求めてきて――リーフィウを翻弄する。
 でも、その無精髭やばさばさの髪を好きとリーフィウが言うと、キーファが付けあがって困る、とイーザを始めとする侍女たちや、シャリスたちに言われている。だから、そんなことは決して言えないのだ。自分のそんな一言で、キーファが付け上がるとは俄かに信じ難かったが、みんながそれは熱心に「言うな」と言うものだから、リーフィウは大人しくそれに従っている。
 目を閉じたキーファの顔は、剣のあるところが隠れて、精悍さばかりが目立つ。最近では、それに甘さが加わるときもある。
 ふいに、ほんとうに時々、柔らかくて優しい顔で、キーファはリーフィウを見る。それを見慣れないリーフィウは、その度に赤面して、立ち竦んでしまう。
 とうとう我慢がきかなくなって、リーフィウは目の前の無精髭にそっと触った。ちくりと、指の先に微かな刺激が走る。同時に、ぱちりとキーファの目が開いた。キーファはいつも、まるで起きていたかのように目を開く。
「どうした」
 伸ばされた手を片手で包んで、キーファはそれに頬を寄せた。ざらりとした感触に、リーフィウが微笑む。
 今宵の月は満月なのか、青白い光が二人を照らしていた。寝るときになっても部屋の灯りを完全に消さない習慣は変わらない。だが、それは二人の元までは届いていなかった。
「眠れないのか」
 青い光の中のキーファは、近いけれど遠い。こうして触っていなかったら――幻のようだとリーフィウには思えた。
 リーフィウは小さく首を横に振った。
「気が付いただけです」
 答えに、ふっとキーファが笑う。それから静かに、悪かった、と言った。
 リーフィウは、何のことかわからずに、首を傾げた。
「無理をしすぎただろう?」
 あ、とリーフィウが固まり、真っ赤になりながら、またふるふると首を振る。
「どうもときどき、堪らなくなる。ここに、いるのに」
 静かな睦言は、薄闇に切なく響いた。リーフィウはその顔を見つめてから、僅かに目を伏せた。
「ええ、ここにいます」
 キーファの胸元に顔を寄せると、穏やかな心臓の音が聞こえた。そう、ここにいる。
 柔らかく髪を撫でられて、リーフィウは目を閉じた。
 大丈夫。
 何度も、自分に言い聞かせる。
 大丈夫。朝目が覚めても、キーファはきっとここにいる。自分が、ここにいるように。
 きっと、居るはずだから。