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雨音シリーズ
冬の雨
昨晩吹いたものすごい風の所為で、遊歩道にはマロニエの葉が敷き詰められていた。地面も見えないほどのその葉を、がさがさと音を立てながら、人々が歩いている。
和音もその音を半ば楽しみながら、ゆったりと歩いていた。まだまだ時間はあるというのに、部屋でじっとしていられなかった。
昨晩の電話を思い出して、自然頬が緩む。電話はわりと頻繁にしているが、ここのところ仕事が忙しいのか、その電話もなかったのだ。それが突然、会いに来る、というのだから。
伊織の電話はロンドンからで、仕事で来ていたのだが、その仕事が終わったから、パリに寄ろうと思う、というものだった。幸いなことに、和音もコンサートが終わったばかりで、時間的に余裕があった。年末は日本に帰るが、それまでまだ二ヶ月はあって、突然の逢瀬に昨日は眠れないほどだった。
地下鉄に乗って、ノール駅につくと、ぐるぐると長い通路をユーロスターの発着場を目指して歩く。時間はまだあと一時間はあって、手前のカフェで和音はぼんやりとカフェオレを飲んだ。一週間位はいようと思う、と言った伊織に、和音はもっといてもいいのに、と思わず本音を漏らしてしまった。それに苦笑されつつ、迎えに行くこともまた、承諾させたのだった。
伊織の長身とすらりとした体躯は、欧米人にもひけを取らない。和音はその姿をすぐに見つけて、思い切り微笑んだ。さすがに抱きつく勇気はないが、出来るならそうしたいくらいだった。
「久しぶり」
互いにそう言いあって、見つめあう。湊あたりが見ていたら、抱きつかなくたってわかるよ、と言われそうだ。
「あーあ。やっぱり部屋で待っててもらえばよかった」
伊織が、タクシー乗り場に向かいながらそんなことを言う。
「なんで?迷惑だった……?」
和音の戸惑いに、くすりと伊織が笑って、その耳元に口を寄せる。
「だって、抱きたいのに部屋まで我慢しなきゃならないだろう?」
目の前にいるのに、と伊織が言って、和音はため息をつきつつも、内心ではその意見に賛成していた。
部屋についたとたんに、どちらともなく手を伸ばしてキスをした。久しぶりすぎて、気が遠くなるかと和音は思った。
「会いたかった……」
漏れでた言葉は、二人の本音だ。前に会ってから、もう三ヶ月は経っている。それも、あのときは伊織の仕事の都合で、二人きりで過ごすことはほとんどなかった。
「ごめん……がっついていい?」
その伊織の言葉に、和音も苦笑を返す。
「僕も、ご飯は外に食べに行こうかと思ってたんだけど……」
時間はもう八時だ。食べに行けない時間ではないが、後では面倒だろう。それでも、無理だな、と二人は思っていた。
「スープとパンぐらいならあるよ」
「十分。肉とクリームの食事には食傷気味なんだ」
そう言いながらも、伊織は和音の首筋に唇を落としたり、弄る手を止めない。まだコートも脱いでいないのに、と和音はおかしくなった。
「ベッド行こう?」
和音がそう言うと、伊織がそのままずるずるとベッドルームに向かう。和音はされるままになっていた。こういう伊織は、年相応に可愛くて好きだ。
「本気で駄目だ。余裕ないかも」
「いいよ」
和音が笑うと、伊織が困った顔をする。止めてくれないと困る、というような。
「止められるわけないでしょう?僕だって余裕ないのに」
和音のその笑みに、伊織は降参とばかりに口付けた。それから、手早く服を脱ぐ。和音も慌てて服を脱いだのだが、間に合わない。すぐに伊織の手が伸びてきて、するすると手で愛撫をされながら脱がされた。
「伊織……?」
ふいに触れたものに和音が快感に閉じていた目を開けた。温かいはずの肌の温度から、ざらりとした布の感触を感じたからだ。
「これっ。どうしたの?」
驚いて思わず身体を起こすと、伊織の苦笑が見えた。
「大したことない。ちょっとどじった」
それでも、和音は思い切り心配の色を浮かべた目で、その左腕を見た。褐色の肌に白い包帯が痛々しい。
「いつ……?」
「ん?もうそろそろで一ヶ月かな。治る頃だよ」
伊織はそう言ったが、一ヶ月経っても包帯をしていなければならない怪我なんて、と和音はその腕をじっと見つめた。それも、伊織はロンドンで一週間ほど仕事をしていたはずだ。
「嫌だったらいいけど……見せてもらっていい?」
和音らしくない言葉に、伊織は一瞬言葉を失ったが、和音の目は真剣そのもので、少し逡巡した後、包帯を解いた。
和音は何も言わず、じっとその傷を見ていた。
誘拐事件の犯人を追い詰めたときに、人質の子供を庇ってできた傷だった。放り投げられたその子供を受け止めた先、ガラスの破片と大きな石があって、そこに打ち付けられて、切り傷をつくり、骨にひびを入れてしまったのだ。その後も犯人と格闘をしなければならなかったために、ガラスの破片がかなり深いところまで入ってしまったのもまた、不運だった。
そっと、和音がその傷に触れる。その表情があまりに痛々しくて、自分より余程和音の方が傷ついたのではないかと伊織は思った。それもあって、連絡を入れなかったのだが。
「和音……大丈夫だよ。本当に、もう治る頃なんだ」
「うん」
はっきりと返事はしたが、和音はじっとその傷から目を逸らさない。だから伊織は、無理やりその視線から腕を外して、また包帯を巻き始めた。和音は手伝おうかと思ったが、その手際のよさに伸ばした手を戻した。
慣れているのだろう、とその手つきに和音は言いようのない気持ちを抱いた。不安で堪らなかった。自分の全く知らない間に、伊織がこんなに大きな傷を作っていることが。
覚悟はある程度していたはずだった。伊織の仕事が危険だと、頭でもわかっていた。でも、こうして現実に直面したら、和音は不安で堪らなかった。今回はこうして治っていく傷だったかもしれない。でも、いつか、和音の知らない間に、伊織がいなくなってしまうのではないか、と。
「和音……心配かけた。ごめん」
伊織が、その髪に優しく口付けてくる。和音はそれに答えながら、どうしたらこの不安を消すことができるだろう、と考えていた。
とりあえず、今は。
和音は鈍く回る頭で考える。それから、そっと触れる体温にほっとしている自分をわかって、思い至る。
「和音……?」
ふいにぎゅっと抱きついてきた和音に、伊織が戸惑った声をあげた。でも、和音にはそんなことはどうでも良かった。
今、ここに伊織はいるのだ。
「伊織を感じたい……」
ふいに呟かれた言葉に、伊織の喉がなった。ひくりと抱いていた腕が動いて、体温が上がったのがわかる。
ああここに、伊織はいるのだ。
そう思って、和音はより一層きつく抱きつく。
参ったな、と伊織は苦笑を漏らしていた。どうやら、和音が不安なのはわかった。だからって、無意識でこういう誘い方をしないで欲しいと思う。
これは、夕飯抜きかな、と伊織は一人ごちた。
まあそれも、仕方がないだろう。
ゆるゆると、どこか幸せな気分で覚醒した和音は、目の前に白い包帯が飛び込んできて、びくりと一瞬身体を震わせた。それから、そっとその包帯の上から腕を撫でると、伊織が目を覚ました。
「ごめん。起こしちゃったね」
仕事柄なのか、伊織の眠りは浅い。ときどき、本当に眠っていたのかと疑うほどに。
「いや。それより腹減った」
もぞりと和音の肩に頭を乗せながら、伊織が呟く。そう言えば、昨日の夜は何も食べなかったな、と和音は枕もとの時計を見た。驚いたことに、もう昼が近い。
「どこかのカフェにでも行く?」
「うーん。でも、和音動ける?」
言われて始めて、和音は自分が起き上がれないことに気付いた。昨晩の記憶は、半分くらい飛んでいるのだ。自分から求めたことも、うっすらと覚えている。伊織が近くにいると、どうしても感じたくて。
さあっと赤くなった和音に、伊織が笑って口付けると、何か買って来よう、と言った。近くに美味しい惣菜屋があると、和音が言っていたのを思い出したのだ。
「着替えとか、出来る?」
言われて、それくらいは出来るよ、と和音は更に赤くなった。シャワーも浴びたかったが、それは無理だろう。身体はさっぱりしているから、きっと伊織が昨晩のうちに入れてくれたのだともわかっている。
じゃあちょっと行ってくる、と手を振った伊織を、和音は赤くなったまま見送った。
それから二人は遅い朝食兼昼食を食べて、のんびりと部屋で過ごした。伊織はもう何度もパリに来たことがあるから、今更観光などしなくてもいいし、もとより和音が歩けない。ただ他愛のない話をするのもまた、二人には貴重だった。
この時間が、どうしてずっと続かないのだろう、と和音は祈るように思う。その不安が、ときどき雄弁な目に映ることを、知ることもなしに。
伊織はその目を見るたびに、優しく微笑んだ。そして、そっと和音に触れる。そうやって、自分は今は傍にいるのだと、和音に教えていた。でも、同じ不安を、伊織も持っている。だから、それ以上の言葉も、平安も、与えることが出来ないのだ。
後悔はしない。してほしくない、と和音に言われたからだ。でも、こうしてときどき、出会わなければ良かったかもしれない、と思う。それが、無意味な思いだとわかっていても。
一週間なんてあっという間だ。散歩に行ったり、映画を見たり、美術館に行ったり。一週間全部、デートをしてるようなもんだな、と伊織は笑ったが、和音の不安は消えはしなかった。
会いに来ることを、伊織は本当は悩んだ。こうして心配させてしまうことはわかっていたからだ。でも、誘惑に抗えなかった。前回の日本滞在時に、自分の仕事の都合で少しも時間が割けなかったことも、日本よりパリの方が余程安心して二人でいられることも、大きかった。
雨上がりの青い空の下、二人は近くの公園を散歩していた。もう、明日には伊織は帰らなければならない。
「食べる?」
ふいに差し出されたのは赤い林檎だ。近くのマルシェで美味しそうだと買ったものだった。美味しそうに食べているなあと、じっと見つめていたからだろうか、と和音は笑って頷いた。
伊織の歯形が綺麗についている。それを見ながら、和音はしゃきりとその林檎を食べた。少し酸っぱくて、でも瑞々しくて美味しかった。もう一口と噛んでから、それを伊織に返す。伊織が笑って、腕をすっと伸ばしてその林檎を受け取った。
並んで歩いていた伊織が、ふっと空を見上げた。つられて、和音も上を仰ぐ。
「雲がないね」
「ああ。真っ青だな」
言いながら、伊織の手がそっと和音の手を掴んだ。和音はすっとその傍に、引かれるように寄り添った。
あとはただ無言で、しばらくその空を見つめていた。
和音は、その手の温もりを感じながら、一つの決心をしていた。この手も、温もりも、決して失わないように。
伊織を送りに空港へ行き、帰って来てすぐ、和音は時間を確認することも忘れて、志筑に電話をした。はっと気付いたときには、電話口に日本語が流れていた。
「どうした?夜中に珍しいな」
「ごめん。よく考えなかった」
頭の中で計算してみれば、こちらは夕方でも日本は深夜だ。
「ああ、別にいいよ。寝てたわけじゃない。それより、どうしたんだ?」
「うん……ちょっと相談があって」
和音は謝りながらも、話を後日に回すつもりはなかった。今やらなければ、きっとこの不安は消えない。
たぶん、一番反対するのは伊織だろう。そんなことはわかっていたから、伊織には話さなかったし、伊織がいるうちに志筑に連絡もしなかった。
我侭なのかもしれない。
そうわかっていても、和音は譲れないと思った。
「相談?なんだ?」
「うん。来年から、日本に拠点を移そうかと思って」
ふっと息を呑む音が聞こえた。それは、前から志筑が言っていたことでもあるが、もう年末も近いのに、急すぎる。
「もちろん、徐々にだけど……でも、出来るよね?」
志筑のことを良く知っている和音は、厳しいとも取れる口調で言った。それに、志筑が苦笑する。
「こっちは願ったり叶ったり、だけどな。……その急な方向転換の理由を聞きたいな」
「急でもないと思うんだけど。前々から考えてはいたんだ」
「伊織の坊やか」
志筑の冷やかすような声に、和音は答えなかった。その代わり、ほとんど命令のように言う。
「伊織には言わないでね」
「なんで?」
「志筑は僕に日本に来て欲しいんでしょう?だったら、言わないで」
ふーん、と志筑の声が考えるように響いた。どんな推測をされようと、和音は構わなかった。志筑は少なくとも、伊織を認めている。
「わかったよ。とりあえず、そっちのスケジュールを送ってくれ。それから、今後の追加分は全部俺を通せよ」
「うん。ありがとう」
和音は小さく笑った。これから忙しくなるだろう。目処が立ったら、伊織にも話をしなければならない。
それでも、決して後悔はしない、と和音は思っていた。
知らない間に、あの温もりが奪われるなど、許せないと。
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