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悪 戯 の 裏 側

――滅紫さんへ

 その画廊の社長から伊織に仕事の依頼が入ったのは、夏も盛りになった頃だった。その夏は予想されたとおり暑くて、風のない日が続き、鬱陶しかった。
 ヨーロッパに逃げられるなら、こんな嬉しいことはなかった。
 その画廊が購入した作品をガードする仕事は、国内では何度かしたことがある。父の代からの上客で、伊織になってからも贔屓にしてくれていた。
 パリの町は晴れて明るく、思ったより陽射しは強かった。ただ湿度が低い分、すごしやすかった。伊織は買ったサンドイッチを齧りながら、木陰を選んでぶらぶらとした。
本当なら、僅かなこの時間にも和音に会いたかった。会える、はずだった。でも、ちょうど和音はロンドンで演奏会があって、パリにはいない。明日には帰って来るが、明日は伊織が一日作品のガードをしなくてはいけない。
 遠くても、近くても、会えない。
 近い分なおさら、もどかしい。
 触れる空気は確かにパリのものなのに、伊織には実感がなかった。伊織にとっては、今やパリは和音のいるところなのだから。
 伊織の顔に、苦笑がもれた。
 ずっと、一人で居続けるつもりだった。こんな風に、誰かを想って空を見上げる日が来るとは、思わなかった。


「こんなもの、どこから探してきたんですか」
 伊織は白手袋をはめて、そっと目の前の彫刻に手を伸ばした。一度だけ、するりと撫でる。このアーティストの作品を見たら、触れたくなる。伊織はいつも沸き起こるその欲求を満たすことが出来て、思わず目を瞑った。
「内緒ですよ。企業秘密です」
 いかにも東洋系の顔をした隣の男が、静かに微笑んだ。伊織も良く知っているその男は、今回の依頼主である画廊の、最も優秀な社員だった。確かな目を持ち、穏やかな物腰で交渉ごとも得意だった。
「やり手だなぁ。榊さんも」
「いいえ。今回のこのブランクーシは社長が見つけてきたんです」
「へぇ……さすが佐波のじいさん」
 小品と言えど、ブランクーシ特有の滑らかな流線型は絶品だった。値段を聞くのがおそろしい。こんな作品を見つけ出してくるとは、佐波社長もまだまだ立派な現役だ。年齢は、もう80に達するはずだった。
「で?これを購入者に届けた後も、俺がガードすれば良いんだ」
「はい。お願いします」
「面倒くさいことさせるな。日本人なんだろう?なんで持って帰ってから渡さないんだ」
 その方が、余程安全で、確実だったはずだ。伊織にはガードは出来ても、美術品を扱う本格的な知識はない。
「さぁ……長いことお待たせしていたので、すぐにでもご覧になりたいのかもしれませんね」
 榊はそう言って苦笑した。その苦笑の本当のわけを伊織が知るには、翌日を待たなければならなかった。


 和音がパリに帰って来て、二人は電話で話をした。同じ通り名のアパルトマンとホテルに居ると言うのに、受話器越しにしか声を聞けないことは、あまりに切なかった。伊織は彫刻から目を離せないし、他人を入れることもできなかった。結局その事ばかりが頭をよぎり、二人の会話は短く閉じられた。声を聞けば会いたくなる。到底無理な距離に居るならまだしも、すぐ近くに居ると思うと、やりきれなかった。
「そう言えば、ロンドンで湊くんにあった」
「湊に?」
「うん。演奏会に来てくれて。僕と一緒で、今日はパリにいるはずだよ。夕食を誘われてる」
「湊には、俺がパリに来てること言った?」
「うん。あっ、だめだった?」
「いや。どうせ俺の事情を知って、嬉々として和音を誘ったんだろうと思って」
 伊織が拗ねたようにそう言うと、和音が苦笑したような笑い声を立てる。
「なに?」
「ううん。湊くんね、各務さんと一緒だったんだけど、あれじゃぁ誰も近寄れないって雰囲気だった」
 目の前で、さりげなさに強烈なメッセージを込めて立っていた二人を思い出して、和音はまた小さく笑った。湊がそっと各務の耳に顔を寄せたり、視線を絡ませたりする様子が目に浮かぶ。各務は困ったように軽く流そうとしていたが、湊がそれを許さなかった。
 まったく、妬けてくる。
「和音?」
「え、あ、何?」
 昨夜のことを思い出していた和音は、伊織の声に我に返った。
「今度は、会いに来るから」
「……うん。待ってる」
 和音には、日本とフランスで離れているときよりも、今の方が二人の距離をずっと遠く感じた。ふと窓から見える雲も、きっと形を変えることなく伊織の目に映るだろう。それなのに、会えない。触れられない。
 あまりの残酷さを、和音は諦めたようにため息をつくことでしか拭えなかった。
 電話を切った伊織もまた、小さくため息をついた。傍らのブランクーシの彫刻には何の罪もないのに、それを少し、恨みたくなる。
「行きましょう」
 榊に促されて、伊織はその彫刻の入った頑丈なケースを持ち上げた。直接触れてもいないのに、その曲線が思い出されて、伊織はまた、ため息をつく。そっとそのカーブを撫でた感触は、伊織の手に残っている。それは、人体のくびれと、人の肌を思い出させた。今抱いているものが、人のように錯覚させられた。
 和音の声を聞いたばかりの伊織には、それは耐え難かった。


 良からぬことを企んでいるときの湊は、いつも楽しそうだ。各務はそんな湊を、少し複雑な表情で見ていた。他人と自分の心の距離を上手くとることが出来ずに、試すようなことを繰り返す湊が、不憫でならなかった。
 試されることで人は傷つく。でも、湊はそれを知っていてやるから、もっと傷つく。だからそんな行為を、いたずらか何かのように楽しんでいる振りをする。何度そんなことを繰り返したら、湊はそれが不必要な傷だと気付くのだろう。今になっても、湊はときどき各務さえ試すようなことをする。
「少し、悪戯がすぎませんか」
 多分最も心を許している友人達を騙す湊が辛そうで、各務は思わず口を滑らせた。
「……盛り上げてあげてるだけだよ。もどかしさも恋の妙薬」
 薄っすらとそう笑う湊は、これからのことで頭が一杯のようだった。楽しそうに、ネクタイを選んでいる。
「これじゃ派手かもなぁ……あ、各務これ着けなよ」
 そう投げられたのは、深いグリーンのネクタイだった。細かな幾何学的な柄が、同系の色で編まれている。各務はもうネクタイは締めていたが、それを外して渡されたネクタイを手に取った。でも、湊がそのネクタイを取り上げると、少しだけ背を伸ばして、各務の首に巻きつけた。それから座る様に促す。各務はいつものような突発的な湊の行動に、促されるまま座って、呆れたように小さく息を吐いた。途端、そのネクタイがぎゅっと首に締められる。シャツを通さず、肌に直接ネクタイが擦れて、息の通り道が無くなっていく。湊の顔が、ありを潰す子供の顔のように無邪気に笑う。でもその顔は、泣き出す直前の顔と酷似していた。
 各務はきつく眉を寄せながら、抵抗もせずにじっと湊を見つめていた。苦しくなってきたのか、目が閉じられ、唇が少し、開かれた。それを待っていたかのように力は緩められ、咳き込むより早く、唇が重なった。湊の指がそっと、さっきまでネクタイが巻き付いていた首の、赤くなった部分をなぞった。確かめるように、何度も、何度も。
 湊が和音たちによって受ける影響は大きく、いつも湊を不安定にさせた。その結果、プラスに転ぶことの方が多いから、各務はその関係を絶とうとは思わなかった。でも、こんな風にときどき痛いほどに不安定になる湊を見るのは辛かった。
 各務はそれを、ただ見て受けとめるしかなかった。ずっと隣に居すぎて、湊の過去もみんな全て知った上で、その弱さを指摘することも突き放すことも出来なかった。
 その自分も、各務は弱いと思う。今のままの状態なら、こんな風にゆったりと二人で歩んでいけるだろう。でも、成宮家の確執は終わったわけでもなく、湊の祖父の力がいつまでも続くわけではない。そんな未来の不安も、湊を犯しつづける。
 どんなことがあっても自分はその湊の味方であると言う証拠が、こんな形でしか確信されないことを、各務は悲しく思っていた。


 指定されたホテルは小さく、でもかなりの高級感が漂ったホテルだった。ボーイに連れられた階には部屋は一つしかなく、贅沢さが知れた。多分、新しいホテルだろう。内装が洗礼された、近代的でありながら落ちついた雰囲気の部屋だった。なるほどブランクーシのこの彫刻は、この部屋に良く映えるだろう。
 榊が部屋の主と話をしている間、伊織は興味深そうに部屋を眺めた。客は30代の男で、今はやりの若手実業家なのだろうか。隙が無く、鋭い眼光を光らせている。ただ榊とは以前からの知り合いらしく、和やかに談笑している。
 仕事はしやすいかもしれない。伊織はそんなことを思っていた。
「食事、ですか?」
「えぇ」
「どうぞお二人で。俺はここでこいつと一緒にルームサービスでも取りますから」
 伊織は客の誘いに、傍らのケースを軽く叩いて、そう断った。仕事は、あくまでもこの作品のガードだ。どんなに高級ホテルでも、自分の目の届かないところには置いておきたくない。
「いえ。是非ご一緒に。その彫刻の、本当の持ち主がいらっしゃいますから」
「――本当の?」
 榊と男がにやりと笑った。
 嫌な、予感がした。


「ずいぶん遠回しなお誘いだな」
 目の前の湊に、伊織は冷たい視線を注いだ。湊はその伊織の反応そのものを楽しんで、ゆっくりと笑った。その隣で、和音が事態を飲み込めずに目を丸くしている。伊織の隣では、榊たちも堪えきれないように笑っていた。
「みんなぐるか……ったく、良い大人が何をしてるんです」
「いやいや、我々は本当に仕事だよ」
 ほんの少し、遊びにのっただけだ。伊織の恋人と言う和音を見たいという好奇心も確かにあった。榊にとって、伊織はいつも年以上の存在感と雰囲気を纏っていて、そのストイックな伊織がどう人を愛するのか興味もあった。
「ブランクーシの彫刻は前から欲しかったんだ」
 榊が湊のその言葉を受けて、伊織からケースを受け取って開く。レストランのこの席は個室になっていて、今はギャルソンもさがらせている。手袋をはめて、布を取り去る。するりと音がするように布が落ち、なだらかな流線型が現われると、誰もがほうっと、息を吐いた。
「いかがでしょう」
 榊が慎重に手に持って、湊の前に差し出す。湊はそれを、そっと撫でた。白く細い指が、官能的なほど滑らかに形に添って動かされる。
「気に入った」
 満足そうに、微笑む。榊はほっとしたように小さく息をつき、それをまた綺麗に梱包してケースにしまった。
「小切手はすぐ送らせる」
「はい。ありがとうございます」
 榊はそう言って、ホテルの部屋にいた男に目配せをした。
「さて、我々は我々で楽しみますか」
 男はそう言い、ケースを持ち上げて、榊と二人で部屋を出ていった。
 伊織は大きくため息をついて、和音の腕をとって立たせた。和音は今だによく事情が呑み込めず、何故こんなことになっているのかわかっていなかった。
「食事くらい付き合ってよ。いつも和音くんを一人占めしてるんだから」
「あぁ、付き合うよ。こんな茶番に付き合わされたんだから、たっぷりご馳走してもらいます」
 そう言って、和音を自分の隣に座らせる。湊は小さく肩を竦ませて、各務に目配せる。各務はギャルソンを呼び、食事を持ってくるように言って、湊の隣に座った。すぐにギャルソンが来て、湊にワインを注ぐ。湊が頷いたのを確認して、順番にグラスを満たしていった。
 テーブルは窓際にあって、夜のパリの街が見えた。夜といっても、まだ明るく、やっと日が沈み始めたところだった。時計はもう8時を回っている。
「じゃ、乾杯」
「何に」
「僕の悪戯の成功に」
 そう、湊がグラスを上げる。各務は苦笑して、和音はわからないまま、伊織はため息をついて、グラスを掲げた。
「ねぇ、悪戯って?」
 料理が運ばれ、食事が始まると、和音が遠慮がちに伊織に聞いた。伊織はどう上手く説明できるかを考えながら、和音に説明する。どこまでが悪戯なのか、伊織にもわからない。
「俺たちのホテルを和音のアパルトマンの近くにしたのもお前だろ。まさか、和音のロンドン公演まで仕組んでないよな」
「そっちに合わせたの。まったく。もっと感動的な再会になるかと思ったのに」
 湊はにやにやと笑い、それでも少し不満そうに伊織を睨んだ。
「お前がロンドンに行かなければわからなかったよ」
 意図的なすれ違いのおかげで、伊織は聞きたくもなかった和音の切ない声を聞かなければならなかったのだ。思ったより強い、会いたいという欲求を、あんな風に押さえつけなくても良かったのだ。
「すごく良かったよ、和音くん。……羨ましい?」
「ガキ湊」
 伊織は半ば呆れて、呟いた。


 食事を終わってから、和音と湊の意見で、四人で街をぶらぶらと散歩した。二人は楽しそうに話している。その後ろをついて行く各務と伊織には、何の話をしているのかわからない。風は涼しく、通りを歩く他の人達の歩調も、緩やかだった。
 シャイヨー宮までくると、和音と湊はエッフェル塔を真正面に眺めながら、何やら話し込んだ。そこは建物の屋上のようになっていて、高い位置からセーヌを挟んでエッフェル塔を見ることができる。和音と湊は、欄干のような石の手すりの上に腕を乗せて、楽しそうに話をしていた。伊織と各務はそれを横目に、同じようにそこに寄りかかる。湊の邪魔をすると何を言われるか分からないから、伊織は大人しくしていた。それに、各務と話してみるのも、面白そうだった。
「あんな悪戯、あんたも乗るなよ」
 伊織が呆れたように言うのに、各務は苦笑しただけだった。
「甘やかしてるなぁ」
 もう日は沈んでいたが、遠くの空はまだ明るい。頭上の紺碧の空には、小さな星が輝き始めていた。
「覚悟、決めたんじゃないのか」
 伊織は各務が成宮会長の持ってきた見合い話を断ったことを知っていた。そのとき、各務が一生を湊にささげる覚悟を決めたのだと思ったのだ。
「……えぇ、決めました」
 湊が口でなんと言おうと、伊織と会うことを結構楽しみにしているのを、各務は今になって納得する。この男には、人を引っ張る力がある。揺れる気持ちを、確実に正しい方向へ導いてくれるような。
「ま、ゆっくりと行けよ。俺ならいつでも力になるから」
 各務のはっきりとした口調に、伊織は安心したようにそう言った。
 夜の帳がゆっくりと落ちてくる。オレンジの温かい灯りが燈され、そうしてやっと、恋人達の時間が訪れる。


「ちょっ……待って」
 伊織のその声に、和音が潤んだような目を向けた。熱っぽく誘っているのに、その目は曇っていない。それが逆に、性質が悪い。ゆっくりと、首筋から喉仏を通り、顎にまで達したキスは、小さく音を立てて離された。
 和音なら、絶対にしないようなキスだ。
「どこで教わったんだ」
 あらかたの見当がついていたが、伊織は優しくそう問いかけた。ぎこちなさが、初めてしたのだと証明している。
「……やだった?」
「……っ……やじゃないけど」
 熱い吐息が首筋を撫で、思わず唾を呑み込んで、伊織はどう答えたら良いものか思案した。
「色っぽすぎてだめだよ。こっちがおかしくなる」
 そう言うと、和音がくすりと笑った。それさえも色のついたようで、伊織は困ったように天井を見る。
「――湊だろう、どうせ」
「……うん」
「さっき?」
「そう。なんか、そんな話になって……」
 どうせ、湊が興味半分に和音をからかったのだろう。帰り際に、湊が実践と言って各務に深々と口付けたのも、納得がいく。滴る唾液も気にせず、それどころかその唾液を追うようにキスを下ろしていった湊の目は、こちらがぞっとするほど色っぽく光っていた。生ぬるい、にごったような瞳は、確かに欲情していた。それを見せつけられて、和音も少し興奮気味なのかもしれない。本人はそんなことには気付いて無いようなのが、また罪だった。
 触れる肌は熱く火照り、何ヶ月ぶりかの逢瀬を、余計に燃えあがらせた。
 和音の素肌をそっと撫でる。その感触にあの彫刻を思い出して、伊織は苦笑した。あの時は、和音を思い出していたのに。そのときには感じなかった、作り物では決して無い温かさが手のひらから伝わり、伊織を狂わせる。
「伊織くん……あっ……んっ……」
「あと、何教わったの……?」
「やぁっ、あ……」
 和音がやったのと同じように、首筋から顎まで舐め上げる。そのまま耳の裏まで唇を滑らせ、緩く耳朶を噛んだ。その快楽に、和音の体が細かく震えた。
 伊織には、各務と湊がどう抱き合うのか、その方に興味があった。恋人同士に見えないわけじゃない。でも、各務が自分のように熱くなるのか、分からなかった。目の前であれほど深い口付けをしていたときも、目を閉じて、表情も変えずに、されるままになっていたのだ。といっても、しっかりと腰に手は回されていたが。
 ふと、各務が湊を見ていたときの視線を思い出す。絡むことのない、後ろ姿への視線は、どこまでも優しく艶やかだった。
 ――あぁ……そうか。
 伊織は、ほんのわずか微笑んだ。各務はそんな風に、「二人で」歩む道を作っているのかもしれなかった。
 しっとりと濡れはじめた肌は、心地よかった。その和音を、丹念に愛撫していく。
 伊織達はまだ、二人で歩む道を見つけていない。今は同じ道を歩いているかもしれないが、その先が別れていないと言う確証は、何も無い。
 愛しいと思う。それだけで精一杯な伊織たちを、湊は羨んだのかもしれなかった。各務はそうさせていることを分かって、あんな馬鹿みたいな悪戯に、手を貸したのかもしれない。
「伊織くん?」
「和音、気持ちいいこと一杯するから、今度会ったときに湊に教えてあげな」
 彼らとは、きっとずっと付き合っていくだろう。そう思いながら囁いて、伊織は和音を深い海の中に引きずり込むように、快楽の中に溺れさせた。


 昼間付けた首筋のネクタイの赤い跡は、もううっすらとしていた。的確な位置で締め上げたせいで、それほど力を入れていなかったのだ。湊はそこに、きつく口付けの跡をつける。それからすっと視線を伏せて、テーブルからシャンパンを持ってきた。
「飲ませて」
 グラスに注いだシャンパンを、各務に突き出す。各務はそれを受けとって、少し口に含んだ。そのまま、口付ける。淡い刺激が、湊にそっと注ぎ込まれる。
「――……何がお望みですか」
 各務が、わざと零れるようにしたシャンパンを、丁寧に舐める。仰け反った湊の目に、暗い夜の空が映った。
 脳裏に、和音が蕩けるようにはにかんで笑った顔が浮かぶ。伊織が優しいかと聞いた時の、ことだった。
「和音くんがね、各務も優しいだろうって言ってたよ」
「伊織さんは優しいと?」
「そうなんじゃない?べた惚れだから」
 くすくすと、湊が笑う。食事中の二人の素直な視線の絡み合いが思い出されて、各務は苦笑した。湊はそれに、嫉妬しているのか。
 甘い恋人同士のような関係に、二人はなれない。どこまでも素直になることで、敵を作りかねない。二人がずっと一緒に居るために、今のようにしているしかなかった。主従と言うこの関係を、崩すことは出来ない。
 それが良いのか悪いのか、各務にはわからなかった。
 シャンパンを口に含んで、また飲ませる。こくりと動く喉は白く、艶かしかった。シャツのボタンを外しながら、各務は何度もシャンパンを口移す。零れる流れは一筋では済まなくなり、シャツの開けられた胸の上を伝って落ちる。それを各務が舐めることを想像すると、湊には堪らなかった。
 ゆっくりとズボンを脱がされる間も止む事のない愛撫に、湊は恥ずかしくなってくる。あまりにも優しくて、甘い声を上げそうになる。
 そうして欲しいと願ったのは湊だ。直接言わなくても、各務はそれを察し、その願いを叶えてくれる。
 いつでもそうだ。
 だから、湊はどの各務が本当なのか、分からなくなる。
「各務っ、はぁ、あ、――っん……おかしくなるっ」
 二人がこんな関係になる前は、各務は仕事として湊を抱いた。だから、こんな風に焦らされることもなければ、欲情した瞳を見せることもなかった。その精神力に、湊は今になって感嘆する。抱かれていた自分は、切実な思いに囚われていたのだから。
「うんっ……やぁ、あ……」
 背中を優しく舐められ、湊の背がしなる。その背中にあたっている各務が、もうはちきれそうになっているのが湊には分かる。各務が、分からせている。それが自分に挿入されることを想像すると、湊は震える。欲しくて、堪らなくなる。
「ばか各務……っ」
 イキたいのにいかせてくれない。滾る湊を触れてもくれないし、触れることを許してもくれない。ゆっくりと唇が落ちていき、するりと手が腰を掴む。そのまま止まることなく蕾に舌が触れ、湊は高い声を上げた。
「ひっ、あーっ……各、務っ」
 侵入してくる舌は、あくまでも優しい。ゆっくりと、優しく解される。そっと指が触れてきても、確かめるように、傷付けないようにと緩やかだ。それが、湊には焦らされているようにしか思えない。事実、各務はわかってそうしている。
 湊の声が声にならず、潤んだ目が見上げてきて、各務が指を抜いて微笑んだ。その笑みが嘘のように優しくて、湊はその笑みのままの各務に、口付けた。そのまま、各務が挿入してくる。全ておさまりきると、湊は耐えられずに腰を揺らした。
 同じ、海のような深さがそこにある。
 和音がさらわれ溺れる、同じ海の波のような緩やかさが。
 湊はそれを、幻のように感じた。
 和音のように素直に手を伸ばせなくても、湊はそっと、その手を絡めれば良い。それだけで、わかってくれる相手がいるなら、それでいい。伸ばすことが出来ない手に、気付いてくれるのならば。
 それだけで、充分だと、思った。


■この話は、以前のホームページ、月虹図鑑の7777hitsを踏まれた、滅紫さんのリクエストにお答えして書いたものです。リクエストをしてくださった滅紫さんに、もう一度、多謝。

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