夏期休暇
なつめさんへ―――
砂浜の砂は熱く、でも、ときおり吹く海風は潮の匂いを運んで、各務はその空気を大きく吸い込んだ。
のんびりしすぎて逆に落ち着かないことに、一人苦笑する。
成宮湊のボディーガードといっても、各務はあくまでサラリーマンで、本当は有給もある。名目上は成宮グループの本部社員だったから、その社員たちと同じ、10日間の夏休みは、各務も取って当然だった。
ただ、今までは湊の不安定さがそれを許さず、各務自身もそんな湊が心配だった。だからそれほど長く、離れることはなかった。
でも今回は、その湊が、休暇をとるように言ったのだ。ついでにこの別荘を使うと良いと、鍵までつけて。
何か企んでいることは、明白だった。長く付き合ってきているから、そんな時の楽しそうな湊をみると、条件反射のように悪い予感がする。何かとんでもないことを考えていたりするのではないかと、心配になる。
各務は海辺の陽射しの強さに驚きながら、別荘へと戻った。太陽が真上に来る頃はもう暑くて、外にもいられない。砂からの熱と太陽の熱にあてられて、意識が朦朧としてくる。
その別荘は小さくも小奇麗で、大勢ではこられないとしても、こんな休暇にはちょうど良い手頃さがあった。広すぎない室内は、何処に居ても落ち着く。ここが成宮の極プライベートな別荘と言うことは、聞かなくても分かった。ビーチに人気が無いから、きっとそこもプライベートビーチなのだろう。
各務のここでの休暇は、ひどくゆったりと過ぎて行った。起き、砂浜を散歩し、本を読む。ときどき凝った料理を作ったりもする。何よりも違うのは、全てが自分の都合で動いていると言うことだった。
その日。
休暇も半分が過ぎた頃だった。各務は心地よい風に、うたた寝をしていた。別荘の周りは静かで、ときおり耳を澄ませば聞こえてくる波の音が眠りを誘った。読みかけの本を伏せて、ソファーに沈み込むように眠るその感覚は、各務を何処までもリラックスさせた。
その各務の唇に、しっとりと見知った感覚の唇が触れて、各務はずいぶん甘い夢を見るものだと思った。
でもすぐに、それが夢などではないとわかって、目を大きく見開いて、目の前の人物をまじまじと見つめた。
「何故ここに…」
「遊びに来た」
湊は各務の驚き振りに満足したらしく、そうにっこりと笑った。
本当は、各務が驚いたことだけに満足したわけではない。湊はもう、ずいぶん前からここにいて、各務の寝顔を見ていたのだ。自分の前では、決して見せない顔。ときどきホテルに泊まるときなどは眠っている顔を見ることはあるが、こんな風にうたた寝をしているのは、見たことがない。
窓からの風にさらさらと揺れる髪や、いつもとは違うラフな格好に、白状すれば湊は見惚れていた。多分、スーツ以外のこんなラフな格好を見るのは初めてだ。
「遊びに、来たんだよ?」
湊がその真意を分かってくれとばかりに、姿勢を正した各務を見つめる。各務はふっと微笑んで、立ち上がってキッチンへと向かった。それから二人分のグラスにアイスコーヒーを満たしてくると、それを湊の前に置く。
「一人でいらしたんですか?」
「あのねぇ…子供じゃないんだから」
湊が呆れたようにため息をつきながらグラスを手に取った。各務は自分の前にもグラスを置き、どさりとソファーに座り込む。身を投げ出すようなその行為に、湊はドキリとする。演技かもしれないが、そんな風にリラックスした各務は、湊をうろたえさせた。
―――これは、思った以上にやばい。
湊はそう思って、自分を笑った。たった一日でも良いから、ボディーガードと雇い主、と言う関係を絶ってみたかった。休暇中ならそれができると思ったのは、他の社員の夏休みの話を聞いたからだった。そういえば、各務にだってあるはずだと。
いつもより小さくなっている感のある湊を見て、各務は苦笑を隠すのが精一杯だった。何を考えていたかと思えば、こんなこととは、思わなかった。
正直、人が恋しくなってきた頃でもある。
それに、こんな湊を見るのは、―――楽しい。
視界の隅に小さな旅行鞄があるのを確認しながら、各務はそれでも意地悪な質問をした。
「今日はお泊りになるんですか?」
湊はどう答えて良いのか分からず、各務を睨んだ。人肌恋しいのは、湊だって同じなのに。
「…ここは成宮の持ち物だから、勝手だろ」
「えぇ、もちろん。もしお邪魔でしたら、私は帰りますが…」
各務はそう言いながら、耐えきれずに、頬を緩めた。湊は絶句し、唇を噛み締めた。
そんな湊を一しきり楽しんでから、各務は今度こそ本当に笑った。それから立ち上がって、向かいに座っている湊のソファーに近づく。湊は悔しそうに唇を噛み締めたまま、各務の方を見ようとはしなかった。各務は笑いながら片手をソファーの背につき、空いた片手で、湊の顎を掴んだ。
「嘘です。もし帰るといっても、帰しません」
そう言って、優しく、口付けた。海から漂う潮の匂いが、微かに各務からした気がして、湊はゆっくりと目を閉じた。
海に落ちる夕日は、どうしてこれほど綺麗なのだろう。
静かな波が、引いては押し寄せ、心地よい音を作り出していた。足をとられる砂浜を歩く速度は遅く、押し寄せる波がその二人の足跡を消していた。
数歩前を、各務が歩いている。
夕日に照らされて、白いTシャツが赤く染まっている。
こんな風に湊が各務の後をついて歩くことは、滅多になかった。そんなときは、大概は湊の身に危険が襲いかかる気配のあるときだけで、そのときの各務は緊張に満ちている。
ときおり海に顔を向ける各務の横顔に、さらりと髪がかかる。その髪も一日の最後の残光に、きらきらと光っていた。立ち止まっては伸ばされる手が嬉しくて、湊は知らず歩調を緩める。
その手が触れるたびに切ないのは、多分各務も一緒で、二人はそのとき目を合わせられない。
こうして押し寄せる波に、砂についた足跡が跡形もなく消えるように、この時間は、儚すぎる気がした。各務の休暇が終われば、二人はまた、元のような関係になるしかなく、それには抗えない。でも、どんなことも必然だったのだと、今なら分かる。
ベッドの中で、別人みたいだと言った湊に、各務は、その方が良かったかと尋ねた。
「どうして?各務は、各務じゃなきゃだめなんだよ」
二人の出会いかたも、気持ちより身体が先だったことも、今、こうして各務が湊を守っていることさえ、全てがそうでなくてはいけないことだったはずだ。
別の出会い方をしていれば、と考えることは愚かだと二人は分かっている。
水平線に吸い込まれるように消えて行く太陽を、二人でじっと眺めた。そうやって一日が終わって行くことは淋しく、湊はずっと、波の音を聞いていた。
「帰りましょう」
そう言った各務の声は、その波の音と同じように、優しく響いた。
二人で食事を作ると言うことは、思ったより楽しいことだった。普段やらないことをすると、普段しない会話をしたりする。真正面に向き合っていない分、口が滑らかになっている気がした。
今日の夕食のメニューは、新鮮な魚介類のパスタとサラダ、そして、ほんの少しの極上のワイン。
いつもの食事も、それほど豪勢なわけではない。でも、綾乃が作ればもう何品か加わる。各務は一人分として考えていたし、一人でする食事にそう何品も作らない。
「各務が料理できるとは思わなかった…」
湊は思わずそう呟いた。各務は屋敷に住んでいるから、いつも綾乃の作ったものを食べていると思っていたのだ。
「小さい頃、綾乃さんに仕込まれましたから。今でも、時々自分の食事の支度は自分でする時もありますよ」
各務は包丁で玉葱のみじん切りをしながら、そう答えた。湊は隣でサラダを作る。各務が料理をすると言うことも少なからず驚いたが、二人でこうして並んで料理を作っていることは、もっと不思議だった。各務は材料を切り終わると、フライパンにオリーブオイルをたっぷり目にひいて、そこに材料をどんどん放り込んだ。豪快なやり方に、湊が楽しそうに見ている。
「各務、お湯湧いた」
「じゃぁ、パスタをいれて下さい」
各務はフライパンの上に、白ワインを振りかける。ふわりといい匂いが、キッチンに満たされていった。
その匂いを、幸せな匂いだと、湊は思う。
ほどなくして料理は出来上がり、二人はテラスへ出て食事をすることにした。本当に誰もいない、二人だけの、二人で作った食事。食事をすると言うことは、これほどに幸福感のあることだと、湊は初めて知った。
見上げる空には星が瞬き、耳を澄ませば潮騒が聞こえる。涼やかな風が、潮の匂いを運んでくる。
いつまでも続く、夢のようだった。
「何と言って出かけてきたんです?」
「ん?恋人のとこ行って来るって」
「……」
無邪気な湊の言葉に、各務は絶句した。住み込みで働いている香苗は勘の良い子で、二人の関係に気付いている節がある。湊にそう言われて、何と答えたのだろう。湊は湊で、わかって言っていることも十分あり得ることで、各務は香苗を気の毒に思った。ワインを一口飲んで、ため息を隠す。
「何?嫌そうな顔して。香苗なんかお土産持たせてくれたのに」
「お土産?」
「そ。そのワイン。美味しい料理をいっぱい食べてきて下さいって」
気付いているどころじゃなく、知っているのだ。各務は今度は隠さずに、ため息をついた。
「大丈夫。綾乃さんも守屋も気付いてないよ」
何が大丈夫なのだろう。このままでは、いずれは成宮会長の耳にも届くだろう。そこまで考えて、各務は思考を止めた。
今は休暇中だ。何も考えないでいるのが一番いい。
目の前の湊は楽しそうにしているし、何より不安定さが微塵もない。たとえ一時でも忘れると言うことは、大切なことなのだ。手探りなのは、仕方のないこと。たとえ二人で迷っても、離れることを選ばなかったのは自分たちだ。
「香苗は、いつ?」
「んー?さぁ……結構前だった見たいだけど……」
湊がフォークにパスタを巻きつけながらそう言った。二人の気持ち自体には、湊が荒れていたときから気付いていたのかもしれないと、各務は思った。
ずいぶんと助けられていたことに、今さら気付く。
あの時、綾乃たちより香苗が一番二人を見ていた。その香苗がそっと見守っていてくれたから、今の関係がある。
「美味しいね」
湊が微笑む。各務もふと笑みが浮かんで、幸福の意味を知る。
食事が終わって、淡いランプの光の中でふと手を伸ばしたのは、そんな幸福感からかもしれない。
口付けると、湊の顔が泣きそうに歪んだ。
「どうしたのです?」
ぎゅっと、腕を掴んでくる。耐え切れないように、俯いた。
初めてだった。
湊が瞳で訴えたのでもなく、駆け引きもなく、本当の意味で各務から湊を求めたのは。各務は気付いていないかも知れない。でも、湊はその伸ばされた手が、嬉しくて堪らなかった。
残酷だ。
こんな思い出は、残酷だと思う。
でも、それを信じて歩むことは出来る。
そっと髪に降ってくる口付けも。
熱い手のひらも。
「各務…」
好きだと呟く言葉は、声にはならなかった。各務は、その湊の瞳から零れる涙に口付ける。
それは、海の水と同じ味がする。
涙の訳を、各務は知っている。
今日だけは、その海に溺れるようと、各務は思う。
どんなときも、休暇は夢のように過ぎて行く。
切なく、儚い、でも、確かな思い出を―――残して。
了
■この話は、以前のホームページ、月虹図鑑の10000hitsを踏まれた、なつめさんのリクエストにお答えして書いたものです。リクエストをしてくださったなつめさんに、もう一度、多謝。