* 02 |
奏でられない音 01 |
柔らかい雨が降ると、思い出す夜がある。 伊織は何度目かのため息を、グラスの液体と一緒に飲み込んだ。しっとりと降りつづける雨は、やみそうにもない。ただこの雨は、今までとは違って、暖かさを運んでくる。明日の朝は、霧が出るかもしれない。 さっきまで瞳香が来ていたが、抱き合うこともなく帰って行った。 肌を重ね合わなくなって、もうずいぶんと経つ。瞳香にも、その気は無いようだった。 ただ少し、時折心配そうな顔を見せる。でもそれを、聞いてくるわけでもない瞳香に、伊織は甘えさせてもらっていた。 ふいにドアを叩く音がして、伊織はけだるそうに顔を上げた。 本日休業のプレートを掛けなかっただろうか。 居留守を決め込んだ伊織に、尚も音が響いている。時はもう、午前0時を迎えようとしていた。これ以上は近所迷惑になる。ぼろアパートは、音の響きが半端じゃない。 伊織は諦めて、ノブに手を掛けた。でも、チェーンは外さないで、そっと外を覗う。 「久しぶりだね」 その声に、伊織は反射的にドアを閉めようとした。でも声の主の後ろに立っていた男が、そのドアを引っ張る。伊織より10センチは背が高く、一切無駄な筋肉がない様に見えるその男に、腕力で勝てるとは思えなくて、伊織はため息と共に力を抜いて、チェーンを外した。 「何しにきたんだ」 「部屋にいれて。ここじゃうるさいでしょう?」 不機嫌な伊織に臆することもなく、するりと伊織の脇を抜けて中に入る。伊織は諦めて、後ろの男にも中にはいるように目で促した。 「伊織くんらしい部屋」 立ったまま、楽しそうに部屋を見ている。伊織の部屋は何もない。シンプルと言うより殺風景な部屋なのは、あまり物を持たないほうが良いという父の教えを守っているからだ。 「用件を言ってくれ。また命でも狙われたか?」 伊織がほとほと嫌そうな顔をするが、相手はそれを面白がっている節がある。それが伊織には気に入らない。 「俺がここにいるって、どこからその情報を仕入れてきたんだ」 伊織は湊にではなく、後ろの各務に視線を向けた。でも各務は、答えようとはしない。答えられないと分かりきっているのに聞くのかと、そんな表情だった。 「伊織くん、携帯の番号変えたでしょう?」 「誰かさんのおかげでな。ルール違反だ、あれは」 伊織がそう睨むのに、湊は悪びれずにごめんとだけ言った。 「てっきり相思相愛かと思ってたから。今日になって和音くんから泣いて電話があったときには、驚いちゃったよ」 ふと漏れでたその名を、伊織は聞かなかった振りをしようとして、それに失敗した。思わず唇を噛み締める。 「君の所に電話をかけても通じない。このままじゃ、僕はヴァイオリンを弾けなくなる」 湊がそう言うのを、伊織は直視できずに、下を向いて聞いていた。 「その用件なら帰りな」 低く、冷たい、感情を押さえた声。それを湊はわかっているのに、怯みもしない。 「あのヴァイオリンが聞けなくなるのは惜しくてね。柄にもなくお節介してるんだ」 薦められもしないのに、伊織の正面に座る。じっと、その顔を見つめるために。それから各務の方を向いた。各務は無言で何かを伊織の前に置いた。 「明日発のフランス行きの航空券」 そう言って、湊がにやりと、笑う。伊織はそれを一瞥しただけで、湊を睨む様に視線を戻した。 「素直に行くわけないよね」 湊が、今度はくすりと笑う。各務がそれを合図のようにドアへと向かった。そして、そのドアを開けると、伊織も見知った、一人の男が立っていた。 「久しぶりだな」 そう差し出された手を、伊織はきつく握る。会うのは、二度目だ。でも、同じ匂いに、互いが気付いてる。 「なるほど。君が伊織くんか」 にやりと、ほんの少し口角を上げて笑う。そこにあまり好意を感じ取れなくて、伊織は相手を睨みつけた。 互いに、値踏みするように全身を見る。 「志筑さんがね、お仕事依頼したいって」 ぴりぴりとした雰囲気を感じていないわけではないのだろうに、湊が無邪気にそう言う。 「あなたも、あのとき俺が湊じゃないって知ってたわけか」 「いや。今回初めて知ったよ。成宮に連絡をとって、会ってくれると言うから驚いて、成宮湊に会って二度驚いた」 自分が和音から紹介された湊とは違う人物。でも、説明を受けて納得した。自分と同じ匂いをさせたあの男が、探偵と聞いたときに。 「俺に依頼なんかしなくたって、自分でどうにかすればいいだろう?」 その言葉に、志筑は軽く笑ってため息をついた。 「残念ながら俺じゃだめなんでね。それに、俺はただの真藤和音のマネージャーだ」 伊織がため息をついて、ソファーに身を深く沈める。 「で?何を依頼したいんだ?」 「真藤がね、向こうでストーカーにあってるらしいんだ」 一ヶ月ぐらい前から、和音のアパルトマンに届く手紙。鳴り止まない電話。一度は、その部屋にも侵入された。 「電話を止めていてね。それで分かったんだが…」 志筑が苦々しい声で話す。志筑は日本での和音のマネージメントはするが、海外では頼まれない限りついて行ったりしない。もともと和音は海外では一人で公演スケジュールの管理をしていたのだ。どちらかと言うと勝手がわからないのは日本の方で、だから、志筑に任せている。 「あいつは、なんでもないと言う。でも向こうの知人に頼んで様子を見てもらったらこれだ」 もう一つ、志筑には気に掛かることがあった。その知人の報告の中に、最近和音がヴァイオリンを弾いていないと言う報告があったのだ。 「それで?わざわざ俺に向こうに行けと?」 伊織の冷たい声に、湊はくすりと笑う。その奥底が読めて、おかしくなる。 「もう一つ。僕からの依頼があるんだ」 伊織が嫌そうな顔をする。その感の良さに、湊は楽しくなってくる。 「和音くんの音を取り戻して。彼がヴァイオリンを弾けるように」 心の底の底を見つめるような湊の視線から、伊織は逃げるように顔を背けた。ため息をついて、部屋の隅を見つめた。 ぎゅっと堅く閉じられた唇を、湊がじっと見ている。 迷うことなんかない。すぐにでも用意をして、行ってしまえばいいのだ。 でも伊織は頷かない。チケットに、手を伸ばすこともしない。 「今頃のパリはまだ寒いときもあるよ。コート、忘れないでね」 湊が呆れたようなため息と共に立ちあがって、にっこりとそう笑った。湊にとって、返事など一つだ。仕事なんだから、と逃げ道を作ってあげることは簡単だが、湊はそれを望まない。それでは、いけないと分かっている。ひらひらと振られた手を、伊織は恨めしそうに眺めた。ぱたんと、現れたときとは反対に控えめにドアが閉まった。その音を聞きながら、伊織は動かずに、じっと机の上のチケットを見ていた。 しっとりと降る雨を、伊織はタクシーの窓から眺めていた。灰色の街並みに、けぶる様に降りつづける雨から、目が離せないでいる。 「Voila,Monsieur」 「Merci」 タクシーを降りると、寒さに身が縮む。湊の言っていたとおり、まだ、寒い。伊織はホテルへ駈けこんだ。 和音の住むアパルトマンの向かいのホテル。手回しのいい湊が、用意したものだ。こぎれいな、小さなホテルだった。チェックインを済ませて部屋に入った伊織は、カーテンをひいて、教えられた和音の部屋をその隙間からのぞき見る。人影は、見えない。 和音のアパルトマンも、それほど大きくはなかった。パリの何処にもあるような、歴史を感じさせる石造りのそれは、ひっそりと、と言う形容が一番似合うかのように、建っていた。和音は、その3階に住んでいる。 伊織はため息をついて、髪をくしゃくしゃと掻きまわした。 気分が悪い。 十二時間余りのフライトも、湊がファーストクラスを取ってくれた所為でいつもより数倍快適だった。機内でなるべく眠ったから、時差ぼけもあまり感じない。 そんなことじゃない。 気分が悪いのは、そんなことの所為ではないと、わかっている。 たぶん、この雨の所為。 そして、自分が今ここにいると言うことの所為。 伊織は視線をその細い道に移した。石畳のその道に、雨が容赦なく降り注いでいる。でもその雨のしずくは、細かくて目に見えない。 大通りから一歩入ったここは、とても静かだった。 人通りも、あまりない。今も、犬が一匹通りすぎただけだ。 静かすぎて、耐えられなくなりそうだった。 この静寂の中で、いらないことが次々と浮かび上がってきて、それを振り払うのに必死にならなければならない。それが、伊織を堪らなくイライラさせた。 聞こえない雨の音は、いつも同じ風景を蘇らせる。 いつも、同じ夜を思い出させる。 それを、もうどうしようも出来ないと、伊織は半ば諦めていた。 何度も何度もなぞったその記憶が風化するのを、大人しく待っているしかないのだと。 あの夜。 和音は雨の中、あの場所をなかなか離れなかったと、志筑が苦笑いしていた。じっと、前方を見つめたまま動かずに、雨に濡れていたと。 「あなたには感謝しなければならないんだ」 その夜を思い出して、伊織はそう笑った。口角を少し上げるだけの、皮肉な笑い。それが彼自身に向けられていると、志筑にはすぐにわかった。 「あなたが居なければ、俺はあの人を傷つけるか壊すか…」 あのとき、視界に入った志筑に、伊織は夢から醒めた。現実を、思い出した。 「それは今でも同じだろう」 非難の、声ではない。伊織はその声に、志筑を思わず見た。 「同じなんだよ」 念を押すように言われて、伊織は小さく息を吐き出した。 どうしろと言うのだ。 出会わなければよかったと、そう後悔してみても、どうにもならないのに。 「あんたならわかるだろう。俺はあの人を傍に置くことはできない。あの人は、俺の傍らにいちゃ行けない」 「俺はそんなシビアな世界にはいないよ」 「俺は有害にしかならない」 きっぱりとそう言った伊織に、志筑は薄く笑った。子供を見る親のような、生徒を見る教師のようなその顔に、伊織は戸惑った。 「最初に会ったとき、こいつはやばいって思ったよ。なんだって真藤はこんなヤツを連れ込んでるんだろうって」 湊が帰ってから出されたコーヒーを一口飲んで、志筑は伊織と視線を合わせる。 「でも、君のおかげで、真藤は新しい音を捕まえた。あの最終日のコンサートの時、俺の驚きはすごかったんだよ」 志筑が楽しそうに笑うのを、伊織は不思議そうに眺めた。 「俺はね、真藤の音に惚れ込んでる。あいつが、あんな音も出すなんてな。驚いて、興奮したよ」 志筑には、まず和音の音ありき、なのだ。だからこそ、和音も安心して任せているのだろう。 「その音さえも、聴けなくなるかもしれないですよ」 伊織に関われば。何が起こるかなんて、わからないのだ。 「言っただろう?同じなんだよ」 弾けないヴァイオリン。その意味しているところを、長い付き合いの志筑にはわかっていた。それは多分、ストーカーの恐怖だけではない。怖いのは、ヴァイオリンと、和音自身の心なのだろう。 伊織は天井を仰ぎ見た。皆が皆、逃げ道を塞いでいく。志筑が反対すれば、それを理由にだって出来たのだ。 どうするのか、結局は、自分できめなければいけない。分かっているけれど、何とかしてそこから逃げ出したかった。 伊織はもう一度、カーテンを指先で少し持ち上げて、和音の部屋の様子を覗った。 ふらりと、和音の姿が現れた。 覚えている。 遠くから見ても、美しいと思わずにいられなかった、あの佇まいを。 腕を掴まれたのが、まるで昨日のように、思い出せる。 風化なんてしない。呼ばれた、あの声だって。 たった一度だったのに、耳元で囁かれているように錯覚できるくらい、覚えている。 もう、逃げられない。 どうするかを、決めなければいけない。そのために、来たのだから。 毎朝七時には起きて、近所のパン屋へバゲットを半分買いに行く。週に一度のマルシェの時は、そこをふらふらして帰る。 和音の一日は、規則正しく行われていた。 それに合わせて、伊織も七時には起きて、和音の様子を覗う。マルシェの時は、立ち並ぶ露店の品物を見る振りをして、その後をついていった。 一ヶ月近く、和音はその毎日を繰り返していた。いや、もっと前からだったのかもしれない。 どこにも、いかないのだ。 買い物は全て近所で済ませていた。部屋を出るときといったら本当にそれ位で、あとはずっと部屋に篭りきりだった。 その和音が、日に日に痩せていくのを、伊織は見ていた。 手紙は多分、毎日来ている。内容は、志筑に見せてもらったことがある。 ただ、一言。 Je t'aime. そう書かれているだけだった。伊織と和音の間で、どうしても言えない言葉を、毎日送って来るのだ。 「愛してる」 その言葉を言って欲しいのは、たった一人なのに。 部屋にばかりいる和音の元に、その手紙の送り主は、なかなか現れなかった。和音の後を追いながら、周りにも神経を尖らせているけれど、それらしき人物はいなかった。 伊織が来てからもうすぐ一ヶ月と言う頃、和音が初めて少し遠出をした。ラ・ヴィレットの、和音の母校を訪ねたのだ。決意したように向かった和音が、暗い顔をして出てきて、ヴァイオリンを弾けない苛立ちが、伝わってきていた。 確かにここ一ヶ月のこの滞在の間、伊織は和音がヴァイオリンを持っているのを見たことがなかった。和音のアパルトマンでは音が漏れる。だから別にスタジオを借りていると、志筑は言っていた。でも、そのスタジオに行ったことなどない。 やっと、弾く気になったのだろう。でも、実際には弾けなかったのだ。弾けない期間が長くなれば長くなるほど、和音の失うものは多い。それを分かっているから、和音は焦っている。 弾きたいのに、弾けない。怖くて、弾けない。 両親を亡くしてから、和音にはヴァイオリンだけだった。どんな時でも、ヴァイオリンが弾ければ良かった。でも、密着していたからこそ、ヴァイオリンの音は、和音に正直だった。今ヴァイオリンを弾いたら、和音は自分の気持ちをごまかせない。見つめて、突きつけられて、苦しい、痛い思いをしなければいけない。 それが、怖かった。耐えられないと、思った。 今日も弾けなかった。 和音はどうにもならない苛立ちと絶望感を、どこにぶつけたらいいのかわからなくて、大きくため息を吐いた。 だめかもしれない。 そう、思う。でも、そう思いながら、こんなことぐらいでそんな弱音を吐く自分を、和音は不思議に思った。 こんなに、弱かっただろうか。 自分は、こんなに、弱かっただろうか。 わからない。もう、以前の自分なんて覚えていない。たった数ヶ月前の自分が、思い出せない。 古い、黒光りするような階段を上るのがつらい。肩から下げているヴァイオリンが、とてつもなく重い物に感じる。体力が、落ちている。分かっているのに、食べることが出来ない。なんとか食べているそれは、食事と呼べるものではない。 餌を食べているようだ。 なんでもいい。食べられるなら。でも出来るなら、食べないでいたい。その気持ちを押し隠して、無理やり口に食料を運んでいるだけだ。吐き出さないだけ、ましだろう。 いつから、こんなに弱くなってしまったのだろう。 どうして、こんなに弱くなってしまったのだろう。 ぐるぐると、頭の中を回っているだけの質問を振り払う様に、和音は頭を振った。それから、ようやく辿りついた部屋のドアに、鍵をさしこんだ。 瞬間、どきっとする。 鍵が、入らない。慌てて辺りを見回すが、そこは確かに和音の部屋だ。間違えてなどいない。 和音は恐る恐る、ノブに手をかけた。ゆっくりとまわす。 開いていた。 その瞬間、数週間前のことを思い出した。あの時も、部屋の鍵は開けられていた。テーブルの上に、手紙があった。 愛してると、書かれた手紙。 それを思い出して、和音は無意識の様にテーブルに目を向けた。 ある。 封筒が、置いた覚えなどない、白い封筒が、あった。 その隣に置かれた飲み掛けのコーヒーが入ったマグカップは、和音がいつも愛用しているものだ。でも、最近和音はコーヒーをブラックでは飲まない。胃に負担が掛かりすぎて、飲めないのだ。 でも、黒々としたコーヒーが、カップに半分ほど入っていた。 そのテーブルの足元には、服が散らばっていた。あれは、いつも着ているルームウエアだ。 その服の上に、無数の白い点が、糸のような線が、飛び散っていた。まるで、牛乳がこぼれたかのような。 和音はそれを無表情に見つめてから、白い封筒を手に取る。いつも糊付けされていない、その封筒の中を、取り出す。 Je t'aime. A tres bien tot. 愛してる。またすぐ近いうちに。 和音は、視線をカップに戻した。そのカップから、ほんの少し湯気が立っているのが見えて、視界が、揺れた。 |
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