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腹黒天使と純真悪魔の奇妙な物語


第一話 01

 その二つの町は、小さな湾を囲み、その湾へ流れ出る大きな河を境に分けられた、大きくもなければ小さくもない、国の中では中堅どころの町だった。二つの町は、海から眺めて右手はリ・リシュア、左手はリ・キアと名づけられていた。リとは、「人が住まう所」という意味がある。
 リ・リシュアの町は白亜の断崖絶壁の上にたつ、海洋商業の盛んな町だった。古くから陶器の生産で知られたその町は、やがてそれを輸出することにも才を見せたのだ。断崖絶壁も湾に入ると緩やかになり、風も穏やかな湾内は絶好の港となった。それはリ・キアとて同じことで、この町は漁業で栄えていた。正し、リ・キアはどこまでも緩やかな海岸線が続く町である。
 リ・リシュアの町の岬には、大きな白亜の城がある。古代、海の神に捧げられたその建物は、大幅な改築などを経て、やがてリ・リシュアの守護天使、リシュアに捧げられるようになった。リシュアは「看取りの天使」と呼ばれ、四大天使の一人だが、町の名がそのままなのであやかったのか、それともまだ町と呼べるほどその地方が盛んではなかった頃、その建物がリシュアに捧げられたために町の名がついたのか、わからない。看取りの天使はあの世へと旅立つ人間に、安らぎの笑みをもって幸福を与えると言われていることから、「リシュアのように、笑顔を絶やさず、幸福を与えられるように商売を」と商業組合はやや無理矢理気味にその目標を掲げている。
 一方、荒っぽい漁師たちの町リ・キアは、上位悪魔の一人、キアの町だと言われている。「青い悪魔」の名があるキアは、海を好むといわれ、漁師たちにとっては絶対に怒らせてはならない存在だった。リ・キアはその名でもって悪魔のキアを敬うことを示し、前面の海で暴れることがないよう祈っていた。
 それはもう、何百年も昔から、一方は天使に、一方は悪魔に加護されながら、この二つの町は栄えてきたのだった。そしてその二つの町が囲む湾内に、ごく小さな町くらいはできそうな島があった。それはどちらの町のものでもなく、ただじっと、湾内に襲いかかる波を和らげてくれていた。その名を、テフ島という。ときどき渡り鳥が羽休みをする以外、生き物の気配もない、岩だらけの島だった。


 リ・キアの内陸奥深く、少しばかり小高い丘の上、深い深い森の中の大きな屋敷の最上階から、キアはなんとなく湾内を見ていた。ゆらゆら揺れる帆船はリ・リシュアの商船だろう。内陸の丘から見えるのは、専ら対岸の様子だった。リ・キアの港の様子は、ここからは見えづらい。海はキアの内面を写すかのように、物憂げに波打っていた。
 ――つまらない。
 キアはふわりと欠伸をした。この間の嵐以来、暴れる時がなく、キアは退屈していた。悪魔といえども、好き勝手に暴れまわって町を破壊したりすることは許されない。特にリ・キアの町は曲がりなりにもキアを敬っている。勝手なことをすれば大悪魔に叱られるに決まっていた。
 ――この間の嵐は楽しかった。大悪魔の奴、すげー怒ってたもんなあ。俺も大事にしてた海を汚されて頭来てたし。だいたい、リ・リシュアのやつらはあのリシュアに許しを請えさえすればいいと思ってるのが間違ってる。リ・キアのバカどもまで一緒になりやがって……。
 つい二週間前のことを思い出して、キアはむっと眉根を寄せた。
 二つの町から見える海は常に美しい。深い青い色も、豊富な魚類や珊瑚も、キアのお気に入りだった。それを、リ・リシュアの羊飼いが汚そうとしたのだった。病気で死んだ、羊を海に流すことで。その病気の羊だって、きっと自然を愛する緑の悪魔を怒らせた結果に違いないのだ。だからこそ、その死骸を火にくべることが怖かったに違いない。悪魔に魅入られたものの死体は、必ず清めてからではないと火にくべてはならないというのがこの地方の言い伝えだった。司祭による清めの儀式無しに火にくべると、再び悪魔として蘇ると信じられていた。三人の羊飼いは、後ろ暗い何かがあって、司祭に清めの儀式を頼めず、人目を憚るようにしてその死骸を海に流そうとしたに違いない。
 あの緑の悪魔のことだ。きっと感染性の強い病気をばら撒いたに決まっている。悪魔にはまるで見えない、柔和で優しい顔をした緑の悪魔は、怒らせると悪魔の中でも特に怖い。その容赦のなさは、キアでも目を覆いたくなるときがある。それも、結構陰険で執拗でもある。羊飼い達の羊は、きっと全滅させられるに違いない。その羊を海に流されるなんて、キアにしてみれば真っ平ごめんだった。訴えはすぐに受け入れられて、キアは暴れに暴れたのだった。大悪魔も、好きにやれと言ってくれた。もちろん、緑の悪魔の後押しもあった。羊だけで終わらせるつもりなど、端からなかったのかもしれない。
 人は見かけによらないのだ。
 ――見かけによらないと言えば……。
 ふと隣町の大天使を思い出して、キアは顔を不機嫌そうに歪めた。「看取りの天使」と呼ばれ、その笑みは人に安らぎと幸福を与えると言われる天使だ。確かにあの微笑みは、キアにしてみれば背筋が寒くなるほど優しい。だが、その言動は全く正反対だ。キアをからかっては笑っているあの天使を詐欺と言わずしてなんと言おう。あの、人を小馬鹿にしたような笑みさえ優しく見えるのは、絶対におかしい。
「キア様。お食事の用意が出来ました」
 声を掛けられて、キアは気だるそうに振り向いた。扉の横に、小悪魔のヤンが立っている。小悪魔と言っても、もうずい分と育って、もうすぐ悪魔に昇進しそうだ。
「あんまり食欲ないんだけど」
「でも食べないとまたカイルさんに怒られますよ?」
 ついでに、一緒にヤンも怒られる羽目になる。上位悪魔に楯突くのは容易ではないというのに、「縛り付けてでも椅子に座らせて食べさせろ」と上役のカイルは言うのだ。と言っても、本人はそれをやりかねないからヤンは反論しきれずに困ってしまう。
「……ヤンはさあ、俺の小悪魔だよね?」
「ええ、まあ。でもカイルさんもキア様付きの悪魔で、俺の先輩ですから……」
 キアはため息を吐きつつ、立ち上がった。ときどき、一体誰が一番偉いのか、わからなくなる。
「食欲ないのは、一日中部屋にいるからじゃないですか? たまには外に出たらどうです?」
 食堂までの道を歩きながらヤンが言うのに、キアは「面倒」と一言で答える。
 面倒というのは悪魔の口癖のようなものだ。何か愉しいことでもない限り、確かにヤンも外に出たりしない。ヤンは何かキアの気を惹くものはなかったかと考えた。
「この間の嵐のときの暴れた後は見に行きました? ほら、リシュアの城も少し壊したって言ってたじゃないですか」
 ライバルとも言える大天使の城を壊したということで、こちらの館では朝まで宴会騒ぎをしたのだ。
「壊した後見たって仕方ないだろ? 別に壊そうと思って壊したわけでもないし」
 リ・キアの住人に対してはあまり酷いことをしないことにしているキアは、最初は海を大荒れにし、三人を海に近付けさせなかった。だが、羊飼い達がリシュアの加護を祈りだしたところで頭に血が上った。それからは暴風雨を起こし、雷を落としと存分に暴れたのだった。その雷が、どうやらリ・リシュアの城に落ちたらしい。だが、それでもリシュアは出てこなかった。普通の天使なら、ここで悪魔を諌めに出てくるところだ。
 実は、キアにはそれが、気に入らない。いつもの小馬鹿にしたような余裕の表情で、リシュアが笑っているような気がするのだ。そんな傷は、たいしたことがないと。
「あの夜は確かに結構見境なく雷落ちてましたね。でも、リシュアはもう城の修繕に掛かるようですよ?」
「まだだったのか」
「はい?」
「もう、じゃないだろ。まだ直してなかったのか?」
 あの程度――海に面した東の塔の辺りが崩壊しただけ――ならば、リシュアは一日で直す事だって出来ただろう。それを未だに修繕していないという方が不思議だった。
「ああ、それがですね。なんか、新しく城を建てるみたいで――」
 ふとキアが立ち止まって、ヤンを見た。その寒々しい目線に、思わずヤンは首を竦める。
「新しい城?」
「え、ええ。もう古いから、どうせなら建て替えようと思ってるみたいで……」
 それなら徹底的に壊すんだった。
 キアはそう思ったが、実際は常々あの白亜の城を美しいと思っていたから、残念でもあった。といっても、今自分が住んでいる城には敵わないと思っている。あの大悪魔が住んでいる城よりもっと――規模は敵わないにしても――自分の城の方が美しいと思っていた。
「それにしてもヤン、よくそんなこと知ってるな」
「それはまあ。街にさえ出ればわかりますよ。俺たち悪魔と天使の間では、今、その話で持ちきりですから。特に天使たちは、壊した上に宴会までした俺たちを気に入らないみたいで、今までにないほどの綺麗な城を建てるんだって得意そうに言ってて――」
 ふいに暗い廊下にぼっと火が灯って、ヤンはふるりと背を震わせた。等間隔に壁に付けられている蝋燭が、高い天井を焦がさんばかりの勢いで燃えている。
「あの、キア様? 火事になりますよ?」
 僅かばかり見上げた顔は、怒りに歪んでいた。
 やっぱり言うんじゃなかった。ヤンはこっそりため息を吐いた。キアがこの城を最も美しいと思って誇りにしていることは良くわかっていたのに、つい天使たちの得意げな声を思い出して、この憤慨を主人にも分かって欲しいと思ってしまったのだった。
「あ、キア様! どこ行くんですか!」
 気付いたときには、キアは近くの窓から飛び出していた。今食事に連れて行かなければ、カイルに絶対叱られる。ヤンは思わず飛びついたが、見事にキアに蹴られてしまった。
「カイルさんが怒りますって!」
 叫んでみたが、無駄だった。暗い夜の森の中、羽がはばたく音が瞬く間に遠ざかっていった。


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