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腹黒天使と純真悪魔の奇妙な物語


第一話 04

「すごい……」
 キアはふらふらと吸い込まれるように、その建物の前に降りた。呆然としているのか恍惚としているのかわからないような表情で、城を見上げる。それからそっと、大玄関に足を踏み出した。
 ひんやりしていて気持ちがいい――。
 うっとりとそう思ったところで、扉が開いた。その扉も、柱も、壁も、何もかも、透明だった。それが朝の光に、燦然と輝いていたのである。
「キア、早速来たのか。中も見るだろう?」
 どうぞ、と促されて、キアはふらふらと中に入っていった。扉は、他の悪魔たちが入ってくる前に閉められてしまったが、キアはそんなことも気付いていない。すっかりこの城に心を奪われたように、口をぽかりと開いて辺りを見回していた。その目がきらきらと輝いている。
 ――まるで子供だ。
 新しいおもちゃを与えられた子供と同じだ。リシュアはそのキアを見て、ひどく満足だった。この城を建てたのは他でもない、キアのこの顔が見たかったからだ。
 ブロックのように積み上げられて作られた透明な壁からは、柔らかい光が注がれる。厚さがあるために、強い光も弱められている。その光が、キアのしっとりと濡れたような黒い羽を照らしていた。
 白い服を着て、ほとんど金髪ばかりの天使たちでは、この城の中に溶け込んでしまう。だが、キアはその存在をはっきりと示す。そしてそのキアによって、城自体もその形を現す。まさに、キアのために建てられた城だった。
「綺麗だ」
 うっとりとしたキアの声に、リシュアは目を細めた。出来ることなら、違う場面でこんな声を聞きたいものだと思う。
「気に入ったか」
「ああ……。すごい。綺麗だ」
 ふわりと飛んだキアは、柱の細かい彫刻を愛しそうに撫でる。リシュアはその悪魔を下からゆったりと眺めた。
「悔しいけど、負けだ。オレの負け。テフ島はおまえにやる」
 キアがきっぱりと、そしてあっさりとそう言ったので、遠巻きに様子を伺っていた天使たちは驚いた。だが、リシュアは満面の、見たこともないような優しい笑顔を零した。
「男らしいな、キア。俺はお前のあの城も綺麗だと思うが」
「――嫌味っぽいぞ、それ。まあ、あれがオレの精一杯だけどな。これが一番。で、あれが二番なのは認めるってだけだ」
 そう、一番美しいわけではないかも知れないが、二番目ではある。キアはゆっくりと地に降りた。
「ああ、美しいことは変わらない。テフ島と共にあれを貰うのは申し訳ないくらいだ」
 キアがふと視線を寄越したので、リシュアはそれに微笑を返した。
「心配するな。壊すような無粋なことはしない。庭はいじらせて貰うが、あの城は大事にする」
「別に、壊してもいいけどな」
 天邪鬼なキアはそうは言ったものの、内心ほっとしていた。外からときどき眺めるだけでもしたいと思っていたのだ。
「そんなこと、するわけないだろう」
 いつの間にか、リシュアはキアの隣にいた。その手でそっと、キアの髪を撫でる。キアは少しだけ、面白くなさそうな顔をしていた。壊されないと知って、嬉しいと思った気持ちを悟られたくないのだろう。
「天使たちが慣れるようにもう少しだけ明るくしないとならないかもしれないけどな。特に庭は、天使には合わない」
「ああ、別に好きにしてもらっていいから」
 この城を見せられた後だ。キアには、リシュアの趣味を疑う理由がなかった。きっとあの城も、たとえリシュアの手が入ったとしても、美しいままに違いなかった。
「またしばらく忙しいな……。ああキア、そんなに気に入ったなら、しばらくここに滞在したらどうだ。どうせ俺たちは、向こうに掛かりきりになるだろうし」
 リシュアの言葉に、キアは目を輝かせた。
「テフ島にも、もちろん来てもらって構わない。おまえの部屋は残しておくから」
「本当か? ここにいてもいいか?」
「もちろん」
 ああ、やはり大天使さまだ。なんて心が広いのだろう。物陰から覗いていた天使たちは、そう思った。ただ一人、全てを知るサシャだけは、ため息を吐いて、頭を横に振っていた。
 悪魔だと言うのに、キアがなんだか可哀想に思えたのだった。


 勝負が行われたその日を境に、季節は春に向かっていった。すっかり暖かな陽気になって、海からも温い風が吹いてきていた。天使たちはテフ島の中にせっせと花を植え、暗い雰囲気だった城にも多くの花が飾られた。そして悪魔たちはうきうきと、悪戯を繰り返していた。
 キアはあの日以来、リ・リシュアの城で寝起きをしていた。そして毎日、うっとりと城の中を歩き回った。キアの一番のお気に入りはドーム状になっている音楽のための部屋で、食事も昼寝もそこですませて、一日中いることもあった。
 だが、一週間もすると、キアも城の様子がおかしいことに気付いた。城の周りは常に雨に濡れたようになっていたし、入ってくる光も強くなった気がした。そして、街中が長い冬が明けた祝いをしていたその日、キアお気に入りの音楽部屋の天井から、とうとう、ぽたりぽたりと水滴が落ちてきたのだった。
「氷……?」
 呆然と呟いたヤンの声が、空しく空間に響いた。ぽとんっと落ちる水滴が、光に輝いて綺麗だった。ひどい皮肉だ。
 キアはぐっと唇を噛んで柱を、壁を、天井を見た。ひどく怒っている。今にも再び水を凍らせるのではないかとヤンが思ったほど、冷たい目をしていた。いつの間にか、ふらふらと城の中を散歩していた小悪魔たちはいなくなっていた。ヤンもまた、いつ逃げ出そうかと機会を伺っていたが、ふいに辺りが熱いくらいに感じられて、ヤンはとうとう羽を羽ばたかせて飛び出した。瞬く間に、城が溶けていく。キアが怒りの余りに熱を発散させたのだ。
「キ、キア様……」
 まるで嵐のような羽ばたきが聞こえて、ヤンは恐ろしさに身を縮ませながらも、主人の名を呼んだ。だがそのときには、既にその黒い影は、テフ島へと消えていた。


 天使たちが何やら騒ぎ出して、リシュアはうたた寝から目を覚ました。ふわりとあくびをしてから、頬を緩める。待ちかねていた人物が、ようやくやって来たのだ。
「リシュア様! 青い悪魔がものすごい悪意をばら撒きながらこっちに向かってます! 見習いの中には毒気にやられて倒れたものまで……」
 いつもは必ず控え目に扉を叩くサシャも、さすがに慌てているようだった。リシュアは微笑んだまま、
「見習いや低級の天使たちはちゃんとどこかに逃げるように言っておけ。他の天使も手を出さないように」
「で、でも……」
「今のキア相手じゃ、みんなやられるだけだよ? 邪魔しなければきっと真っ直ぐここに来るだろうから、進路を塞いだりしないように」
 わかった? と微笑まれて、サシャはこくりと頷くしかなかった。大天使様はどうやらとてもご機嫌だ。それでもちょっとばかり緊迫したような空気を感じるのは、やはりあの悪魔の怒気が尋常ではないからだろう。サシャはそれが誤解だとも知らぬまま、大天使の言葉をみんなに伝えるために、部屋を後にした。
「キア……。俺はここだ。早く来い」
 今、キアは自分のことばかり考えていることだろう。真っ直ぐ、自分を目指して飛んできているのだと思うと、リシュアは笑いが込み上げてくるようだった。
 キアが作ったテフ島の城は、一週間で仕上がったとは思えないほど素晴らしい出来だった。凝り性のキアらしく、内装や家具もきちんと仕上げてある。すぐに快適に暮らし始めることができて、天使たちも思わず感嘆したほどだった。
 リシュアは、キアの部屋と思わしき主人部屋にいた。天使たちには自分たちの好きなようにしろと言ってあったが、自分の部屋は一切手を加えていない。キアが作ったそのままの部屋でずっと、キアを待っていたのだ。
 リシュアは自らグラスを二つと極上のシャンパンを出して、キアを迎える用意をした。悪意と怒気が肌に刺すほどの勢いで近づいてくるのがわかる。そのすべてが、自分に向かっているのだ。狂気じみた心地よさに、リシュアは口元を緩めた。
 ばたんっ、と扉が開いたとき、リシュアはシャンパンを細いグラスに注いでいるところだった。そのグラスが揺れるほどの力強さで扉は開いた。
 ゆっくりと入り口を振り返ると、全身の毛を逆立てたようなキアがいた。黒い美しい羽も、怒りのせいか小さく震えている。
 真っ直ぐ、射るような視線が突き刺さる。リシュアは深い満足の笑みを浮べた。
「寝起きのシャンパンを飲もうと思っていたところだ。どうだ、キアも」
 淡い金色の液体を注いだグラスを掲げると、それは一瞬でぱりん、と割れた。美しき悪魔は、どうやら相当怒っているらしい。
「おまえ、騙したなっ」
 キアの怒声が城中に響いた。外ではゆっくりと羽を休めていた海鳥たちが、いっせいに飛び立った。
「騙した? 俺はキアに嘘をついたことはないが? そもそも俺も大天使の端くれ。そんなことをすれば罰が下る」
 それなら、何故今まで一つも罰を受けていないのか不思議だと配下の天使たちは思うだろう。だが、確かにリシュアは嘘をつかない。ただ、天使長が頭を抱えたくなるほど、ずる賢いだけだ。
「だったら、あの城は何だ! 氷でできてるなんて……」
「氷で作られていようが、城は城。ちゃんと生活できただろう? それに、儚さも美しさを助長する要素の一つだと思うが。キアにその情緒をわかってもらえなかったのは心外だな」
 キアがきりっと歯を噛み締めた。だが、羽の震えは治まり、辺りを漂っていた怒気も悪意も、僅かながら和らいだ。
 納得がいかない、という表情をしているキアを見ながら、リシュアはこくりとシャンパンを飲んで、小さくため息を吐いた。心底残念だ、という顔をしてみせると、キアも大きな深呼吸をした。美的感覚を批判されるのが、キアにとっては最も傷つくことだと、リシュアにはわかっている。本当に、悪魔にあらざりき素直さだと思う。
 リシュアは目を伏せながら、上がる口角を隠すようにグラスを再び口に運んだ。さて、この長たらしい計画の仕上げをしなければならない。



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