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私語辞典
あいうえお
【青いペン】…いくつあっても足りないもの。
いつ頃からか、青いペンばかり集めるようになりました。今はそれほどではないですが、昔は新しい青いペンを見ると、買いたくなっていました。青といっても、紺、藍、水色、花田色、ブルーグレー等々、それぞれのペンによって色は違い、線をひいてはこの色はいい、などと思っていました。と言って、それほど使う機会があるわけじゃないのですが…
何故、アオと言う色に惹かれるのか、今でも分かりません。何がいいのか、説明できない。でも、だからこそ集めたくなる。
いつか、青いペンの標本をつくりたいなどと、思っています。
* * * * * * * *
史緒の書く字は、少し癖がある。右上がりに力が抜けていくように書かれたその字を、翠は密かに好んでいた。
特に、万年筆で書かれた字は、きれいにグラデーションが出て、翠は飽きずに眺められた。
史緒は、黒ではなく、ブルーグレーのインクを使う。その色も、白い紙に厭味なく掠れて、翠は好きだった。
「だいぶ丸くなったね」
「ん?あぁ…うん」
放課後の図書室は静かで、夕陽が部屋を染めるから、二人のお気に入りの場所だった。
翠は読んでいた本から目を上げて、必死に書き物をしている史緒の手元を見た。授業をさぼった罰に課せられた、レポートだった。
史緒は時々、この教諭の授業を受けずに、どこかでうたた寝をしていたりする。翠はその理由を聞いたことがないが、このレポートとその添削が楽しみなのではないかと思っていた。そう言うわけの分からないことをするのが、史緒だった。
「その丸いペン先でそんなに細かく書いたら、先生読みずらいんじゃない?」
夕陽をうけて少しオレンジがかった用紙に、びっしりと細かい字が並んでいる。今日の課題は、特異銀河の形成過程について、だっただろうか。
「慣れているから、大丈夫だろう」
いつもの、右上がりの字が、用紙を埋めていく。
その万年筆は、翠の父親が送ってきた物だった。史緒は翠の父親を敬愛している節があって、それを大切に使っていた。翠も、同じ万年筆の色違いを持っている。史緒はブルーで、翠は銀色だった。中のインクは、ブルーグレー。翠のそれは、ほとんどと言うより全く、減っていなかった。
「僕のを、あげようか。どうせ使わないし」
そう翠が呟くと、史緒が顔を上げた。
「もったいなくて使えないんだろう」
「違うよ」
使いたくないだけ…そう言ってみても、史緒は小さく笑ってまた課題をやり始めた。
翠が父親に関する物を大切にとって置いている割に、それに触れないようにしていることを、史緒は知っていた。見えないように仕舞い込んで、それゆえにいつもどこかで気にしている。
「なぁ、今日翠の家、行こうかな」
「え?」
翠はきっと知らない。史緒が、その父親に微かに嫉妬めいた気持ちを抱いていることを。
「夜、忍び込むから入れろよ」
「何、急に」
「こう言うのは、急なものだろう?」
翠はため息をつきながら、分かったと呟いた。
本当は、一人で居られないのは自分のほうなのだろうと思いながら、読みかけの本のページを捲った。
夕陽に当たった指先が、少し、温かかった。
【音】…聞こえてくるもの。なくてはならないもの。
私の書いた小説でも、音をひたすら追い求めつづける主人公がいますが、私も色々な音を辿ったり、聞いたりしてしまいます。暴力的な音は怖くて嫌いですが、微かな音や、優しい音はあっても邪魔になりません。
銅版画家の山本容子さんがエッセイで、旅の音を録音する、と書いていましたが、私もいつかコンパクトなレコーダーを手に入れて、そんな音の風景を作りたいと思っています。
小説を書くときも、音楽は重要です。最近は、映画のサントラが一番書きやすいでしょうか…でも、その音楽をテーマ音楽のようにひたすらかけていると、その曲がかかるとその世界に覆われてしまいます。私は存在しない、私の世界。
音楽はそんな世界にも連れて行ってくれる、とても不思議なものです。
* * * * * * * *
そこに、広大な宙があるようだと、史緒はいつも思う。
翠の家の庭は、庭師が年に数回入っているようだが、そのほとんどを翠が管理していた。家の割に広い庭は、池まである。池の中には、赤や白や黒の鯉がゆったりと泳いでいて、暗い水面を彩っていた。
史緒の家の庭もかなり広いが、あまりにきちんとしすぎていて、史緒は落ち着かなかった。同じ高さに切り揃えられた生垣も、青々と茂った芝生も、史緒は嫌いだった。
翠の部屋のすぐ傍に、その水琴屈はある。
雨が降ると、翠の部屋に居てもその音が微かに響いて、ひどく落ち着いた気分にさせた。
「…なんだ、史緒か」
史緒は時々、翠の家に来ては水琴屈を鳴らしている。長い杓子で池から水を掬ってきては、ゆっくりとそこに垂らす。それを飽きもせず繰り返す。広い縁側に座って、じっとその水の落ちるのを見つめながら。
雨でもないのに水琴屈の音がするときは、大概史緒が居る。
「なんだ、とは、随分な言い草だな」
誰か待っていたの?と史緒は言いながら、また池に水を汲みに行った。翠は別に…と呟きながら、縁側に腰掛けた。夏の宵口の生暖かい風が、気持ちがいい。
風に微かに飛ばされながら、それでも史緒の手から落ちる水は、確実に同じ場所に落ちていて、濁りのない音をさせていた。
「そんなに好きなら、自分の家の庭に作れば良いのに」
ぽつりと呟いた言葉に、また池に水を汲みに行こうと縁側から降りた史緒が、立ち止まった。
「冷たいな」
呟く史緒の横顔が、もう沈んだのに光を残している日に翳って、翠をどきりとさせた。
「そんな理由なんてつけなくても、来たいときに来れば良いだろ」
少し俯いたその横顔に胸が痛んで、翠は言いたくもない本音を明かした。史緒が顔を上げて、近づいてくる。それからふいと屈んで、翠に口付けた。
「また来る」
唇が離れた瞬間にそう言われて、翠は小さく笑った。
「夕飯、食べていけば?」
いくら自転車で来ているとはいえ、ゆうに三十分はかかる筈だ。そこを往復するのも、面倒だろう。
「菊野おばあちゃんに言ってくるから」
翠は史緒の返事を聞かずに、そう言って立ち上がり、縁側をかけていった。
こんなときの史緒は、優しいのに容赦がなくて、そんな抱かれ方も、時々ならば悪くない。翠はそんなことを思いながら、祖母の名を呼んだ。