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私語辞典
はひふへほ
【裸足】…素足。いつでもいたい姿。
部屋に帰ってくると、冬でも素足でいたくなります。靴下とか、ストッキングとか、足を締め付けるものは嫌いで、夏ならやっぱりサンダル。とことん裸足を求めたくなります。決して自慢できる足な訳じゃないですけど…。
小さい頃、ほとんど裸足で育った所為でしょうか。
* * * * * * * *
秋の少し冷たくなった風が、水面を揺らしていた。でも、その風は水を動かすことは出来ない。揺らしてはいるが、それは表面だけのことで、その下の水は、流れてなどいないのだ。
その風に揺らされてでもいるかのように、翠の足がぶらりぶらりと揺れている。その目は、堤防に座った先の川ばかり眺めている。
白くひょろひょろとした翠の足は、何も履いていなかった。翠の隣に、靴が行儀よく並んで置いてある。
寒くないのだろうか、と史緒は思うが、当の本人は気持ち良さそうにしている。
「夢を見たんだ」
翠がふと、呟くように言う。風は止んだのに、足はまだ揺れている。
「うん」
史緒の答えに、翠はもう半ば満足して、足を揺らすのを止めた。史緒はいつだって、翠の望む答えを持っている。ただ肯定して欲しいときは、たった一言を、確かにくれる。
「流れてるんだ。海なのか、川なのか分からない。ただ水の上にぽっかり浮かんで、流れているんだ」
ときどきくるりと回転したり、止まってみたり。自分の意志などなく、ただ流れている。今目の前にある川のように、河原がなかったから、もしかしたら海なのかもしれない。といっても、視界を占めていたのは、ただただ青い空だった。首を動かせば、水を飲んでしまいそうだったから、目だけをきょろきょろさせていたのだけれど、翠には水と空しか見えなかった。
何も、なかった。
水と空と、それだけしか。
「気持ちよさそうだね」
史緒がそう言って、ちょっと微笑んだ。翠はそれに、小さく、うんと答えただけだった。
ふらりと翠の足が揺れて、史緒の足にこつりとぶつかって、そのまま止まる。その様子が、素足のためになんだか艶かしく、史緒は苦笑した。
素直に言えばいいのだ。
―――寂しかったのだと。
「冷たいよ」
日が暮れ始めた秋の川風は、容赦なく身体を冷やす。ズボンの上からもひんやりとする翠の足に、史緒が抗議するようにそう言った。
「……温めて、くれるんだろう?」
観念したように、翠が言う。風がまた吹いて、ふわりとその髪を揺らした。
「いくらでも」
史緒はそう言うと、その翠の髪を優しく撫でた。
【ビン】…瓶、壜。儚くも、割れてもなお強く、傷付ける事が出来るもの。
ガラスびんが好きです。きれいとか、そう言うのではなく、みかん水や便利水、ニッキ水、薬ビン、そんな風な昔のびんが。
骨董市に行くと、よく見つけては買っていました。相場を知っている専門のおじさんがいると思えば、専門ではないせいか、ずいぶん安く売っているおばさんがいたり。真剣に選んでいると、良く声を掛けられました。「何に使うの?」と。
花を生けたりすることもありますが、大半は、ただ、飾っておくのです。どうしても愛しく思わせる何かが、このビンたちの中にはあります。
長い年月の末には、飾っておくだけで割れてしまうビンもあるそうです。そんな儚さが、私を惹きつけるのでしょうか…
* * * * * * * *
「ねぇ先生、外は雪なんでしょう…?」
小さな薬箱を眺めながら、翠は呟くようにそう言った。薬箱の中には、小さな小さな小壜が、きっちりと並んで置かれている。茶色かったり、透明だったり。大きさもそれぞれのそのビンを見るのが、翠は好きだった。格式ばったように並んでいるのに、滑らかに輝いて、あるべき場所に収まっている。その中の一つ、蓋付きの茶色の小壜を取ると、宮原医師は細く長い指でそれを開けた。
「駄目だよ。冷たい風は今の君の体には悪いから」
そう言いながら、翠の寝間着の釦を外して、白く薄い胸にその薬をゆっくりと塗った。呼吸で、微かに上下する。
早く、史緒が来ないものかと、翠は思った。
史緒ならきっと、雪を見せてくれる。翠が、寒くなどないように。
「もうしばらく、寝ていなければならないね。薬はいつものように置いて行くから、きちんと飲むんだよ」
「はい…」
まるで子ども扱いで、翠は笑いを堪えながら返事をした。もう翠も十六になろうとしている。史緒など随分背が伸びて、来る度に祖母が大きくなったと言っている。
確かに翠は、あまり背は伸びなかったかもしれないが…そんなことを考えていると、廊下から祖母の声が聞こえた。
「おや、橘のお坊ちゃま…まぁ雪の中をわざわざ…」
学校はもう終わったのだろうか。史緒の、低くなった声が、それでもはっきりと祖母に答えるのが聞こえる。
「彼は、毎日来ているのかい?」
宮原医師が小壜に蓋をしながらそう聞いた。その声が少し笑っているようで、翠は慌てたように肯定とも否定とも分からないような答えをした。
「学校の課題を持ってきてくれているんです。家が、通り道ですし…」
「おや、そうでしたか…」
呟きながら、宮原医師は薬箱を丁寧に閉める。古く年季の入ったその箱は、祖父の代からのものだと言う。
障子が開いて史緒が入ってきたところで、宮原は翠の寝間着に手を伸ばした。ゆっくりと、開いた釦を閉める。
「ご苦労様です。あとは、やりますから」
史緒の、硬い声がした。