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私語辞典
かきくけこ



【切手】…小さな芸術作品。
手紙を書いたときの、最後の仕上げです。色とりどりの切手の中から、一つ選んで貼れば、それはもう私の手元から離れたようなもの。たくさん揃えておくのが、楽しいのです。
お気に入りは、国際文通週間の切手。毎年、日本の名画から選ばれた絵や文様が、きれいな発色で仕上げられています。あんなに小さな中に、確かに世界がある。そんな切手が、私は好きです。


* * * * * * * *

紙飛行機は、ふわりと浮いて、一瞬だけ空中にとどまると、そのまま滑らかな曲線を描いて地面に落ちた。さらりと、風が吹く。
その風に紙飛行機が飛ばされる前に、ふいと手が伸びてきて、それを拾った。
「なんだ、手紙じゃないか」
「…うん」
近寄ってくる史緒を見もせずに、翠は小さくそう呟いた。膝を抱えたまま、川面を見つめている。そろそろ日も沈もうかと言う時刻の川は、夕陽に照らされてきらきらと輝いていた。昼間の厚かましさのないその蜜柑色の光を、翠は好んでいた。
「おじさんから?」
「―――そう」
「読んでも?」
聞きながら、史緒は翠の隣に座った。
「どうぞ。どうせ何も書いてはいないんだから」
近況の報告と、世界がどれだけ広くて素晴らしいか。
いつも、そればかり。
いつも、それだけ。
翠の知りたいことは、何も書いてはこない。
「後生大事に切手だけ取って置いて、中身は飛ばすなんて、翠も分からないな」
史緒は読み終わった手紙を、丁寧にまた折り直して、風に乗せた。勢い良く飛んだ紙飛行機は、今度はふわりふわりと川面まで飛んでいく。
「だって、父さんの書いてくるものより、余程世界が分かる気がしてね」
紙飛行機が、音もなく水面に落ちた。
「寂しい?」
「この年で?まさか」
翠はそう言って笑っては見たものの、史緒を見ていられなくて視線を逸らした。史緒の目は、いつも全てを透かしている。翠にはそう見えてならなくて、ときどき耐えられない。
「僕は君がいなかったら寂しいけど。…同じだろう?」
「同じかい?」
人肌恋しいだけじゃないの?そう付け加えて、翠は小さく笑った。
意地悪なはずの史緒の、こんな風に時々優しいところも、苦手だ。
翠は史緒のその肩口に額を寄せて、もう一度、同じかなぁ…と呟いた。
ふわりと髪を揺らした風が、秋を告げていた。



【珈琲】…そのものはもちろん、淹れる作業さえ大切。
小学生のときだったか、友達の家で飲んでから、ブラックで飲むようになりました。それまでは砂糖、ミルク入りでしたが。今でも疲れると、砂糖を少し入れます。それと、エスプレッソのとき。
手でゆっくりと淹れる珈琲が好きです。自分でもフィルターを使って淹れますが、おいしい珈琲を飲ませてくれるお気に入りの喫茶店も、いくつかあります。そんなところで、本でも読みながらゆったりと過ごすのが、理想の休日です……
(下の物語に出てくる珈琲屋さんは、実際にあります。店名、店主はもちろん違いますが)

* * * * * * * *

久方ぶりに、星のきれいな夜だった。こんな日は、あの珈琲を飲みたい。
翠はそう思って、ふらりと「海の星(ステラ・マリス」」へと向かった。今日のような日は、きっと店が出ているはずだ。
夏は、もう始まっていた。
すっかり暗いのに、半袖でも寒くはない。それでも祖母に持たされた上着を着たまま、翠は珈琲を飲んでいた。
カウンターに座って、店主と取りとめのない話をする。この店主は旅行好きで、よくバイクで色々なところを旅してまわっているのだ。その話を聞くのが、翠は好きだった。
黒いシャツに、黒いズボン。ともすれば闇に溶けそうな格好をして、店主はひっそりと笑う。その視線に、翠は思わず後ろを見た。新たな客に、微笑んだように見えたのだ。
「なんだ……」
翠がそう言うと、史緒が隣に座りながら「ずいぶんな言いようだ」と言う。店主は、その会話が交わされることを想像して、ひっそりと笑ったのだった。
「約束をしたわけじゃないんだ?」
店主の言葉に、翠が首を振り、史緒が小さく笑った。
「こんな夜は、この珈琲が飲みたくなるんです」
そう言って、目の前に出された珈琲を一口飲んだ。
ここ、「海の星」は、地所のないコーヒー屋だ。屋台のようになっていて、店主の気が向いたときにふらりと道端に現れる。メニューは、自家焙煎の珈琲ひとつ。目印は、白い帆布のような布に書かれた、店名だけだ。石油ランプがいくつかさがっているだけで、明かりも少ない。
今日ならきっと、そう思ったのは、翠だけではないと言うことだ。
「何の話をしていたの?」
「蛍を見に行った話」
翠が答えるのに、史緒は、もうそんな時期だったかと思う。
「まだ少し早いね。でも、ふわりふわりと一匹二匹で飛んでいるのも良いものだったよ」
店主がそう言って、新たなお客さんのためにコーヒー豆を挽いた。その男性客が一人だったから、翠と史緒は二つほどしかないテーブル席に移動した。
二人の顔が、石油ランプに揺れる。そうやって、互いの影を視線で追い駆けながら、しばらく黙っていた。こんな沈黙は、心地が良い。
「蛍、見に行きたいね」
しばらくして、ふいに翠がそう言った。もう、珈琲は空になっている。
「そうだな」
史緒が、珈琲を飲み干した。学校の近くに、蛍が見られる川がある。ここからもそう遠くない。そこまで思って、あぁでも、と史緒が言った。
「なに?」
「翠、夕飯食べないで出てきただろう。早く帰らないと」
史緒のその言葉に、翠が一瞬動きを止めた。それから、ゆっくりと微笑んだ。
なんだ、史緒は自分の家に寄ってきたんじゃないか。
翠はそう思って、笑い出したいのを堪えた。史緒はそれを分かって、視線をそらして呟く。
「誰かさんとは違って、一人で行こうなんて薄情なことはしないんだよ」
ランプの明かりだけでは、その史緒の表情は翠には分からない。でも、十分想像できて、翠は殊更おかしくなる。
「来るって、わかってたからね」
翠はそう言って立ち上がると、史緒の肩に手を置いて続けた。
「ご飯、一緒に食べるだろう?」