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私語辞典
まみむめも
【窓】…内であり、外であるもの。物語の始まりにもなるもの。
文化の違いだと思うのですが、フランスでは大きな窓がカーテンも引かれず、ときには開け放れていて、中の様子を見せてくれることがあります。夜も明かりが付いていて、中が丸見え、と言うことも。そんなときは、ついつい見てしまう。覗き見主義というより、そこに物語を探してしまうのです。真っ赤に照らされた部屋なんて見たら、いろいろ想像してしまうでしょう?
* * * * * * * *
そこからの眺めは、いつも翠の心を穏やかに静かに、滑らかにしてくれた。冬には小振りの赤い椿がときには雪を被りながら佇んでいたし、夏にはその葉肉の濃い緑が目に痛いほど光に輝いた。少し視線を横にずらせば、初夏には白い露草や赤白の水引が、そして今の季節、春には黄色い水仙が咲いているのが見えた。
賑やかなようで、静かな裏庭だった。植物達はただひっそりと、そこにいる。
「翠……玄関を開け放したままで何をしてるんだ?」
突然の声に驚いて振り返ると、史緒がいた。古いこの家の廊下を、どうやって物音も立てずに歩いてきたのだろう、と翠は思ったが、それよりも自分がぼんやりとし過ぎていたのかもしれない、と考え直す。
「ああ、出掛けようと思ってたんだ」
そこに郵便配達の自転車が止まって、翠は手紙を受け取った。すぐにわかる、異国の匂いの封筒。
それを持って、この部屋に入ってきたら、突然裏庭を見たくなった。それで、ときどきしか開かれない障子と窓を、開けてみたのだ。
史緒は手の中にそっと握られた手紙を見て、納得したように瞬いた。それから、窓際に立つ翠の隣にすっと歩み寄って、そこから裏庭を眺めた。
「ああ、水仙が咲いてる」
すっと伸びた茎に負担を掛けないようにしているかのようなその小さな花を、史緒は優しげな目で見つめた。翠は唐突に、鼻の奥がつんとしたのを感じた。
「今度はどこから?」
そのままの目で、史緒が問い掛けた。翠は今思い出したかのように、手の中の封筒を見た。
「わからないな……消印も薄い」
父からの手紙はどこからかわからないことが多い。わかっても、大概はそこからまた旅立つときに手紙が出されるのだから、それが翠に届いた頃には、また見知らぬどこかにいるのだ。
そして父は、一度として自分がどこの国にいるのか、書いて来たことがない。国名など、ただの記号に過ぎないと思っているのだろう、あの人は。
翠の答えに、史緒は別段興味がなさそうに、ふうん、と言っただけだった。
わかっている。
翠がたった一人で、この手紙を読むことを嫌っているのを、史緒はきっと知っているのだ。読むのはまだいい。でも、手紙を読んだ後、翠はいつもただただ誰かの温もりが、欲しくなる。
翠は主のいなくなって久しい文机の引出しから鋏を取り出して、その封を切った。史緒は、まだ裏庭を眺めたままだ。
「史緒にも、よろしくって」
読み終えて、丁寧にまた折りたたんで手紙をしまった翠は、裏庭を眺めたままの史緒の傍らに立った。そっとその肩に手を置くと、ようやく史緒がちらりと翠を見た。
「どうやら水の街にいるみたいだよ。毎日、水の流れる音を聴いているらしい」
語る翠の顔はやはりいつものように淋しげで、史緒は目を閉じて肩の温もりを確かめた。
性質の悪いのは、と史緒は目を開けた途端飛び込んできた黄色い水仙を見ながら思った。
性質の悪いのは、翠が自分がどんな顔をしているのか、少しもわかっていないことだ。いつか、父親の後を追ってこの家から突然消えるのではないかと、馬鹿みたいな心配をしてしまう、史緒の心持など考えもしないことだ。
行くときは一緒に行こうと、約束が出来ないのが史緒には不安だった。なぜなら翠は、淋しいとは決して言わない。こんなときの翠は今にもどこかに行ってしまいそうなのに、父のことなど無関心とばかりに振舞う。
淋しいと言ってくれたら。後を追いたいのだと言ってくれたら。
そうしたら、史緒は自分も行くと言えるのに。いつでも傍にいると、言えるのに。
水仙は、鮮やかな黄色をしていて、確実に春の訪れを告げてくれる。それなのに、どうしてあんなにひっそりと咲いているのだろう。史緒はただ吸い込まれるように、その黄水仙を見ていた。
ふっと肩から温もりが消えて、史緒はようやく振り返る。その肩越しに、翠もまた、黄水仙をじっと見ていた。
さらりと、その髪を掻き揚げる。じっと見つめる瞳は濡れてもいなかったが、史緒はそこに唇を寄せた。ふいっと閉じられた瞼に、口付ける。
大きな手が、翠の髪を何度も撫でた。細く長い指が、その黒い髪に絡んでは離れ、また絡む。
史緒はきっと知らないのだろう、とその手を感じながら翠は思った。優しくて、気遣わしげなその手に。
翠はすっと手を伸ばして、窓を閉めた。それからそのまま、その腕を史緒の背に回した。
欲しい温もりは一つなのだと。
きっともう、他の誰の温もりでも、自分は安心できないのだと。
史緒は、きっとそれを知らないのだろう。