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私語辞典
なにぬねの
【庭】…小さくても、大きくても、あるだけで嬉しいもの。
箱庭、という言葉も好きで、でも庭園、という言葉も好きです。自分では管理できないのだろう、と思うと苦笑してしまいますが、庭師、という言葉も好きなので、そんな方にお任せできるのならそれもいいなあ、と思います。
私の家の庭には、いわゆる雑草だったり、野草だったりするものがたくさん生えていて、母以外、誰も雑草を抜くことが出来ません。どこまでが蒔かれたものなのか、わからないからです。でも、それらの雑草たちが、私はとても好きです。
* * * * * * * *
文緒が木戸を開けて敷地に入ると、どこかで水の音がした。夏の夕方のこの時間、翠はたいがい庭で水遣りをしている。雨の降らない日々が続くと、朝夕の水遣りが欠かせなくなるのだ。
竜のひげで囲まれた飛び石を一つ一つ踏みながら庭に回ると、気持ち良さそうに水を撒いている翠がいた。
「やあ文緒。少し元気がないね。君にも水をあげようか」
暑い中自転車を飛ばしてきたのだ。少々ばてている位、目を瞑って欲しい。
文緒はそう思いながら、そうだね、と言った。
ぐるりと周りを見れば、昼間の日差しから開放されて水まで貰った木々たちが、青々とした葉を惜しみなく広げている。日が落ちかけている西側の壁には、ノウゼンカズラが大きなオレンジ色の花を咲かせていた。
「まだ伸びてるね、この朝顔」
翠の部屋の前になる軒下から、朝顔がすだれ変わりに植えられていた。今はくるりと捲かれて閉じている紫の小振りの花は、毎朝律儀に咲いているはずだ。朝顔は咲いているときより、蕾の方が品がある、と言ったのは翠だった。
「家が二階家だったら良かったんだけど」
翠は丹念に水を撒きながら、そう笑った。翠の家は一戸建ての平屋だ。見た目より広くて、手入れの行き届いた美しい日本家屋だった。その家に相応しい、日本庭園。ホースから飛び出る水が、ときおり小さな池で音を立てる。
文緒はその池のほとりに立って、中を覗いた。この池には、いつ見ても人間には無関心な鯉がいる。飼い犬は飼い主に似ると言うけれど、鯉にもそれは当てはまるのだろうか、と文緒は思った。
それから、自分が何をしに来たのかも聞かずに、熱心に水を撒きつづける翠を盗み見た。聞かれても困るのだが、聞かれないのも腹立たしい。朝夕と翠に構われる庭にさえ、嫉妬している気がする。
丹念に育てられた木々も草花も、いつだって美しい。
深い緑がつやつやと光る柊に文緒が手を伸ばすと、指先を刺につつかれた。防御も完璧。
別に君達の翠を取ったりはしない、と文緒は心中で苦笑した。取りたくても取れないのだ。翠はこの庭をとても愛している。
最初に原型を作ったのは、翠の父親だ。でも、長らく帰ってきていない父親に代わって、今は翠が全面的にこの庭の手入れをしている。年に一度、馴染みの庭師にも手を加えてもらっているらしいが、翠はそのときだけは遊びの誘いにのらない。庭師を信頼しきった目で、でもやはり少しだけ心配そうに、庭師によって変わっていく庭を眺めている。
「わっ、冷たいっ」
ぼんやりと考え事をしていたら、翠に水を掛けられた。
「ちょっと、翠、止めろって」
いたずらのつもりだと思ったのに、翠は笑いながら容赦なく文緒に水を掛けている。ようやく池のほとりから逃げ出したときには、もうすっかりずぶ濡れになっていた。
「涼しくなったんじゃない?」
水道の蛇口を捻って水を止めながら、翠はそんなことを言う。
「どうするんだ、これ。こんなびしょ濡れじゃあ、帰れない」
文緒が不満を言うと、「じゃあ、帰らなければ?」と笑う。
「いくら夏でも風邪をひいてしまうね。着替えなよ」
翠はそう言いながら、捲くっていたシャツの袖を下ろした。
「菊野さんは?」
「買い物。もうしばらく掛かるかな」
その言葉に、文緒は思わず笑った。
誘うなら、もう少し可愛く誘って欲しいものだ。
とりあえず、服が乾くまでは帰れない。もしかしたら、着替えだっていらないかもしれない。ああでも、と文緒はちらりと軒下を見た。
「朝顔が咲いたところ、久しぶりに見たいな」
呟くと、今度は翠が笑った。