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私語辞典
さしすせそ
【自転車】…何処までも行ける気になる乗り物。
実は私、運転免許証を持っていません。私の故郷では、それはとても珍しい。車がなければ、とても不便な街だから。でも、私は自転車が好き。歩きもいいけれど、風を切ることはできない。自力だけれど、他力でもある。そんな自転車が、とても愛しい。
* * * * * * * *
道の反対車線側、すいすいと車の間を通り抜けていく自転車がある。少しレトロな雰囲気のあるその自転車と、少々無茶な運転で、それは史緒だと翠にはすぐにわかった。その姿は、声をかけるまもなく、遠ざかっていく。短く切り揃えられた髪が、気持ちよさそうに揺れていた。
「あいつ、また無茶な運転をしている」
翠の隣で、蘇芳が呟いた。小さなため息は、困ったなという口ぶりとは裏腹に、愛情がたっぷりとこもっていて、翠の居心地を悪くする。
末っ子の史緒は、兄二人は煩いなどと言っているが、しっかりと可愛がられているのだ。兄弟のいない翠には、たぶんそれが、羨ましい。
「君もあんな運転に付き合わされるんだから大変だね」
蘇芳のその言葉に、翠は俯いて、いえ、と小さく答えた。たまたまばったりと会って、他愛無い話をしていたら、交差点の信号は、もう二度ほど変わっていた。
翠はよく、史緒の自転車の後ろに乗る。ステップにまたがって、少し上から景色を眺めるのが好きなのだ。史緒のスピードも、少しスリルがあって心地良い。
「ふーん。よく後ろに乗っているのに、怖くないんだね」
蘇芳がそうにっこりと笑って、翠は思わず顔を上げた。
「どうして知って……」
「大学の研究所はね、結構高いところにあるだろう?あそこからこの道はね、よく見えるんだ」
そう、蘇芳は大学の建物を指す。それが正確にどこを指しているのかはわからないが、確かに、六階建ての大学は、この街の中でも高いほうだ。
だから、史緒はここを通るのか。
翠は、長い間抱えていた疑問が解けて、思わず微笑んだ。わざわざ遠回りをしても、史緒はときどきこの道を通るのだ。
「坂道があるからおもしろいだろう?」
史緒はそう言っていたが、それだけが理由ではない。翠はそう、ずっと思っていたのだ。
蘇芳に無茶なところを見せて、心配をかけたいのか。
蘇芳を好いている翠に対する、あてつけなのか。
どちらかなんてわからなかったが、自分よりずっと大人の雰囲気の史緒の違う一面を見られて、翠は嬉しかった。
「どうかした?」
思わず笑みを零した翠に、蘇芳が不思議そうな顔をする。
「いえ、別に」
そう答えながら、翠はまだ、笑いを止められなかった。
【深夜】…曖昧な時間。狭間。
深夜が優しいのは、曖昧だからだろうか、とときどき思います。まだ眠らない人にとって、時計は翌日になっても、やはり「今日」で。
田舎暮らしだった私の実家は、夜は暗く静かなものでした。都会は、明るくて騒々しく、それはそれで面白いと思うのですが、やはり暗くて静かな夜は捨てられない。
エアポケットのような、そんな深夜の時間は、音も光も、いらないと思うのです。
* * * * * * * *
なぜかふと目が醒めてしまって、翠は月明かりに照らされた目の前の史緒の顔を眺めていた。眠ると誰もが幼くなるかもしれないが、あどけないその史緒の寝顔に翠の頬が緩む。
誰かと眠っているときに、あどけない寝顔で眠れると言うのは、とても幸せだと思う。自分も、相手も。
史緒はときどき、何もかも見透かしたような目をする。それに落ち着かない思いをする翠は、でもその目が好きだった。それでも、史緒はいつも傍にいてくれるから。
閉じられた、薄い瞼の上をそっと撫でる。間近で見ると、血管が浮くほど白く薄い。それにひどくどきりとして、翠は声を出さずに苦笑した。
先刻まで抱き合っていた体の熱は、まだ引ききっていない。ふわふわと心地よい熱は、史緒に教わったものだ。温もりを分け合うなどという、生易しいものではなく。
部屋の中は月明かりがおぼろげにその輪郭を照らして、柔らかい影を作っていた。床に入ったときには降っていたはずの雨も止んだのか、何の音もしない。
翠はただじっと、飽きずに史緒の顔を眺めていた。こんな風にじっくりと眺めたことなど、なかったかもしれない。すっとした鼻梁も、形のいい少し薄い唇も、子供らしさを無くし始めた顎も。ずっと近くにいたのに、初めて見た気がした。形よく映え揃った睫が、微かに震えた。
翠は唐突に切なくなって、その頭をそっと抱いた。史緒が小さく身じろぐ。
「翠……?」
寝惚けたような甘い声が自分の名を呼ぶ。そのことに、翠はほっとした。史緒はそのまま、翠の肩口に額を擦り付けて再び眠った。
いつになったら、と翠は考える。
いつになったら、自分達は何の不安もなく抱き合えるだろう。ただ、温もりを分け合うように。
さわり、と音がして、雨が降り出したのがわかった。空の高いところでは、風が吹いているのかもしれない。
耳を澄ませると、水琴屈の音が微かに聞こえる。不規則なその音は、史緒が鳴らすものとは違う。でも、その傍らに立って、ただひたすらに水を注ぐ史緒が見える気がした。
思いつめたような横顔は、何を考えているのか。
ただじっと、翠のことなど忘れたように、細く細く水を注ぐ史緒は、ひどく遠い。
翠は抱え込んだ温もりを、確かめるようにぎゅっと抱いた。
この温もりが消えないと。
一体誰が、約束してくれるだろう。
ふと背に回された腕が、ぎゅっと強まった。肩口の額が、するりと擦り付けられる。それに翠は、そっと目を閉じた。
部屋は、柔らかい光と、微かな水琴屈の音だけで満たされていた。