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私語辞典
たちつてと



【手紙】…宝物。プレゼント。
中学生くらいの頃、毎日飽きることなく手紙を書いていました。さっきまで会って話していた友達に、授業中にもかかわらず、手紙を書くのです。それが楽しくて仕方がなかった。電話はほとんどしないと言うのに…
今でも、手紙は好きです。どうしても捨てられなくて、何てことない手紙もとっておいてありますし、旅行先からは必ず友達にはがきを出します。
中でも宝物は、祖母からの手紙。特に何が書いてあるわけではなかったのですが、心に染みる手紙でした。
死んで火にくべられるときには、私の棺に、花とともにそれまで貰った手紙の全てを入れてもらって、そこに埋もれたいと願っています。


* * * * * * * * 

翠へ
元気だろうか?
私は今、四方を空に囲まれたところにいる。
本当に、空ばかりなのだよ。同じ場所に一日中座っていれば、日の出から日の入りまで、見ることができる。それはそれは、きれいなものだ。
ここのところ、そうやってずっと、太陽を追い駆けている。人には、あまり会わない。この一週間で、一人だ。この手紙は、彼に預けた。
彼は、何かを捜し求めて、旅をしているようだ。それがなんであるのか、私にはどうしてもわからなかった。人はそれぞれ、自分にしかわからないものを捜し求めているのかもしれない。
―――私も、翠もね。
君のいるところから、ここがどれほど離れているのか分からないが、君のことはいつも思っている。
ここの太陽は、本当に素晴らしい。
いつか、君と一緒に見てみたい。
月曜日の太陽も、火曜日の太陽も、水曜日も、木曜日も、金曜日も、土曜日も、そしてもちろん、日曜日の太陽も、いつでも同じでありながら、違うんだ。そのことに、私はとても安心したよ。
だから、そろそろ旅立とうと思う。
風が南から吹いている。その風に歯向かわずに、北に行こう。風と一緒に、旅をするんだ。なかなか、素敵なことだと思わないか。
また、手紙を書く。
菊野さんにも、史緒君にも、よろしく伝えて欲しい。
翠。
君は、君の捜し求めているものが何か、わかったかい?
私には、まだわかりそうもない。

                 ―――夕暮れの空の下で。父より

翠は、そっと手紙を畳むと、きれいな漆塗りの文箱にそれを収めた。すこしざらついた感触の、麻色の紙は、あまり上手く収まらない。
黒くつやつやとした文箱を、オレンジ色の一筋の光が照らす。ふと顔を上げると、窓の外では、すでに日が沈みかけていた。
翠はそっと文箱を撫でてから、棚に戻す。これは、もう三つ目の文箱だ。それから、ぱたぱたと廊下を歩いて、台所へと向かった。
―――日が、沈んでしまう。
「菊野おばあちゃん、ちょっと史緒のところへ行ってくる」
翠はそう言うと、堪らなくなったかのように、駆け出した。
この光が消えないうちに。
それは、とても無理なことだとわかっていたが、闇はきっと、翠を攫う。誰か、掴んでいていてくれないと。
家の前、まっすぐとなだらかな坂道を、誰か降りてくる。
―――どうして、
「史緒っ」
誰か、ではない。
誰かの手では、ないのだ。



【天気】…飽きないもの。
私の小説を読んで下さっている方はもう、ご存知のとおり、私は天候の描写を良く書きます。話の流れを作りやすいということもありますが、変わる空を眺めるのがとても好きです。小学生のとき、雲やその他の身近な自然の変化で天気予報をする、と言う自由研究をしたくらい。
雨も、雪も、風も、晴れも曇りも、みんな好きです。でも、晴れの日以外は何もする気が起きなくなる、という困った癖も持っています。小さい頃は、雨に濡れて帰るのも好きだったなぁ……靴も脱いで、裸足でね。

* * * * * * * * 


 ふとかすかに硬く透き通るような音がして、翠は本から顔を上げた。その本に栞を挟んで立ち上がると、部屋の障子をするりと開ける。木々も紅葉したこの頃では、外の空気はもうひんやりと冷たかった。
―――雨か……
 一体何を期待したのか、わかりすぎるほどわかっているのに、翠は自嘲した。
 翆の部屋のすぐ近くに、水琴窟がある。わりと大きなその水琴窟の音は、廊下のガラス戸を開けておけば、翠の部屋にも聞こえてきた。
 その水琴窟を、よく鳴らす友人がいる。雨でもないのにその音がするときは、大概その友人が鳴らしていることが多い。
 紅葉に降る雨は、どこか淋しく、哀しい。翠は思わずぼんやりと、その庭を眺めていた。
―――今度晴れたら、自転車に乗ろう。
 ついこの間、文緒はそう笑った。その顔をはっきり覚えているのに、今は恋しくてならない自分が、可笑しかった。雨に弱いのは、本当は文緒なのだ。昔一言だけ言った、その理由。
―――覚えてないのに、知ってるんだ。僕が生まれたのは、雨の日だった。
 それから、僕の世界はおかしくなったんだ、と笑った文緒を見て、翠は自分が泣いてしまうかと思った。ほとんど、無意識のように。
 文緒を産んですぐ、母親は亡くなっている。もともと体が弱かったから、三人目の子供を産むのは無理だと言われていた。それでも、文緒を産んだ、そして一度も抱きしめないまま亡くなった、その母親。それから少しずつずれていった、文緒の家。
 自分以外の何を憎むべきか知らない文緒は、雨の日は自分を責めつづける。そんなときに翠ができるのは、ただそばにいることだけだった。
 翠はふいに思い立って、出かける旨を菊野に伝えて、傘を手にした。玄関を出て傘を広げると、ふと前方に人影が見えた。白くけぶるような雨の中、青い傘がひどくはっきりと見える。その人物が近づいてきて、翠の目の前に立った。
「なんだ、でかけるのか」
 出不精で、雨の日など特に部屋に篭る翠を知っているだけに、文緒はことさら抑揚のない声で言った。頼れるところがここしかない、と言うよりも、救えるのは自分しかいない、ということを翠はわかっていない、と文緒は思う。
「うん、そう思ってたんだけど」
 翠がはにかむように、困ったように笑った。文緒はふいに泣きそうになって、傘をばさりと手から落とした。すっかり強くなった雨に、瞬く間に濡れていく。
「何してるんだよ」
 翠が呆れたように言うが、文緒はくるりと身を翻して、走り去ろうとした。でも、その腕をふいに掴まれて、ぴくりと止まる。決して、強い力ではない。でも、その小さな温もりを、振り払うことなど出来なかった。
「馬鹿だな」
 そう、呟かれる。文緒がゆっくりと振り返ると、にっこりと翠が笑って、その手をひいた。
「こんな日に、僕がわざわざ出かけるところなんて、決まってるだろう?」
 出かけなくてすんで、良かったけど。そう言って、翠は文緒に中に入るように促した。

 重ねた肌の下、翠がふいに言った。
「雨なんて、いつか止んじゃうものだよ」
 耳を澄ませば、かすかな水琴窟の音がしていた。



【電車】…時々無性に乗りたくなるもの。
車窓からの眺めが、ひどく恋しくなるときがあります。速いのにゆったりと、どこかへ連れて行ってくれるこの四角い箱に、身を任せたくなる。
どうしても恋しくて、特急で行くべきなのに、鈍行列車に乗ったこともあります。
ただぼんやりと外を眺めるだけなのに。
何もしていないのに、動いている。確実に目的に向かっているわけで、そんなところが心を焦らせず、ぼーっとすることを最大限に許してくれている気にさせるのでしょうか。
昼でも夜でも、都会の風景でも自然でも、なんでもいい。車窓からの眺めは、何もかもが美しい。たとえ、見慣れた街でさえ。


* * * * * * * *

この街には、一本の私鉄の路面電車が通っていた。
山の手から、川を渡って、学校や図書館や役所がある街中を通り、劇場やシネマがある街を抜けて、また山の手のほうへと戻る。それが輪のようになっていて、内回りと外回りが上手くすれ違いながら、三十分に数本の割合で出ていた。
菊野おばあちゃんはバスのほうが好きだと言っていたが、翠と史緒は、この路面電車を気に入っていた。学校までは自転車でもいけるが、二人はよく電車に乗る。シネマに行くときも、決まって乗るのは電車だった。
その日、ぼんやりと翠が電車に揺られていると、史緒が乗ってきた。わりと空いている時間帯で―――と言っても、二人はわざとその時間に電車に乗るのだが―――翠は窓際に座って街を眺めていた。
「何処に?」
「別に決めていない」
翠の隣に史緒が座った。でも、翠は窓から視線を外そうとしない。少し機嫌の悪そうな声色に、史緒は隠れて肩を竦めた。
何を、怒っているのだろう。
一人にしたほうがいいかもしれない、と史緒が思って立ち上がろうとすると、翠がふと「そうだ」と呟いて、鞄を手に取った。
「史緒に言伝があったんだ」
「え?」
「これ、渡しておいてって」
差し出されたのは、本だった。それは次兄が図書館から借りていたもので、同じものを借りたかった史緒は、兄に返すときを教えてくれと頼んでいた。
「読み終わったからって」
史緒が返して、そのまま借りろと言うのだろう。
「なんで翠に?」
「さっき知草(ちぐさ)さんに会ったんだ」
そう、と呟きながら、史緒は翠からその本を受け取った。ものぐさで、人使いの荒い知草兄らしい。
翠が何か言いかけて、開いた口を閉じた。電車が図書館前に止まって、降りない史緒を翠が不思議そうに眺める。
「僕の方がまだ借りたままの本があるんだ」
そう言うと、翠は納得したようだったが、言いかけた言葉を続けようとはしなかった。
電車に乗ると、翠は無口になる。外をぼんやりと眺めていることが多く、目的地さえ通り越して、言わなければずっと乗ったままのときもある。路面電車はそれほど大きくはないが、といってそれほど圧迫感も感じず、翠には心地よい空間のようだった。
立ち上がるタイミングを逃した史緒は、それならと翠の隣にいることにした。景色を見る振りをして、間近に、翠の横顔を見る。少しむくれたようなその瞳に、街が流れていく。
「知草さんが」
翠が、呟くように言った。目は、外を向いたままだ。
「蘇芳さんは見ないけど、どうしてるの?」
翠の会話に時々現れる脈絡のなさに、史緒は慣れていたから、知草のことがなんなのか気になりながらも、「変わりないよ」と答えた。
史緒は、翠が長兄の蘇芳をいやに尊敬していることを知っていた。確かに蘇芳兄さんは優しい。今は大学で獣医になるための勉強をしていて、時々しか家にはいないが、父にも頼られていて、自分も、そして次兄の知草でさえ、つい頼ってしまう兄であった。
でも、史緒は長兄も次兄もあまり好きではない。
大体、あの家にいる人間は好きにはなれない、と史緒は思う。
「史緒が夜お邪魔しているようだけど、迷惑じゃないかって言われた」
その言葉が、先ほどの「知草が…」に繋がることを理解した史緒は、ようやく翠の不機嫌の訳を知る。
「蘇芳兄さんは知らないよ。だいたい、知草兄さんだってからかってるだけで、本気でそんなこと思っちゃいない」
史緒が堪えきれない笑みを浮かべながらそう言うと、翠がやっと史緒に視線を向けた。でも、それは充分疑っている目で、その目に史緒は笑いを止めた。
「それくらい、上手くやれよ」
別にばれてもいいじゃないか、と史緒は思うが、自分の祖母には無頓着な翠も、蘇芳の耳には入れたくないのだろうか。
今度は史緒が黙って、外を見る番だった。電車は川を渡り、史緒の家の近くの停留所が迫っていた。
「何の本?」
史緒が立ち上がろうとすると、翠が史緒が脇に抱えた本を指差した。そんなことは、表紙を見て分かっているだろうに、翠は甘いなぁ…と史緒は思う。翠は、自分に甘い。
電車が、再び動き出す。史緒はもう一度腰を深く椅子に沈め、「宇宙科学の本だよ」と笑った。翠はもう興味がないかのように、ふーん、と呟いた。
今日は、翠に降りるように促さないことにしようと、史緒は決めた。