京都編
■壱
日が暮れ始めて、宿を出た。
空の上の方では風が吹いているようで、雲がたなびいている。
「あぶないよ」
翠は腕をぐっと引かれてよろめいた。
「まったく。ここに来てまで君は空を眺めているんだね。」
言われて見上げた先に、満面の笑みを見て、翠は頬を染めた。
「さ、行こう」
そのまま、腕をひかれる。その史緒の顔が、一瞬空に向けられるのを、翠は見逃さなかった。
「きれいだろう」
翠の少し得意そうな声に、「そうだね」とつぶやくような声が聞こえる。
道はなだらかな坂になっていて、その両側に古い家並みが続いている。翠は無理矢理着せられた浴衣にぎこちなさを感じながら、下駄のからん、ころんという音を聞いていた。
途中、氷と描かれた旗の揺れているのが目に入った翠は、思わず歩をゆるめてしまった。しまった、と思ったときにはもう遅い。史緒にくすくす笑われながら、のれんをくぐった。
「子供だと思っているんだろう。笑うなよ。」
「僕たちは子供だろう?でも翠のおかげでこんなおいしい氷が食べられたんだから、感謝してる。」
くすくすとした笑い声が、翠の耳に心地よく響いた。
「うん。ここの宇治金時は絶品だね。」
清水寺に着いた頃には、西の空はもうすっかり染まっていた。二人はゆっくり、下駄をならして石段を昇ってゆく。翠より半歩先を進んでいた史緒が、ふと立ち止まった。
「少し座ろうか」
石段の中ほどより少し昇ったところだった。風が、心地よい。
二人はそうして、閉門まで空を眺めていた。朱い、朱い太陽の光が坂を照らしている。やがて、紺碧の空があらわれる。
もう夏が、終わろうとしていた。
■弐
「うん。似合うよ」
そう言った史緒の顔が笑いをこらえているのがわかる。
「やっぱりやだよ。別に何もいま浴衣を着なくったって…」
そう言って帯に伸ばした翠の手を軽くさえぎりながら、史緒は浴衣を直すふりをした。
「だめだよ。これから出かけるんだから」
「どこに?」
翠のその問いに、史緒は笑っただけで答えなかった。
祇園の通りを下駄を鳴らして二人で歩いてゆく。目の前の史緒はすらっとした長身で、えび茶の浴衣がよく似合う。翠は史緒の独断で、紺の絣の浴衣を着ていた。
「ねえ、どこに行くのさ」
そう声をかけても、史緒は早く、と急かすだけで答えない。やがて見えてきた、史緒の浴衣と同じような色ののれんをくぐる。翠たちの年の少年が入るには気後れしそうなところなのに、史緒は気にせず、翠を促す。入ったと思えば、ショーケースには目もくれずに、奥へと向かう。翠も史緒の図々しさを知っていたから、あきらめて後に続いた。
奥に行ってみれば、そこは喫茶室になっていて、史緒はすでに大きな窓の窓際に座っていた。
「翠は…黒蜜だよな。僕には白みつを」
翠には、なんだかわからない。出された冷たいほうじ茶をすすって口を開きかけたところに、何かをその口にほおり込まれた。
「わっ…」
ふわりと溶ける。皿にもう一つ残ったそれを見ると、菊の形をした干菓子だった。
「へえ…おいしいものだね」
翠のその声に、史緒は満足そうに微笑んだ。そして、残っているもう一つを皿ごと翠の方に押しやった。
「ううん。もういい」
それを聞いて、史緒がくすっと笑った。
「遠慮しないで食べろよ」
「ううん。おいしいから一つにする。適量ってあるだろう?」
翠はそう言ってお茶をこくりと飲んだ。
「へえ…見直したな」
史緒は心底意外そうな顔をして、残っている干菓子を口にほおり込んだ。
翠が口癖のような、「子供だと思っているんだろう?」と言おうとしたとき、店員がお盆に椀のようなものを持ってきてテーブルに並べた。
蓋を取ると、蜜の椀が入っている。それをとると、氷の浮かんだ水の中に、たゆたっている不透明なものがみえる。
「葛切りだね」
翠の目がその水と氷を映して、輝いた。
氷をからからいわせながら、めんをすくって黒蜜につけて、つるっと食べる。その動作を繰り返していた翠が、ふと箸を止めた。
「史緒は白みつって言っていたよね。どんな?」
史緒は何も言わずに自分の椀を差し出した。
「あんまり甘くないね」
その言葉に、史緒はくすっと笑って、
「だから、翠には黒蜜」
とお茶をこくりと飲んだ。
「僕はおいしいって意味で言ったんだ。まったくまた、」
史緒の手が翠の椀に伸びてきて、翠はふと黙った。不透明な葛切りのまわりに、黒蜜がたっぷりつけられて、それを史緒がつるりと食べた。
「うん、おいしい。夏だなあ」
史緒がそう言って破顔したのにつられて、翠も笑みをこぼした。
外で蝉が、いっせいに鳴き出した。
■参
大きな朱色の鳥居をくぐって境内を左にまわってさらに奥へ進んで行くと、ふいに鳥居の行列に出会う。
翠は声もなく立ち止まった。
「立ち止まるにはまだ早い。まだまだ先があるよ。」
史緒にそう促されて、翠は一つ目の鳥居をくぐった。隙間なく並ぶ鳥居に、吸い込まれる気がしてくる。
二人は黙々と歩き続けた。
途中、四つ辻までくると、現実に戻った気分になる。鳥居の朱色に染まっていってしまいそうな雰囲気が、眼下に広がる町の景色で一転して、山登りの爽快感を感じる。
「まだ、」
夏の暑い日差しに翠は音を上げる。山だから涼しいはずなのに、もうずいぶん汗をかいた。
「一周するならまだまだだよ。別にここで引き返してもいいけど」
そういわれて、翠は史緒の腕をひいて歩き出した。
四つ辻をすぎてから、あまり人がいない。蝉の鳴き声だけが周りに響いている。
前にも、後ろにも、朱色の鳥居。
「なんだか狂気を感じる。こんなにすごいと」
翠が呟くようにそう言うと、史緒が立ち止まって「そうだね」と続く鳥居の先に視線を向けた。翠もその視線を追いかける。
それから再び歩き出そうとした翠は、服を引っ張られた気がして振り返った。
いつの間にいたのか、翠たちとほとんど変わらない年の少年が立っていた。翠に見られて、ちょこんと首をかしげる動作がなんだかかわいい。声をかけようとして、翠は自分が呼ばれていることに気づいた。
「待って史緒。この子が…」
上に視線をやった翠が再び振り向いたときには、もう誰もいなかった。
「おかしいな…」
そう首をかしげる翠を、史緒はくすくす笑っている。
「信じてないな」
急な坂道に入って、翠は息を切らしながら抗議した。史緒も肩で息をしているのに、漏れる笑いを止めない。
「あーおかしい。笑ったおかげで疲れたよ。ちょっと休んでいこう。ジュース買ってくる。」 史緒は勝手にそう言って、石段をとんとんっと上がって茶屋へと入っていった。翠は頬を膨らませながら、気力で石段を昇っていく。
史緒より数段遅れていただけというのに、昇りきったところに、史緒の姿はなかった。翠は茶屋も覗いてみたが、人の気配がない。
「史緒…?」
翠が小さく呼んでみるが返事がない。茶屋から出ると、さっきの少年がたたずんでいた。
「君の友達ならもう行ったよ。ねえ、遊ぼうよ。」
とまどう翠の腕を、引っ張る。翠は突然日の光にさらされて、目を細めた。
「あそこまで競争しよう。ほら、行くよ」
この強引さは誰かにそっくりだ。翠はそう思って、思わず笑った。笑ったとたん、急に不安になった。史緒はいったいどうしたんだろう。
「ねえ、どうしたのさ。早くおいでよ」
少年は石段の下で待っている。翠はたまらなく不安になって、史緒の名を叫んだ。
「だから行ってしまったってば」
「そんなこと…」
ためらう翠の腕を引っ張る。あらがいきれない力に、翠は怖くなって、史緒を呼んだ。
「何だよ翠。そんなところで何をしているんだ。ジュース、温まるよ。」
呼ばれたとたん、腕をつかむ力が緩くなって、翠は史緒のもとに駆けていった。
「どうしたんだよ」
史緒がにやっと笑う。その顔を見て、翠は答えに詰まった。
「別に…」
それだけ言って、史緒の手からジュースを取って、一気に飲む。
その冷たさが気持ちいい。ごくごく飲む翠を、史緒はおもしろそうに見ている。
「何」
最後の一口を飲んで、翠は史緒を横目で見た。
「行こう」
史緒は答えずに翠の腕をとる。翠はその力に、なぜかほっとしていた。
鳥居が裏になっていて、下山し始めたことを知る。翠は元気を取り戻して、史緒を追い越したりしている。
「翠」
後ろから呼ぶ声がして、翠が振り向くと、史緒が笑って右手を挙げている。何、と言おうとして、その手の指している狐の石像を見て、
「あ…」
思わず声を上げた。史緒はくすくす笑っている。
その少しずるがしこそうな、でも愛嬌のある顔は、あの少年にそっくりだった。
「知ってたんなら言えば良かったんだ。」
そう顔を赤くした翠の隣に来て、史緒はその腕を引っ張った。
「だから、呼んだだろう?」
史緒の声が笑っている。翠はその声に怒りながらも、腕を払うことができない。
振り向いて、ささやかな抵抗を試みた翠の目に、朱色の鳥居に挟まれた、狐の姿が見える。そして、一陣のさわやかな風が吹き抜けた。
「競争してあげればそれで満足して帰ったのに。翠は臆病だなあ」
そう史緒が言うので、翠は驚いて前を向いた。史緒が振り返って、翠の方を満面の笑みで見ている。その顔が、少し気恥ずかしげなのは、翠の錯覚だろうか。
「さ、行こう翠」
促されて、一段上にいた翠は史緒の隣へ降りる。そして、二人で鳥居をくぐった。
「ねえ、史緒。」
「ん?」
「それで、どっちが勝ったのさ」
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