飛騨高山編
夜になって、散歩に行くことになった。史緒も翠も、そういうことが好きなのだ。
お土産屋の並ぶ明るい大通りから一歩入った街並み保存地区は、控えめな明かりが道を照らす。その道の上、濃紺の浴衣を着た史緒が、からん、ころんと、軽快な下駄の音を響かせた。
橙色の、まあるい電灯が、軒先と二人の顔をほんのりと照らし出している。昼間の喧騒が嘘のような、静かな夜だった。
「見て、夕顔」
軒先には、どの家にも朝顔の鉢が置いてあった。朝この道を歩いたら、さぞかしきれいだろうと思うほどに。そんな中、白い大きな夕顔が、月明かりにひっそりと咲いていた。
「いい匂い」
翠が、花芯にそっと花を近づけて、匂いをかぐ。その翠の浴衣は、夕顔のように、白い。その浴衣から伸びる手も、月明かりにはほの白かった。
「こんなにひっそりと咲くんだね」
そう言った翠の眸が揺れた気がして、史緒は思わず目を逸らす。夕顔の香りには、媚薬でも入っているのだろうか。白い項が微かに照らされて、いっそう史緒を誘った。
旅行に行こうと言い出したのは、珍しく翠だった。いつもなら、史緒が翠を誘い出す。それなのに、この夏休みは、翠が旅をしたがった。
史緒には、翠の気まぐれがわからない。
でも、それでいい。結局は、こうして二人で旅をするのだから。
非日常な日常は、二人をどこか安心させる。誰も二人を知らない。史緒は堅苦しい家から、翠は祖母との幸せでも少し淋しい家から、離れられる。そう言うときが必要なことを、二人はわかっていた。
ただのんびりと。
その相手が自分だと言うことが、史緒は嬉しかった。
夕顔の前からなかなか動こうとしない翠に、史緒は苦笑しつつも声をかけた。
「翠、お腹すかないか」
「そうだね」
「銀風亭にでも行こう。この時間ならまだやっているよ」
そう言うと、翠はにっこりと笑って頷いた。それが、月明かりに消え入りそうに儚く見えて、史緒は思わず翠の腕を掴んだ。
「何だよ急に。そんなにお腹すいているの」
不思議そうに笑った顔をして、翠が言う。史緒は持った腕の温もりに、翠がいることを確認してほっとした。
ときどき、時々翠はこんな風に儚い。まるで、夢の中にいるかのように。
「なんでもないよ。行こう」
史緒がそう背を向けると、不意に翠の腕が伸びてきて、浴衣の袂を掴んだ。
「どこにも行かないよ」
夜風に流れるように、翠が言う。それからそっと、指が絡む。夕顔の香りが、ふと鼻先を掠めた気がした。少し甘い、夜気のにおい。
「人に見られるよ」
「誰もいない」
確かに、人通りは少ない。それに、見られても構わないだろう。誰も、しらないのだから。
二人の下駄の音が、静かな夜道に響く。
夕顔は、まだ咲いたばかりだった。
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