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旅日記
サイゴン編
その街の朝は、喧騒で始まる。ひきりなしに鳴らされる車のクラクションと、バイクのエンジン音。鳥の声で爽やかに目覚めるなどとは、夢の世界だ。
翠が物憂げに目を開けると、史緒は既に起きていた。窓際に坐って、その喧騒を眺めている。
身じろぎもせずにその史緒を見ていると、ふいにその顔が振り向いた。それから、いつもは冷たく見える表情が、ゆっくりと綻ぶ。
「おはよう」
爽やかな声は、クラクションの音に邪魔される。昨晩、空港からホテルにタクシーで向かったときに見た、テールランプとヘッドライトの洪水を翠は思い出した。
「時差ぼけ……のはずがないよな」
くすりと笑われて、翠はようやく起き上がる。全く、誰の所為だと思っているのだろう。
日本との時差は一時間。五時間のフライトは、それほど遠くに来た感じはしなかった。それに、言葉は違うが、欧米に比べればずっと近くにいるのだと感じさせる顔は、そこがアジアなのだと改めて認識させてくれた。
タクシーの中で、二人は無言だった。飛行機に乗っている間も、史緒はほとんど眠っていた。翠はこの旅の目的を、知らない。
「朝食を食べに行こう。それから、今日は市場に行って、街も少し歩こうか」
史緒は、屈託なくそう言う。翠は多少の理不尽さを感じながらも、差し出された手を取った。
昨日のタクシーの中でも、史緒は手を握ってきた。突然家に来たかと思ったら、旅行に行こう、と誘い出してからずっと、史緒はほとんど無言だった。タクシーの中でも、溢れるライトの光を窓の外に眺めて、何も言わなかった。でも、そっと触れてきた温もりに、翠は何故か、「逃避行」という単語を思い浮かべた。
逃げたいものは、多分たくさんあるのだろう。良家という形容を持つ実家に、優秀な兄達。その二人にも負けない賢さがあると、史緒を見る教師達の目は、本人にしてみれば、しがらみでしかない。そう思わせておけば安心で、でも、本当はそんな自分を嫌がっている。翠には時々、史緒がひどく息苦しそうにしているように見えた。
「ふらついてるね」
ようやくと言った感じでベッドから立ち上がった翠に、史緒が嬉しそうに言う。その肩に凭れるようにため息を吐いた翠の視界の隅に、乱れたベッドが目に入った。目の前には、整えられたままの、ベッド。昨日廊下で見かけた、可愛らしい部屋係の女の子達を思い出して、翠は再び深いため息を吐いた。
史緒は、どこにいてもその街に溶け込む。まるで生まれたときからそこに住んでいるかのように、歩いていく。それは欧米の街でも、アジアの街でも同じことだ。
「立ち止まっちゃ駄目だよ、翠。渡りますの意思表示として、進まないと。そうしたら、避けてくれるから」
史緒はそう言うが、この繁殖期の鮭の川登りにも似たバイクの群れの中を歩くのは、とても勇気がいる。翠は切れ間のないバイクの群れを見て、途方にくれるしかなかった。
そのバイクを気にもしていないように、ふらりふらりと道を渡った史緒は、反対の川岸にいる。翠にはもう、この道は激流の川のようにしか見えなかった。実際、雨季の今は空気もしっとりとしていて、常に水を感じさせる。
ほら行こう、と言って、でもその腕から手を離したのは史緒だった。バイクは止まりはしないが、一定の速さで少しゆっくり目に渡れば、みんな避けてくれる。翠は隣に並べばよかったのだ。それなのに、その一歩を踏み出さなかったのは翠だ。
道の反対側で、心細い顔をしている翠を、史緒はじっと見ていた。
どうかしている。
どこかに行ってしまいたいと思って、衝動的に家を出た。その足が翠の家に向かったのは無意識だった。その史緒の誘いに、翠は何も言わずに頷いて、何も聞かずについてきた。それなのに、今ここで、突き放すようなことをしている。
一体、自分は何をしたいのだろう。
翠がじっと、縋るような目をして目の前の道を見ている。その先の、史緒を。それなのに、どこか泣きたいような気持ちになったのは史緒だった。
「史緒……っ」
クラクションに、翠の叫びは掻き消された。でも、史緒はきちんとそれを聞いた。
そう、呼んで欲しかったのかもしれない。
史緒は足を踏み出した。ふらりふらり、向かってくるバイクを見ながら、史緒は再び、その道を渡った。
辿り着いた先で、翠がその腕をそっと握った。置いていった史緒を責めることはしない。でも、そのきつく掴まれた指に、史緒は後悔した。
こんな風に、確かめるべきではなかったのだ。こんなことをしなくても、翠はちゃんと傍にいてくれる。
「一緒に行こうか」
そう言えば、頷いてくれるのに。
どうしてそれを、疑ったりしたのだろう。
何度か一緒に道を渡ると、翠はコツを掴んだようだった。今では見ている史緒がひやりとするくらい、無頓着にバイクの群れに入っていく。慣れてしまえば、翠のような人間は、逆に度胸がついてしまうのだ。
翠は、とても素直に色々なものに感動する。大声を上げてはしゃいだりはしないが、目を輝かせて、こちらも笑いたくなるほど無邪気に微笑む。今も、原色の街並みを楽しそうに眺めていた。
これだけは、翠の父親に自慢してやろう、と史緒は思う。翠が無邪気に微笑み、目を輝かせていたのだと、語って聞かせるのだ。香草を食べて、そのクセの強さになんとも情けない顔をしたこと。コンデンスミルクを入れたベトナムコーヒーの美味しさに、夢中になったこと。街中に置いてある、赤いプラスチックの椅子に魅せられていたこと。
あなたが一人で旅している間に、息子さんも色々な体験をしたのだと。
自分と、一緒に。
そしてこれからも、そんなときには、自分が隣にいるのだと。
いつか翠の父親が帰ってきたとき、そう宣言してやろう。
史緒はそう決めて、足取り軽く道を歩いている翠の隣に並んだ。
「さて、次はどこに行くの?」
「どうしようか……シャツでも、作ろうか」
「シャツ?」
「そう。オーダーメイドのシャツを作ってくれるところはたくさんある。思い出に、いいだろう?」
翠が立ち止まって、目を輝かせた。それから、とてもいい案だと頷いた。
「お揃い?」
「はは。それもたまにはいいかもね」
生地もボタンも違えれば、同じ型でもあまりわからないだろう。さあこっちだ、と史緒が踵を返して、翠もそれを追う。
ずっと、こんな風に。
二人で、歩いていけたらいい。
街の喧騒と、バイクの群れと。それに逆らわず、それに流されず。
ふらりふらりと。
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