home  モドル 5-05 01 02 03 04 * 06


遠景涙恋
第六章 夜香


05
 お邪魔でなければ、と答えたリーフィウには、キーファは何も言わなかった。寝床に転がったまま、静かに目を閉じている。
 リーフィウはその寝床のすぐ傍らに座布団を持っていき、そこに坐った。話をするときに、大きな声を出すのは苦しそうだったからだ。
 だが、引き止めたキーファは何を話すと言うわけでもなかった。眠ってしまったのだろうか、と顔を見てみるが、わからなかった。
 リーフィウは、湖宮での夜を思い出していた。静かで、穏やかな時間。この男といて、何故あれほど心穏やかだったのか、自分にもわからなかった。
「決心は、変わらないのか」
 ふいに、キーファの声が小さく響いた。リーフィウははっとして寝床から離れた。
「決心?」
 呟いてみてすぐ、リーフィウは何のことを言っているのかわかり、はい、とはっきりと答えた。
 キーファは仰向けになったまま、真っ直ぐに天井を見ていた。
「ルクには、戻れなくなるかもしれない」
「はい」
 キーファがゆっくりと顔を横に向けて、寝床の傍らに立つリーフィウの顔を見つめた。
「……ルク民は、もう私を受け入れないでしょう。何も出来ずに捕まった王子を。そして――私のために動いた民を、裁く私を」
 リーフィウはちらりとキーファを見て、知らず唇を噛み締めた。
 ザッハをヤーミンに渡したルクの民を、リーフィウは見逃すわけにはいかなかった。ザッハは自分の身代わりだった。彼はその危険を顧みず、そして第一部隊は部隊長をそう言う形で奪われたことに不満を言わなかった。あまつさえ、カハラム国王軍はルクの民を守った。
 カハラムにしてみれば、ザッハをヤーミンに売ったルク民を許せるはずがない。リーフィウはそれをわかっているからこそ、カハラムにそのルク民を渡すことは出来なかった。自分の手で裁くことこそが、最後の慈悲なのだった。
 たとえそれが、民たちに理解されないとしても。
 すっとキーファの手が伸びてきて、リーフィウの唇に触れようとした。だが、その指は直前で止まり、すっとまた元に戻っていった。その指に、リーフィウは唇から血が出ていることに気付いた。口の中に、じわりと錆びくさい味が広がる。リーフィウが唇を緩めたことを確かめてから、キーファはまた顔を天井に向けた。
「……王子と言われて困ると言うのなら、なぜ辛い決断をする」
 キーファの言葉に、リーフィウは目を僅かに見開いた。
「あなたが、傷つく必要はない」
「キーファ王……」
 呟きは、震えた。柔らかい布団を握った手に、力が入った。
 仕方がないのだ。リーフィウはそう思っていた。自分は何も出来なかったのだから、そして周り中を傷つけているのだから、仕方がないのだと。
 だが、それを胸に抱いて一人で立っていることは、辛いことだった。
 しばらく、沈黙の時間が流れた。キーファは年度か目を閉じたり開けたりして、あまり調子がいいようには見えなかった。
「パナ酒を、もらえないか」
 いつもならば自分で勝手に飲むキーファが、リーフィウに頼んだ。身体が動かせないのだろうことは容易に想像できて、リーフィウはふっと息を吐き出した。
「そんな状態で、パナ酒など……お茶を淹れましょうか」
 リーフィウがそう言うと、キーファは眉根を寄せた。
「あれは眠り薬のようなものだ。どうせ私には効かない」
「眠り薬……なのですか?」
 今までただのお茶だと思っていたリーフィウは、驚いて聞き返した。イーザが最初の晩から、数度飲ませてくれたことがあったが、そんな話は聞いていなかった。確かに、良く眠れるように、と言われてはいたが。
「ゆっくり効くものだがな」
 言われてみて、どことなく眠気が襲ってくるような気がして、リーフィウは何度か瞬きをした。
「あなたもそろそろ戻った方がいいだろう。……引き止めて、悪かった」
 キーファはパナ酒は諦めたようだった。だが、お茶は効かないと言ったように、眠そうではない。それどころか辛そうで、リーフィウはその場を離れがたかった。
 酒を飲みたいなどと言うのも、痛みの所為ではないだろうかと思った。
「あの、夜はどなたかこちらに?」
「いや、必要ない」
 簡潔な言葉に、リーフィウは自分も拒絶された気がして、目を翳らせた。
「私が見ていては……?」
 その言葉に、ふっとキーファが笑った。この王子は、優しすぎる。
「ルクの民が心配する」
 キーファはそう言ってから、突然、「ハリーファ」と声を上げた。すっと扉が開いて、背の高い影が部屋に入ってくる。頭を下げたハリーファに、キーファはリーフィウを頼み、目を閉じた。
 眠っていないことは確かだった。
 だが、リーフィウは何も言えず、その顔を心配そうに見てから、ハリーファの後を追った。
 とても、後ろ髪が引かれる思いだった。


 リーフィウがキーファに呼ばれた頃、フェイはシャリスに呼ばれていた。シャリスと話したことはほとんどない。ザッハが攫われた後に、二度ほど、ほとんど会話にもなっていない話をしただけだ。
 シャリスは、医療部隊と言われる第二部隊の長として、ルクの中でも比較的好意的に受け入れられていた。ルク国では、医者は敬われる対象だった。その上、シャリスは優しい面立ちをしている。
 人気のない、小さな部屋に連れていかれ、フェイはどこか不安な思いを拭えずにいた。話が予想できない分、余計だった。
「フェイ殿」
 シャリスたち国王軍は、決してこちらを見下すような態度は取らない。国王軍と師団はどうやら違うのだということを、フェイはその頃には薄々感じてきていた。リーフィウに対する態度も、ルク民にしてみれば十分満足できるものだった。
「ヤーミンに手引きをしたルク民は、見つかりましたか」
 だが、ふいに言われた言葉に、フェイははっとしてその優しげな顔を見た。僅かに笑っているようだが、それが却って薄ら寒い思いを抱かせた。
「……何をおしゃっているのか」
「フェイ殿。私は回りくどいことはあまり好きではありません。患者の治療は、遠回りはできませんから」
 その面立ちや人当りのいい態度から、ときどきシャリスが部隊長だと言うことを忘れてしまうが、このときのシャリスは、確かに兵をまとめる隊長の顔をしていた。
「ヤーミンの兵が、そう簡単にこの宮殿に入れたはずがないのです。それも、リーフィウ様が廊下を通る時間を正確に知っているのも、おかしい。ザッハはその辺りも気を配っていたはずです。それに――あのもう一人の護衛は、戻ってきていませんね?」
 シャリスの言葉に、フェイは何も答えられなかった。どうしたらいいのか考えることで頭は一杯だった。
「彼らの居所は、わかったのでしょうか」
「……シャリス様。そのことは、リーフィウ様が全面的に任せられたと聞きましたが」
 シャリスは、それに頷いた。
「だからこそ、お聞きしているのです。リーフィウ様は、責任は必ず取る、と仰いました」
 それにはフェイが目を見開いた。探し出したら報告を欲しい、とは頼まれていたが、リーフィウがその後彼らをどうするのか、聞いてはいなかったからだ。それに、どこかで、リーフィウは同じルク民を処刑するなどと言うことはしないだろうと、勝手に思っていた。
「それは……」
「リーフィウ様の気性は、フェイ殿のほうが良くご存知でしょう。ご自分の代わりとなったザッハの怪我に、非常に責任を感じているように見えました。それに――申し上げていませんでしたが、ザッハは、私たちの第一部隊の隊長です」
 そんな、とフェイが音にならない声を上げた。
 ザッハは若い。それに、身代わりと言うことで、それほどの地位の人間が出てくるとは思っていなかったのだ。
 でも、それならば、彼をヤーミンに売った、彼らからしてみれば裏切ったルク民を、そのままにしておくことは出来ないだろう。
「リーフィウ様は覚悟をなさっていると思われます。我々が、どう言った形での責任を見せてもらいたいのか、わかっていらっしゃる」
 フェイは落ち着こうと大きく息を吸って、それをゆっくりと吐き出した。
 自分には、重すぎる荷だ。一人で、何か言えることではなかった。
「我々は、彼らを許すことは出来ません。ですが、カハラム王は、リーフィウ様がその裁きをなさることを、望んでおりません」
「え……?」
「リーフィウ様に、その荷を背負って欲しくはないと、思っています」
 フェイは、困惑した顔でシャリスを見た。
 つまり、どうしたいと言うのか。
「まずは、そちらの指導者に、お会いできませんか」
 フェイの困惑を完全に理解しているのか、シャリスはそう言った。
 だが、フェイはますます迷うばかりだった。
 ルクがカハラム支配下に入って以来、ルクには様々な地下組織が出来た。どれもルクを取り戻すと言う目的は一緒なのだが、過激派と穏便派、慎重派とそれぞれの考えの違いで、一つにまとまることはなかった。今回のザッハの件は、過激派の中でもヤーミンよりの派閥の仕業で、特にフェイの所属する組織と対立の激しかった組織の一つだった。
 ヤーミンに近づくことは、決して解決の道にはならないと多くのものはわかっていた。だが、一部の組織では、そうしてルクを取り戻し、ヤーミンにも侵略されずに済むと、何とも都合のいいことを考えている者もいた。もちろん、それはヤーミンの口車に乗せられているのだとフェイの所属する組織の幹部達は言っていたが。
 フェイの所属するこの組織は、あからさまにそう言った組織を非難していて、内部での危険も多い。そのために、組織員はその身分を隠している。
 だから、迷ったのだ。簡単に、会わせるわけにはいかないと。
 だが、シャリスの口から内密となっているはずのその指導者の名が零れ、フェイは頷くしかなかった。


 時間がないからと、シャリスはすぐにでも面会をしたいと言った。フェイは承知して、とりあえず幹部に連絡をすることにした。幹部達は、シャリスと話したことを素直に言うと、わかったと会う段取りをつけた。
「初めてお目にかかります。カハラム国王軍第二部隊長、シャリスと申します。この度はお会いできて光栄です、シリス様」
 扉の外にはじき出されたフェイは、そう言って優雅に礼をしたシャリスを思い出していた。幹部達が集まっている中で、シャリスは一人だと言うのにまったく平然としていた。年は、自分とさほど変わらないだろう。それなのに、自分は幹部達の前では緊張して仕方がないというのに、なぜあれほど落ち着いていられるのか、羨ましいほどだった。
 ザッハが部隊長だと聞いて驚いたが、カハラム国王軍は全体的に兵は若い。何しろ、王自身がまだ若かった。
 フェイも元ルク兵だが、自分たちとカハラム国王軍には、確かな違いがあるのだと認めざるを得なかった。ルクの兵たちは、あれほどぎりぎりの戦いをしたことはない。それは飾りにも近いもので――恐ろしさがなかった。
 シャリスはそれほど大柄でもなく、顔立ちから華奢にも思えるが、実はかなり鍛えてあると、フェイは知っていた。リーフィウがシャリスの上着を脱がせて交換させたときに、下着越しだがその筋肉を見たのだ。
 平和な世の中なら、飾りの兵でも良かっただろう。だが、周り中がいつでも戦闘できる準備をしていたのに、ルク軍は危機感がなさすぎた、と言った元軍隊長の声が思い出された。彼は先の戦いで力の限りを尽くし――倒れた。ルク軍がカハラムたちに対抗できないのは、何よりも、自分に責任があるのだと言っていた。そして、自らが犠牲になって、ルク兵たちの多くを救ったのだ。
 フェイは扉を見つめて、ぐっと顔を引き締めた。
 ルクを守ろうと思うなら、自分の進むべき道は一つだった。


home モドル 5-05 01 02 03 04 * 06