半夏生
10
「ちくしょう……」
鴇田はだらりとソファーに身を預けたまま、呟いた。なんだってこんな日に、夏目はやってくるんだ。それも、あんなに怒って、傷ついた顔をして、やってくるんだ。
鴇田はしばらく天井を見つめた。動く気力が起きなかった。それでも、どれ位そうしていたのか、エアコンの風に身震いをして、ようやくのろりと起き上がった。テーブルの上に置いてあったビールの缶は、さっきの騒動で倒れて零れていた。それを横目で見て、ため息を吐きながら、鴇田は携帯と鞄を探した。
鞄から手帳と携帯を出す。手帳に挟まれた紙切れを取り出して、一つ一つ番号を押していった。途中、七なのか一なのかわからない数字があったが、間違えたら掛け直せばいいと、勘で七を押す。顔に似合わない汚い字だ、と思った。だが、最初の数字は少し震えていて――迷ったのだと思った。
シャツは破れ、ベルトは外されてズボンのチャックが下りている。鴇田はその格好のまま、窓際に立って外を見た。携帯から、呼び出し音が聞こえている。遠い西の空に、日が沈むところだった。高いビルに後ろから、光が射していた。
ぶつっと、急に呼び出し音が途切れた。切られたのかと思ったが、外の微かなざわめきが聞こえた。夏目は、何も言わなかった。
「夏目か?」
相手は何も答えなかった。それが、答えだと思った。
「おまえな、急に来たと思ったら好き勝手言って、勝手に出て行くな。ビールまで零しやがって。大体、いつもはおまえの都合に付き合ってるのに、どうして俺が一人で居たくない時に、放って帰るんだ」
鴇田さん、と名前を呼ばれた気がした。
「おまえはいらないといったが、生憎俺は同情でもなんでも、欲しいところなんだよ」
携帯の向こうが黙った。鴇田は用は終わったとばかりに、そのまま携帯をソファーに投げた。それから冷蔵庫に、ビールを取りに行った。
同情なのか、違うのか。
それは、鴇田もずっと考えていたことだ。だから、同情ではないとはっきり言える。自分のどこに、夏目に同情できる資格があるだろう。だが、罪滅ぼし――それならば、わからなかった。それがひどく自己満足であっても、夏目に対する気持ちは、それが一番近い気がした。
だが、先刻の電話の言葉は本音だ。夏目がドアの前に立っていたとき、鴇田はその温もりを想像した。それを、切実に、欲しいと思った。
人の温もりを求めたのは、ひどく久しぶりのことだった。
再びけたたましくインターフォンが鳴ったのは、かなりの勢いで飲んでいたビールが終わりそうな頃だった。電話から、十分も経っていない。
鴇田はそのまま缶の底に残ったビールを煽った。焦れた夏目は、ドアノブをがちゃりと回して、そこが開いていることに気付いたようだった。ばたんっと大きな音をさせて、中に入ってくる。鴇田は冷蔵庫から、二本目のビールを出していた。
「おまえも飲むか?」
鴇田が缶を掲げると、走ってきたのか、息が整わないままの夏目がずいっと手を出した。コンビニの袋に、ビールが入っていた。
鴇田はそれを見て、くくくっと笑った。可笑しくて、笑い続けた。ビールも零しやがって。確かに、さっきの電話で自分はそう言った。
鴇田はひとしきり笑った後、手にしていたビールを冷蔵庫に戻し、夏目が買ってきてくれた方を飲むことにした。夏目はどこか、途方にくれたような顔をして突っ立っていた。
「どうして」
ぐいっと缶を押し付けると、夏目はそれを手に持ちながら、呟いた。
「どうして、携帯繋がってるのに答えてくれないんですか」
鴇田が缶ビールを一本開けている間、携帯から何度か、鴇田の名を呼ぶ夏目の声が聞こえていた。だが、鴇田は放っておいた。言いたいことは言い終わっていた。
鴇田はその携帯をテーブルに置いて、ソファーに坐った。
「おまえはどうして、ここの暗証番号を知ってるんだ」
「それは、鴇田さんが開けているところを見ていればわかります」
それもそうだな、と鴇田は自分が随分間抜けなことを考えていたのを知った。いつも一緒に入ってくるのだ。四桁の暗証番号など、数字が見えなくても位置と順番でわかる。
夏目はまだ突っ立ったままだ。その服がスーツなのに気付いて、鴇田は「仕事だったのか」と独り言のように呟いた。
「はい。それで、寺井課長に仕様変更についてどうしても聞かなければならないことがあって、昼間、電話をしたんです」
その時なら、鴇田も寺井の家にいた。だが、鴇田は電話があったことを知らなかった。大方、子供の相手をしてるときだったのだろう。絢は家に仕事を持ち帰ることに良い顔をしないと言っていたから、寺井がこっそり電話を受けたことは想像できた。
「そうしたら、あなたが来ているという話になって……」
「四国支社の話でもでたか」
こくり、と夏目が頷いた。
「そう言えば、おまえたちどこかで会ったことがあるんだって?と言われて。それなら四国支社の頃の話だろう、よく一緒に飲んでるみたいだが、懐かしい故郷の話でもしているのか、と」
夏目は手の中で、ビール缶を転がしていた。鴇田はさっさと空けて、もう半分ほど飲んでいた。
こっそり電話をしているときに、寺井も何を呑気な話をしているんだ。鴇田はそう思ったが、それも自分がいたからだとわかっていた。絢も寺井も、鴇田が何にも――誰にも――興味も執着も見せないことに、多分少し、苛立ってきていた。
「ずっと、不思議だった。どうしてあなたが俺に抱かれたのか。結婚もしてないから、もしかしたら、あなたも同じ性癖なのかと思った」
結婚しないのには、他の理由があるらしいと聞きましたけど。夏目は目を伏せてそう続けた。
「おまえは同性愛者なのか?」
たぶん、と夏目はいった。
「たぶん?」
「抱こうと思えば女の人も抱けるから、正確には違うかもしれない。でも、好きになったのは男の人だけだから」
好きになったなどと衒いなく言える若さに、鴇田は知らずため息をついた。
夏目は、こんなにも若い。それが、なぜ。
「同情かと思ったら、我慢できなかった」
沈黙の後、夏目はぽつりといった。それから、ビールの缶をローテーブルに置いて、すっと鴇田の首に手を伸ばしてきた。
ひんやりと冷たい手が、首筋を撫でた。
「すみません。こんなに、腫れて……」
夏目は悲痛な顔をしていたが、鴇田は鏡を見ていないから、どんな状態になっているのかわからない。鴇田は夏目の手首を掴んだ。
見上げると、夏目がじっと鴇田を見ていた。やはり、迷子の子供のような目をしていた。
鴇田は夏目の手をソファーの背凭れに着かせ、自分は右手を夏目の首の後ろに伸ばした。それから、ぐいっとそれを引っ張って、唇を合わせた。
そう言えば、抱き合っていたのにその間キスはしていない。そのことに、鴇田は今になって気付いた。
思ったより夢中になって二人は唇を貪った。唾液が垂れるほどになったところで、鴇田はようやく手を緩め、夏目はゆっくりと鴇田の咥内を一舐めしてから、身を起こした。眉根が、少し寄ってる。
「酒の味がする……」
「だから、おまえも飲めば良かったんだ」
鴇田がそう微かに笑うと、夏目は諦めたようにため息を吐いた。それから、今度はソファーに乗り上げて、鴇田を押し倒しながら唇を重ねた。
微かなエアコンの音と、湿った音が響く。ひどく遠慮がちに夏目が首筋を舐めて、鴇田は不本意ながら身体をひくつかせた。
「そこ、やめろ……」
腫れて敏感になっている。優しく温かい夏目の舌や唇は、簡単に鴇田を痺れさせた。夏目は少し笑っただけで、首筋を攻めることを止めなかった。
しつこいくらいに首筋に執着している夏目を咎めるように、鴇田はその髪を引っ張った。夏目が痛みに顔を歪めた。
鴇田はそのまま今度は頭を引き寄せ、口付ける。夏目はそこでようやく、首筋以外に愛撫を始めた。大きな手が、胸や腰を撫でる。鴇田がこくりと喉を鳴らして背を逸らすと、夏目は今度は鎖骨に吸い付いた。
早智子はときどき積極的に鴇田を攻めた。それはほとんど悪戯をしているといった感じで、鴇田はその度に笑いを堪えていた。
夏目のそれは、早智子とは全く違う。胸を舐めたり、鎖骨にキスマークをつけたり、やっていることは同じだが、夏目の舌も唇も熱かった。早智子のときは、その姿に緩やかに興奮した。だが夏目とは、その愛撫が直接、鴇田を快楽に誘った。
鴇田は天井を見ていた。吐き出される荒い息には、熱が篭っていた。
「う……あ」
急激な快楽が与えられて、鴇田はその目を大きく見開いた。
「おまえ、何やって……」
夏目は決して乱暴に抱いたことはないが、こんな行為もされたことがなかった。鴇田は思わず、腰を引いた。だが、それを見越しているかのように腰を掴んでいた夏目は、逆にぐっとその腰を引き寄せ、鴇田をさらにその口の奥へ誘い込んだ。
舌が絡まっている。見えていないのにそれをしっかりと感じて、鴇田は唸った。そのまま吸われるようにされて、声が漏れる。
鴇田は慌てて腰を引き、足と手で夏目を引き剥がした。下から見上げてきた夏目の目は獣そのもので、鴇田は手で目を覆った。
夏目は少々不満そうな顔をしながらも、無言で鴇田の後ろを探ってきた。既に流れ出たものを塗りつけて、最初は撫でるように、それからゆっくり指を入れてくる。いつまで経っても慣れるとは思えない。だが、夏目はこれで忍耐強い。
少し考えれば、わかったことだ。夏目はいつでも、鴇田を傷つけないようにしていた。何故そんな面倒なことをするのか。そこまでして鴇田を抱くのか、考えればよかったのだ。
鴇田の手が、夏目の髪をくしゃりと混ぜた。今や指が何本入っているのか、鴇田にはわからなかった。だが夏目が許すほどには解れたのだろう。ようやく夏目が身体を起こして、ゆっくりと入ってきた。
「力を抜いてください」
夏目が宥めるように腰や腹を手で撫でる。それから、立たされた膝に唇を押し付けられた。
「あぁ、あ……」
いつもならシーツを掴むのだが、革張りのソファーは爪を立てても滑るだけだ。それに気付いたのか、夏目が鴇田の腕を自分の腕に誘導した。
形が馴染むまで、夏目は動かない。鴇田は腕を掴んだついでに、キスを誘った。夏目がゆっくりと身を屈めて来る。舌が絡んだところで、腰を軽く揺すられた。上がりそうになった悲鳴のような声は、見事にその口の中に吸い込まれた。息が上手く出来ない。セックスを覚えたてのガキみたいだ、と鴇田は眩暈に似た思いを抱いた。
だがそれは夏目も同じだった。
二人はその日、どろどろになるまで抱き合った。ガキ以上にひどいと、鴇田は思った。