青空でさえ知っている
03
安里は一歩後ろをついて来る。ほんの少し振り返れば、肩越しにでもその姿は見えるだろう。でも、理は頑なに振り返らなかった。
馬鹿で幼い、不毛な嫉妬をしている。さらには敗北感と絶望がない混ざったような気分まで味わっていて、とてもじゃないが顔を見せられなかった。
安里が、あんなに喋っているのを見るのは初めてだった。いや、図書館にいるとき、図書委員のメンバーといるとき、あの顔はくるくると変わり、口は良く動く。そんなことはわかっていたのに、額をつき合わせるように、少し身を乗り出して守谷と話している安里を見たら、その顔が笑ったのを見たら――腹の底が熱くなった。
自分といるときの安里と、あまりに違うからだ。以前は、理は遠くから見る安里しか知らなかった。面と向かって話すことはなかった。だから、他の人間と楽しそうに話しているのを見ても、心穏やかに見ていられた。
だが、今、安里は自分と話すとき、ほとんど顔を見せてくれない。俯いていたり、視線は下を見ていたりで、目が合うこともあまりない。そもそも、あんなに話してくれない。酷いときなどは、言葉を発することさえない。
自分たち四人と共に実行委員をすることは、大変なことだと理も自覚していた。そこに巻き込んだのは自分で、だから安里を、なんとかこの仲間に馴染ませたかった。彼が図書委員といるときのように、安心した顔を見せられるように、したかった。それが簡単なことではないと覚悟もしていた。
だが、今日は逃げられた。そして逃げた先で、まるで、知らない大人ばかりがいる場所から自分の家に帰ってきた子供のように、安心した、幸せそうな顔をしていた。
理にとって、あの安里の表情は、自分が間違ったことをしているのだと知らされたようなものだった。今もなんとなく、後ろから微かな緊張を感じる。それが自分に対してなのか、これから行く会議に対してなのかわからない。どちらも、なのかもしれない。
溜息が洩れる。途端に、後ろの足音が僅かに一瞬遅れた。先刻、図書館のカウンター横から見た、怯えたような安里の顔を思い出す。
そんな顔をさせたいわけじゃない。そうじゃ、ないのに。
再び洩れそうになる溜息を、理は無理矢理に押し留めた。
五月の端午の節句対決は、通常東西寮対抗だ。勝った方は、温泉代わりにしたプールでの菖蒲湯の一番風呂に入れる権利を得る。負けた学年は、そのプールの掃除をしなければならない。対決に駆り出されるのは、大概が新入生だ。その後三年間、寮の対決は何かと行われる。それに向けて、対抗意識を刷り込ませるためでもあり、チームワークを高めるためでもある。伝統的に、節句対決はスポーツ――といっても、運動会で行われる競技が多い。例えば、玉入れとか二人三脚リレーとか障害物競走とか――で行われることが多い。チームワークは必須、なのだ。
ところが今年の節句対決は、一年の総代ポスト問題が絡み、例外的に一年と三年の二学年対決となった。一年が参加するのだから、当初の目的も達成できると、実行委員でもこの例外を了承した。
だが、一つ問題があった。すっかり蚊帳の外となってしまった二年生をどうするかだ。
勝負に全く関わらないつまらなさを除けば、競技自体はもともと一年生同士で行っていたのだから、問題はない。だが、この行事のメインは菖蒲湯だから、それに入れないという事態は避けないとならなかった。菖蒲湯は全員参加ではないが、プールに山で湧き出ている温泉――ちなみに、寮の風呂も温泉だ――を入れ、そこを風呂と見立てて入る、というかなり非日常で奇妙な体験だ。寮には大浴場もあるが、昼の光が窓から入って水面を輝かせる中、みんなが裸でプールに入る、一年に一度のこの体験を、逃したくない生徒はたくさんいる。
最初は、三度に分けてはいる、という案もあった。だが、非効率的で無駄だと、却下された。
「それなら、二年も対決に混ぜてください」
そう提案したのが、日尾だった。
「混ぜてって言っても、俺たちは直接対決するんじゃなくて、後輩と先輩、どっちが勝つか、賭けるんです。で、もちろん、賭けたほうと一緒に菖蒲湯に入る。負けたほうに賭けていたら、もちろん掃除を手伝う」
「面白いかもな。でも、偏りそうだなあ」
委員長のその質問に答えたのは、日尾の隣に坐っていた二葉だった。
「大丈夫じゃないですか? 勝ち負けじゃなくて、一緒に入りたい方を選ぶって言う、不貞のやからもいるでしょうから」
その言い様には、委員長を始めとする三年生が苦笑した。
「二年は賭けで参加、に反対の人いる? いないなら、これでいこう」
委員長の声に、頷く生徒はいても反対の声を上げるものはいなかった。
「じゃあ、二年は日尾を中心にして、賭けの方法とかまとめて。時間ないから、明日中にな。で、一年は……一つ増えたから四班か。四班に別れて。菖蒲の手配する班、プール全般に関わる班、節句対決に関する班、それと賭けの進行をする班な。二年も四班、三年は三班に別れて、各班で代表、次回の班会議とか決めて」
この話が出たのが、第二回の会議だった。委員長の言葉に、まずは各学年で班分けをした。二年生は明日の会議の時間も決める。安里はどんどん進む会議に、呆然としていた。図書委員会は、もっとのんびりとしているし、やることは大体毎年同じで、その確認をしていくようなところがある。もちろん、新しい企画などを考えるときもあるが、それにはじっくり時間をかける。置いていかれそう、それが素直な感想だった。
だから、第三回の会議に出るのも怖気づいてしまった。意見交換は活発で、広い会議室は煩いほどだった。だが、それをきちんと統制する人間が個々の学年やグループにいて、それらグループでの決定事項はどんどん中枢となる委員長に上げられていく。会議は最後にその決定事項を全員で確認して終わった。
そんな中、安里は呆然としていただけだった。活発に意見が言えるわけもなく、班分けも言われたまま、日尾と同じところに入った。二年と三年の実行委員は経験者が多く、迷いなく先に進む。一年生達は、各班で先輩たちのやり方を教わっていくようだから、来年も継続して実行委員になれば、みんな即戦力となるわけだ。二年で突然実行委員になった安里は、その一年生達と全く変わりがなかった。どうやら、実行委員を一度も手伝ったことがない上級生は安里だけのようで、ひどく肩身の狭い思いをした。
その辺りを、なんとかフォローしてくれたのが、日尾だった。同じ「菖蒲班」で、安里が戸惑ったりわからなかったりすれば、必ず横からするりと助けてくれた。安里が自分からなかなか動けないことにも気付いたのか、「どうする?」「中ノ瀬は何やりたい?」と、ことあるごとに訊いてくれたりもした。
日尾は、基本的に世話焼きなのだ。わからなくて試行錯誤している人を見れば、さりげなく助け舟を出すし、誰かが「できないよー」と泣きついてくると、「自分でやれ」と突き放しながらも、ちらちらと様子を見て、最後までできるか見守っている。そんな風だから、誰からも頼りにされのだ。
安里をイベント実行委員に誘ったのも、ある種のお節介だったのかもしれない。どうしてそう思ったのかしらないが、日尾は、安里が「イベントとか好きなんじゃないかと思った」と言った。実際、嫌いではない。性格上、一緒になって騒げないだけで、盛り上がっているのを見ると、正直ときどき、羨ましかった。日尾のことだ、それをどこからか見ていたのかもしれない。
――何をしていても、隅まで把握してるもんな……。
例えば安里が教室の隅で作業をしていると、終わればすぐに日尾から声が掛かる。だから安里は、途方にくれることはない。
日尾は忙しく、ときには一緒に駆けずり回ったりもした。そのおかげもあって、節句対決前日には、安里の心にも「いよいよ明日は対決なんだ」という実感と、達成感への期待のようなものが生まれていた。
「こんちは。どうこっちは? うわ、結構青臭いな」
廊下の水道で菖蒲の葉を洗っていた安里に声をかけて来たのは、吉岡だった。彼は「プール班」のはずだ。
「あれ? 中ノ瀬一人?」
「あ、うん。日尾はなんか呼ばれてって……」
「あー、賭け班、ちょっとトラブってたみたいだからなあ」
吉岡が腕を組んで、僅かに眉根を寄せる。プール掃除の途中なのだろう、体育着となっているポロシャツに半ズボンといういでたちで、すらりとした足と手が、なんだか眩しかった。華奢なのに、きれいに筋肉がついている。安里にはとても羨ましい。
「なんか結構な量あるんだな。これ、一人でやるの、きつくない?」
吉岡は洗い終わった葉を手にとって、ぴらぴらと軽く振った。大量の菖蒲の葉は、自分たち生徒が手配したものだ。安価で手に入れるため、ただ刈り取られただけの状態だから、風呂に入れるには丁寧に洗わなければならない。
菖蒲班は何人かに分かれてこの作業をしていたが、休日の今日、部に所属している生徒は練習に忙しく、人手が足りなかった。賭け班に呼ばれた日尾は、本人は全く悪くないのに、もの凄く申し訳なさそうにここを出て行った。
「日尾はなるべく早く戻ってくるって。あの、そっちは? 終わりそう?」
「ん? ああ、そうだ。それを言いに来たんだった。プールはまだこれからだけど、葉っぱ置くとこは掃除終わったから、いつでもどうぞ」
吉岡がにっこりと笑う。安里は洗い終わった葉をちらりと見て、じゃあ持っていこうか……と思った。
「持ってく?」
「え?」
「これ、終わったやつだろ? 持ってくなら手伝うよ」
安里が頷くと、吉岡はひょいっと重そうな方のコンテナを持ち上げた。小さなコンテナだが、結構重い上に、プールまでは距離がある。安里もコンテナを抱え上げた。二人で、並んで歩き出す。
「ありがと」
呟くと、横の吉岡がふっと笑う。彼のことを「少女のような」と言う形容であらわすのは失礼だとは思うが、大きな目や小さくてすっと通った鼻、白い肌に血色の良い唇は、まるで美少女に間近で微笑まれたようで、安里は胸をどぎまぎさせてしまった。
「中ノ瀬ってさー、可愛いよね」
「え? ええ?」
だから、ふいにそんなことを言われて、思わずコンテナを落としそうになった。
「大丈夫?」
うん、と頷いて、慌てて抱えなおす。それから、横目でちらちらと吉岡を見た。
「あ、変な意味じゃないよ? 二葉の軽薄なのとも違う。女子高生じゃないんだからさ、なんでも可愛い、可愛い、言うなってな」
二葉は確かに、誰に対しても、すぐに「可愛い」と言っている印象がある。あの、「昔持ってた、熊の巨大縫ぐるみみたい」と安里がこっそり思っている、綿内にまで「可愛い」を連発する。それが軽薄だからなのか、ただの口癖なのか、安里にはわからない。
吉岡はとても軽そうにコンテナを持っていた。伊達に空手部ではないのだ。安里は遅れないよう、必死についていく。
「俺を、可愛いって、言うのも、わかんない、けど」
息が上がってきて、言葉が途切れ途切れになってしまった。吉岡はそれに気付いて、慌てて足の速度を落とした。
「ごめん。速すぎたな。ってか、葉っぱ、もうちょっと俺のほうに入れよう」
「え? いいよ。大丈夫」
驚いて首を振る。本当に? と目で問い掛けられた気がして、ぶんぶんと頭を縦に振って、ついでに「大丈夫」と声にも出した。
「ほら、それだよ! 可愛いよなあ」
吉岡はにこにこと笑っていた。安里はなんだか恥かしくなってきた。可愛い、のニュアンスがわかった気がする。愛玩動物に対するそれと、同じじゃないだろうか。
「最初はさあ、正直、なんで理は中ノ瀬を実行委員に指名したのか、わからなかったんだよな。中ノ瀬、発言しないし、端っこで小さくなってるって感じだし。自分から入ってこようって気もなかったみたいで、だからって、こっちから歩み寄っても、どうも反応悪かったしね」
顔に似合わず、吉岡は毒舌だ。だが、それは確かな真実で、安里は目を伏せるしかなかった。
「中ノ瀬って、すごく人見知り?」
急に言われて、安里はぱっと顔を上げた。それから、また俯いて「うん」と頷いた。高校生にもなって、こんな人見知りはない、と自分でも思う。
「理を見てて、思ったんだよね。根気よく、ゆっくり、そうすれば中ノ瀬も心を開いてくれるんだなあって。本人はあんまり気付いてないっぽいけど」
玄関で、靴を履く。「ぐるって回らなきゃなんないんだよなあ、めんどくせー」と吉岡が正面玄関を見つつ、仕方がないと歩き出す。
本当は、そうやって誰かが根気よく付き合ってくれることを待っていては駄目だと、安里は思っている。それでも、自分が勇気を出して話し掛けたりするまでには、やはり相応の時間が必要で、その道のりを考えると情けない気持ちになる。図書委員の仲間たちは、まだ共通の話題が合ったから良かった。だが、実行委員はあまりに自分とは違う人たちで、どうしたらいいのかわからなかった。
日尾は本当に、我慢強いと安里も思う。そして、決して焦らずに、ちょっと前を歩いては、振り返ってゆっくりと安里を待ってくれる。安里はだから、そうして差し出された手を、なるべく素早く、そして確実に掴もうと思っていた。話す機会を与えられたら、一言でもいいから話す。仕事を任されたら、一生懸命やる。それ以上のことができないか、考える。きっとみんなが当たり前にやっていることを、安里は日尾の助けでようやくできるのだ。
「で、俺ものんびり付き合って見る気になったわけ。そしたら、最近、ちょっと慣れてきたかなーって思って」
吉岡がにっこりと笑って、首を傾げた。安里は思わず、コンテナをぎゅっと抱き締めた。
「あの、ありがとう」
「へ?」
「俺がもっと積極的ならいいんだよね。でも、わかっててもなかなかできなくて……。なんか、慣れるまで、待ってくれてありがとう」
一気に喋ると、顔が赤くなったのがわかった。吉岡は目を丸くして――笑い出した。
笑いながら立ち止まって、コンテナを置く。どうしたのかと安里が見ていると、後ろから抱きつかれた。ついでに頭も撫でられる。
「やっぱり可愛いよ! 中ノ瀬、いいよ!」
なんだかわからない。吉岡は「あー、理にも見せてやりたい、聞かせてやりたいっ」と叫んでいる。そこでどうして日尾の名が出るのかと思ったが、一番辛抱強く自分に付き合ってくれているのは確かに日尾で、彼にはまだ、お礼など一言も言っていなかったことに安里は気付いた。
「あの、吉岡、ちょっと……」
離して、と言う前に、腕が辛くなって、思わず「重い」とうめいた。吉岡は慌てて安里の前に回ると、その手からコンテナをひょいっと取り上げた。
「ごめんごめん。お詫びにこれも俺が持ってくから」
「え? いいよ、大丈夫」
「いーのいーの、俺、今すげー気分良いから」
吉岡は自分が持ってきたコンテナの方に向かって足を踏み出した。が、そこでふいに、くるりと安里を振り返る。
「肝心なこと訊くの忘れてたよ。中ノ瀬――って面倒だな、安里って呼ぶよ? いいよね? 俺のことも路(みち)って呼んで。で、安里」
安里が拒否する間も、頷く間もなく、吉岡は勝手に呼び方を決めると、ぐっと安里に顔を寄せた。大きな目が、真っ直ぐに安里を睨んでいる。
「この節句対決が終わったら、実行委員やめるって、本当?」