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南方的風
まるで雪でも降りそうだった。庭を駆け回る子供達はそれでも元気で、白い息を撒き散らしていた。頬を赤くして高い声で笑っているのは、ひどく可愛い。俺はそろそろ終わりにしようと思いながら、ついついせがまれると、抱き上げてくるくると回す遊びをしてしまう。終わりだと逃げても、今度はそれに声を上げて追いかけてくるから、いつになっても終わらない。
「よし、本当に最後だ」
逃げた先にいた、ずっと立ってこっちを見ていた男の子を捕まえると、驚いてびくりと身体を揺らした。
「くるくる、する?」
訊くと、少し迷った末にこくりと頷いた。俺はふっと笑ってから、ほうら、と回る。じっと黙って友達を見ていたその子は、きゃーっと笑い声を上げた。
「おーい、遊びは終わりー。お迎えの時間だぞ」
園舎の方から、真己の声が響いた。子供たちはわーっと今度は真己に向かって走っていく。俺は止まって、男の子を地面に降ろした。でも、周りと一緒に走り出そうとしたその子は、まだ目が回っているのだろう、ふらりと倒れそうになる。
「わ、危ない」
とてとて、と斜めに進んだ男の子を抱き上げる。最後のおまけだと、そのまま真己の方に向かった。
「ほら、泣くな!」
真己の前には、大泣きをしている笙太がいた。
「ちゃんと前見て走らないから転ぶんだぞ?」
ちらりと見ると、膝小僧から少し血が出ていた。真己は笙太を外の水道まで連れて行って、その膝を洗う。俺もそこまで男の子を連れて行った。その子はそこで手を洗って、真己と笙太をじっと見ていた。
「笙太、手、洗って」
真己は丁寧に優しく膝を洗うと、そっとタオルで水を拭く。それからじっと見ている子にもタオルを差し出して、手を拭かせた。その反対側で、笙太も手を拭く。
甲斐甲斐しく子供の世話をしている真己を見るのは、どこか不思議で、でも、ひどく自然でもある。よーし、二人共いい子だ、と優しく笑うところなど、保父が天職なのだと思わせた。
「さ、笙太は薬をつけないとな。一志(かずし)は今日、お母さんちょっと遅くなるって言ってたから、もう少し、待ってような?」
二人の手を取って歩き出す。俺も手を洗って、三人の後を追った。
一志は見学を決め込んだようで、真己が消毒したりしているところに、一緒に座り込んでいた。消毒液が染みるとまた泣きそうになる笙太の頭を、小さな手で撫でている。それは、とても微笑ましい光景だった。
「お、偉いなあ、笙太。かっこいいぞ」
真己がそう、にっこりと笑う。あの綺麗な顔でそう言われてしまうと、なんとなく、男として泣けなくなる気持ちは、俺も知っていた。
俺も小さい頃、よくそう誉めてもらった。良い子だ、かっこいい、すごいな、と笑ってもらうと、ぐっと我慢ができる。そんなことを思い出して、俺は思わず苦笑した。
「よし、終わりだ。よく我慢したな」
真己は笙太を抱き締めて、ぽんぽんっと頭を軽く叩いた。それから、一志にもにっこりと笑って、その頭を撫でた。笙太はもう痛みを忘れたのか、「遊ぼう」と一志の手を取って、走って自分たちの教室に向かっていった。
「もう転ばないように気をつけろよ」
真己が苦笑して二人を眺める。
その視線はひどく優しく、そして、懐かしかった。
その後すぐ、迎えの時間となった双葉保育園は、ばたばたとしていた。俺は邪魔にならないように、廊下の隅で伸びていた。さすがに、子供と一緒に遊びまわれば多少は疲れる。子供たちはその俺にも手を振ったり、ばいばいと大声で挨拶をしてくれたりした。
「春日じゃない。ああ、冬休み?」
ふいに名前を呼ばれて顔を上げると、香奈ちゃんが尚人を抱いて微笑んでいた。
「そう。久しぶり。元気?」
「元気よー」
起き上がって尚人の顔を覗き込むと、きらきらと大きな瞳で見つめられた。
「春日お兄ちゃんよ。覚えてる?」
柔らかそうな頬をつつくと、尚人はふに、と笑った。愛想の良い子だ。
「信司は? 元気?」
「あいつは相変わらずよ。休み中もずっと店番だと思うから、たまには遊んでやって」
「へえ、親孝行」
「違うわよー。まあ確かに少しは孝行なのかもしれないけど。ちゃんとバイトとして入ってるもの。ボードしに行く資金がないとか言って」
あちこち尚人を触っていると、きゅっと指を握られた。思わず顔が綻んでしまう。
「ボードって……。信司、大学は?」
「んー? 行くんじゃない? でも、あの子努力は嫌いだから、高みは狙わないのよ。行ける所に行くんじゃない? そう考えたら、バイトなんかしてないで勉強してくれた方が、親孝行かもね」
その信司らしさに、俺は笑うしかなかった。確か高校受験のときも、そんなことを言っていた。
「春日は九重にそのまま行くんでしょう?」
「ん。もともとそのつもりで入ったから」
そうよね、うちの信司とは違うのよね。香奈ちゃんはそう言って、苦笑した。
「大学に入ったら、実家に帰ってくるの?」
ゆっくり揺られていた尚人は、眠ってしまったようだった。俺は肌寒さを感じて、シャツの上から腕を摩りながら、すっかり静かになった庭を見た。
「まあ、通えない距離じゃないから」
そう答えると、香奈ちゃんは母親の顔で微笑んだ。どことなく、照れ臭くなる。
本当は、大学に入ったら一人暮らしをしたいと思っていた。でも、限りある時間なのだから、あと四年くらい、親元にいた方がいいんじゃないか、そう言ったのは真己だった。高校のときも、離れていたんだから、と。
その言い分は、わかった。父親を亡くしたばかりの真己の言葉は重かったし、素直に聞くこともできた。でも、俺にはもう一つ、理由があった。
「真己にでも言われた?」
「うん、まあ。それこそ、親孝行しておけ、みたいな感じだったけど。……それも、わかるし」
「それだけ?」
「へ?」
「親孝行のためだけに、実家に残るの?」
香奈ちゃんは、尚人を見ながら微笑んでいた。俺はその言葉の真意をはかり損ねて、思わずその横顔を見つめた。
「真己のため、ってことはないの?」
ふっと見上げてきた香奈ちゃんは、そう言って笑った。俺はどう答えたらいいのかわからずに、「えーと」とうろたえるしかなかった。
困って突っ立っていた俺の元に、柚衣ちゃんが駆け寄ってきた。鞄を斜めにかけて、毛糸の帽子を被っている。廊下の先に、母親らしき人物が見えた。
「春日お兄ちゃん」
足に抱きつかれて、戸惑ったまま「どうしたの」と訊いたら、あのね、と必死な目で見上げてきた。俺は少し身を屈めて、顔を近づける。
「あの、あのね、春日お兄ちゃん」
「ん?」
「あの、また来てくれる?」
「うん。冬休み中にもう一回は来るよ」
頭を撫でると、柚衣ちゃんは嬉しそうに笑った。
「あのね、それでね、大きくなったら、結婚して?」
ね?と首を傾げる様子は可愛らしい。俺は思わず満面の笑みを浮かべた。
「柚衣ちゃんが大きくなった頃には、俺なんかおじさんだよ?」
「おじさん?」
「そう。いいの?」
うんっ、と大きく頷かれて、俺の笑みは深まるばかりだった。
「ありがとう。じゃあ、大人になったら、また考えよう」
柚衣ちゃんは頷いて、母親の元に走っていった。辿り着いたところで振り向いて、手を振ってくれる。俺もそれに振り返すと、横からため息が聞こえた。
「春日ってば相変わらず天然のたらしねえ」
「はあ? なんだよそれ。そんなもんになった覚えはないんだけど」
反論すると、ふふっと楽しそうに笑われた。
「春日は大人になったらまた、なんてかわしたけど、自分も同じこと言ったの、覚えてないの?」
「同じって……結婚してってか? 誰に?」
「決まってるじゃない。可愛い顔して、大きい目でじーっと見て、結婚してね。そしたらずっと一緒でしょ? 絶対だよって。可愛かったー」
そのときのことを思い出したのか、香奈ちゃんはくすくすと笑う。
覚えていない。そんなこと、覚えていなかった。
「えー? いつだよ。覚えてない」
「いつだったかなあ。私が小学校のときだったのは覚えてるけど……。ああ、多分、五年か六年のときだわ。六年かな? 来年中学ねって話が出て、もっと離れることになるって泣いたのがきっかけだったから」
「泣いたあ?」
「そうよ。小学校に入っただけで一緒に遊ぶ時間がなくなったのに、もっと遊べなくなるのかって。もう少しで自分も小学生になるのに、どうして待っててくれないのーってね」
香奈ちゃんは今度はころころと心底楽しそうに笑ってくれた。俺は頭を抱えたい気持ちだった。
「子供の頃の話だろー。大体、俺、そんなに香奈ちゃんと仲良かったっけ?」
俺がそう言うと、香奈ちゃんは「はあ?」という顔をした。
「何言ってんの? 誰にプロポーズしたと思ってんの?」
「プロポーズって……。香奈ちゃんにだろ?」
香奈ちゃんは「違うわよー」と手を振った。
「やあねえ。本当に忘れてるんだ。罪深いわねえ、春日。相手の子、「わかった、約束だ」って、真剣に約束してたのに」
「だから、その相手って……」
ふいに真己が部屋から出てきたのが視界に入って、俺は言葉を止めて眉根を寄せた。どことなく薄っすらと、記憶が蘇ってくる気がした。
「まさか、真己?」
「まさかって何よ。私は最初から、決まってるじゃないって言ったでしょう?」
「決まってるって、それでどうして真己のことになるわけ?」
言いながら、俺は恐々とした気持ちで香奈ちゃんを見た。なんだか、全部知られているんじゃないかと思った。
「ま、結婚は難しいにしても、約束は守られたんでしょう?」
香奈ちゃんは、ものすごく晴れ晴れとした、満面の笑みをたたえて俺の方を見ていた。俺は呆然と見つめ返すしかなかった。
「――知ってるんだ」
「あのねえ、言ったでしょう? 真己の失恋なら、春日の責任だって」
ああ、と俺はすっかり忘れていた、あの日のことを思い出した。あの後色々あって、香奈ちゃんに言われたことを深く考えることもなかった。
「でもさ、あのときは失恋の話をしたわけだろ? その後のことは、真己が話した?」
「違うけど。見てればわかるわよ。そもそも、なんで春日がここに馴染んでるのか、とか」
俺は視線を逸らして、髪をくしゃりと掴んだ。
「いつから?」
「んー? いつって?」
「真己の気持ち、いつから知ってたのかなあって」
「最初からよ。私が真己と会ったのは、春日より遅いもの。会ったときから、真己の一番は春日だった」
俺はどんな言葉を言ったらいいのかわからず、そもそもどんな顔をすればいいのかにも困って、俯いた。
「恋愛って感情に変わったのがいつかは知らないわ。でも、いつでも、真己にとって一番大切なのは、春日だった」
視線を感じて顔を上げると、ひどく穏やかな、優しい顔をした香奈ちゃんがいた。
俺は突然泣きたいような気持ちになって、唇を噛んだ。
少なくとも、昔から俺たちを知る彼女が、この関係を認めてくれている。そこには祝福さえ感じられて、俺はものすごくほっとして――嬉しかった。
俺は真己とのことを誰にも言っていない。触れ回ることではないことはもちろんだが、恋人と言う存在そのものを仄めかすことさえしていなかった。宮古は勘付いているだろうが。
不安がないと言ったら嘘だった。リスクを負っているとしたら、真己の方だ。だから、俺は怖かった。俺よりずっと大人の真己は、いざとなったら全ての責任を負うだろう。自ら、進んで。そう言ったことから、将来どうやって二人で生きていくかと言うことまで、考えれば不安の種などどこにでもあった。
私ね、と香奈ちゃんの優しい声がした。尚人に話し掛けるときと同じ、声だった。
「嬉しいの。二人には幸せになって欲しいから、一緒にいるのを見るの、嬉しいの」
俺はただ一言、ありがとうと、お礼を言うことしか出来なかった。
俺たちは帰りに買い物をして、真己の家で鍋をすることにした。二人の食べたいものを好き勝手に選んだら、ただの寄せ鍋になった。
「これ、何日分の食料だよ。絶対今晩だけじゃ食べきれない」
「大丈夫。明日もちゃんと食べに来るから。っていうか、泊まるし」
俺がそう言うと、真己は複雑な顔をした。
真己が俺の両親に、ひどく負い目を感じているのは知っている。それでいながら隣に住んでいるのだから、真己にとっては大きなストレスになっているのではないか、と俺は思っていた。
そのこともあって、俺は大学進学後、実家に戻ることにしたのだ。
それが正解かどうか、俺にはわからない。
実家に夕食は真己のところで食べると連絡を入れると、それならこっちで一緒に食べなさい、と言われて、阻止するのに苦労した。なんとか母親を振り切ったものの、明日は家で真己も一緒に食べる約束をさせられた。
俺がため息をついて電話を切ると、真己が何か言いたそうな顔をしていた。
「というわけで、明日はウチでご飯な」
「……今日も帰ったほうがいい」
真己、と俺が名前を呼びながら情けない顔をすると、ひどく困った目をされた。
「俺だけ帰っても意味ないって。どっちかって言うと、真己に来て欲しいんだから、あの母親は」
「そんなことないだろ。冬休みで帰ってきたばっかりなんだし……」
つれないことばかりを言う真己の腰に手を回して、肩に頭を乗せる。それから「二人で鍋するの、嫌なのか。俺、邪魔?」と訊くと、真己は違うよ、と慌てたように言った。
額に額をつけてじっと見つめると、仕方がないと微笑んで、キスしてくれる。真己は甘えられるのが好きなのだ。俺もだから、遠慮なく甘えることにしていた。
しばらくキスを楽しんでから、鍋の用意をした。味付けは真己に任せて、わかる範囲の下ごしらえをする。
真己は想像以上に手際よく料理をする。すっきりとした、整った顔だけ見ると、家事には縁がなさそうだが、父親との二人暮しが長い真己は昔から家事一般は俺よりずっと出来た。
「春日は結構大雑把だよなあ」
適当に切ったために、まだ大きすぎる感のある白菜を摘み上げて、真己が笑う。
「煮たら小さくなるんじゃない?」
小声で訴えてみると、まあいいけどね、と肩を竦められた。
そんな風に作ったものでも、鍋だから、味付けさえしっかりしていれば美味しい。俺たちは最後のうどんまでたっぷりと食べて、しばらく動けないほどだった。
二人で居間に移動して、畳の上に寝転がるようにしてテレビを見ていると、真己がそっと頭を撫でてきた。基本的に、真己は淋しがりやなのだと思う。それなのに、この広い家に一人なのだ。
手首を掴んで、引き寄せる。真己はされるがままに俺を覗き込む形になった。その頭に手を伸ばすと、ゆっくりと顔が近づく。
ゆっくりと、激しくはないが長いキスをした。とても気持ちのいい、幸せなキスだった。
「真己。俺の一番も、真己だから」
唇が離れたところでそう言うと、真己が瞬きを繰り返した。それに微笑みかけて、繰り返す。
「俺にとって一番大切なのは、真己だから」
「なに、突然」
「ん? 言っておきたかっただけ」
再び、手を伸ばす。
この幸福な気持ちが、いつまでも続けばいい。俺は口付けを深めながら、そう、願っていた。
了
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