九重史 第五回

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九重史 第五回
〜春姫と秋姫〜


 さて前回は九重の四神についての話をしたが、今回はそれらと同じく古い歴史を持つ、九重の姫君たちについて話をしたい。現在、九重には東寮の「春姫」、西寮の「秋姫」と呼ばれる生徒がいる。もちろん、正式なポストではないが、ある意味重要な役割を果たしていることは、九重の生徒たちはよく知っていることだろう。
 なぜ「春姫」「秋姫」であるのかは、四神と同じく古典の知識があればすぐにわかる。ただし、こちらは四神のときのような「古典の教師の陰謀」説はなく、きちんとした風流な始まりがある。
 それでは早速、ときには「四神」たちより熱狂的に崇められる「姫」の歴史を紐解くことにしよう。

 旧九重中学校時代の貴重な資料の一つに、和歌の会の季刊誌「弦月」がある。和歌の会とは、今で言う部活動の一つで、短歌や俳句を嗜む風流な先輩方の会だった。最盛期で会員、三十人。当時の生徒数の十パーセントほどになるから、かなりの人数だ。
 その和歌の会では、毎週、歌会を催していた。そこで評判の良かった歌や句が、季刊誌に載ることになる。歌会は毎回題目が決められ、短歌会と俳句会の二部構成で行っていたようだ。当時の「九重月報」にも、毎月歌が載っていた。


 さて、この和歌の会の「弦月」は、季刊誌であることからもわかるように、そのときどきの四季を大きなテーマとしていた。春には春の歌を、夏には夏の歌を掲載するのである。和歌というものがどんなものかわかっていれば、自明のことだろう。
 だが、数十年前であっても我らと同じ十代の多感な青年であった先輩方は、もちろん恋の歌も歌う。そもそも和歌の会が「流行った」のは、恋の歌を贈って想いが成就した会員がいたからだ、と言われている。九重生であれば想像がつくかと思うが、相手は同じ学校の生徒だった。
 少しだけ補足をしておけば、第一回に書いたように、九重は開校以来、居を移していない。今でさえ、我々は街に行くことを「下界に行く」などと言うくらいだから、数十年前、バスがなく、車も簡単には持つことが出来なかった頃、下山がどれほど難しかったかは想像を絶する。つまり、今に増してこの「九重」は隔離された世界であり、自然、生徒たちはかなり近しい関係になった。また、当時は女教師もいなかったから、女性と接することはもとより、見ることさえ難しかったことも書き加えておく。
 さてその生徒は、恋歌を作るときに相手を「佐保姫」(春の姫)に例えていたという。これについては中野大先生に「基礎の基礎」と言われることとなるので、詳しくは書かない。当時から寮は東西方向に分かれており、彼の人が東寮にいたために、そう呼んだのだと思われる。
 この「事件」依頼、和歌の会の面々は佐保姫、竜田姫、筒姫、黒姫を会の中でひっそりと定め、歌を詠むときの助けとした。恋歌を詠むためには相手が必要であり、姫たちは仮想の相手とされたのである。


 始まりは、このようにひどくロマンチックなものであり、和歌の会の中だけという小規模なものであった。姫という名称をつけることもあり、かなり秘匿されていたと言っていい。姫たちは毎年の和歌の会の第一回会合で決められ、その後は決して名が出ることはなかったと言う。といっても、数年続けば会の中から姫が出ることもあり、そのときはここぞとばかりに「姫」の名称が使われたらしい。
 この姫たちが和歌の会の秘密から「公」の存在になった経緯を話すならば、九重の「恥ずべき暗黒の歴史」を語らなければならない。
 事件が起きたのは1937年、盧溝橋事件が起きた冬のことだった。日中戦争という暗雲は世間から隔離された九重にも届いていた。そんな中、息も凍るほど寒い夜、一人の生徒が自ら命を絶った。彼が発見されたのは翌日の朝、雪の降る山すそで、透けるような白い肌に落ちる雪が溶けず、もう冷たいのだと絶望した、と発見者は語った。短剣で胸を一突き、男らしい最後だと当時の九重月報はその発見者の談話とともに書いている。
 この生徒は気性も穏やかで優しく、自殺をするようには見えなかったと周囲は驚いた。遺書はあったが、なぜ命を絶つこととなったのかは述べておらず、納得のいかない友人が調査に乗り出した。
 そしてわかったのが、九重生による「傷害事件」の事実だった。開校当初から「志・誠・真」の校訓は変わっていないが、このときほど、その校訓が色あせて見えたことはなかった。いわゆる上級生による「リンチ」で、ときには性的な暴力にまで及ぶことがあったという。その年の「四神」は名ばかりで力がなく、全体的に学校が荒れていて、喧嘩などは頻繁だった。力による支配もあったようで、ヒエラルキーは人にいつでも鬱憤を溜まらせる。大人しく優しい、見た目に弱そうな生徒は狙われやすかった。
 その生徒がどこまでの暴力を振るわれていたかはわからない。誰も記録に残していない。だが、それがきっかけで、姫たちは「公」のものとなった。狙われやすい華奢で大人しい生徒たちを姫とし、生徒一丸となって守るようにする。そうすることで「生徒たちの騎士道精神を育み、それとともに理不尽な振る舞いをなくす」ようにしたい、と九重月報特別号は記す。これが現在まで受け継がれている、九重の姫の伝統となる。


 当初は数人いたと思われる姫たちは、やがて「春姫」と「秋姫」だけとなり、姫のあり方も変わっていった。現在、姫選びの基準は「華奢で儚く大人しい生徒」から「凛とした気品のある、尊敬すべき生徒」と変化している。これは、公となった当初の目的は変わらずとも、姫という存在そのものが九重生の支えとなり、「守るべきもの」というだけの存在ではなくなったからだろう。また、現在は「遊び」要素のほうが強くなっているが、それも平和な証拠だと思う。1937年当時のような、切実な姫擁立は二度としなくても良いよう、一生徒ながら願っている。


 今回の原稿を書くにあたっては、和歌の会最後の会員であり、我らの大先輩である、第三十一期卒業生の飯山賢蔵氏にご協力を頂いた。深く感謝申し上げたい。氏は、是非とも和歌の会を復活させて欲しいと願っておられた。
 風流を解せぬとは、情けないとお叱りである。


 第五回 おわり。(歴史研究会 三年 松丸 恭司)