九重史 第四回

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九重史 第四回
〜九重の四神〜


 九重史第四回は、要望の多かった九重の四神について語りたいと思う。
 「九重の四神」とは、生徒会長、総総代、運動部長、文化部長のそれぞれの別名である、表の朱雀、裏の玄武、白虎、青龍のことである。これらの名の出典については、古典の教科書または資料集をご覧頂こう。  
 それらの本を見ればわかるが、これら四神は各方位を司る。朱雀は南を、玄武は北を、白虎は西を、そして青龍は東を表す。それを知っていれば、朱雀が生徒会長の、玄武が総総代の別名となったわけはわかるだろう。生徒会長は代々南寮に入っており、寮長ではなかったが代表者とみなされていた。そして総総代は、生徒会長の「裏」、「反対」と言われていたため、南の生徒会長に対して、北に置かれたのだろう。ただし、初期の九重においては、総総代という職は現在と異なり実際に公的に存在していた。それが戦後廃止されたにも関わらず、すぐに生徒たちが自主的に総総代を擁立、現在まで非公式な立場ながら力を発揮してきた。
 ではなぜ、運動部統括が西の白虎、文化部統括が東の青龍となったのだろう。  
 それを知るためには、九重執行部の歴史を紐解く必要がある。初代執行部は九重開校と共に設置された組織であったが、当時、執行部には生徒会長、副会長、書記、会計、そして総総代の五人がいただけだった。そして三年後、一年生から三年生が全て揃った年に、東西寮長が執行部に加わった。運動部、文化部の両統括が加わったのは更にその三十年後、戦後のことになる。それまでは、統括職は存在していなかった。そのため初期の四神は、生徒会長、総総代に加えて、東西寮の寮長たちであった。今までの連載の中で書いてきたが、開校以来、戦後十数年経つまで、東西寮の寮長は西は運動部系、東は文化部系のリーダー的な人物が担ってきた。当時はクラス分けによって寮が決まっていたわけではなく、どちらかと言えば生徒自身が選べたようである。自然、運動部の者は西寮を、文化部は東寮を選ぶことが多かった。やがて二つの寮は部の成果や学校行事などの成績を競うようになり、現在まで続く東西対決が生まれたと言われている。この対決が行われることによって、寮長たちは次第に、あくまで学校全体の指揮をとる執行部から独立した存在になっていった。そして統括職が生まれた頃、この歴史を踏まえて、運動部統括が「西の白虎」に、文化部統括が「東の青龍」になったと思われる。

 さて、これで一つの謎が解けたわけだが、もう一つ、九重の四神には大きな謎がある。この四神とは、通称であり、もちろん公的な名称ではない。ではいつ、どのように、誰によって名づけられたのか。
 実は、「九重の四神」の起源はわかっていない。こういった生徒間の通称などの歴史を調べるには九重月報、裏九重報、そして先輩方への聞き取り調査しかないのだが、今回、どこにも有用な情報はなかった。
 「四神」の名が初めて記されたのは、1959年、4月の裏九重報である。しかし、そこでは既に周知の名称として使われている。月報に現れるのは更に後、1980年になってからのことである。これは、「四神」と言う名称が公的ではなかったことに由来する。現在でも、月報においては原則四神の名称は使わず、正式な名称で書かれていることが多い。
 現在確認されている最も古い裏九重報は1956年のものであり、59年4月まで5号が確認されている。裏報は発行年月日以外、通し番号などもついていないため、59年4月のものが5号であるかはわからない。もちろん、56年のものが最初のものであるかも、わからない。こういった事情もあり、「九重の四神」の起源調査は困難だった。
 ここにもう一つ、「古典教師陰謀説」がある。古典・漢文の基礎である四神を生徒たちに刷り込もうと、教師がこの名称を与えた、という説である。我校の先生方のこう言った策略、いや熱意は、先月の九重月報でも証明された。(詳しくは、九重月報二月号、「これが九重七不思議の正体だ!」参照)現在、この説は最も支持を集め、生徒の中にはこれが「九重の四神」の発祥だと信じているものもある。
 確かに、陰謀説は魅力的ではある。古典の先生方がいかに生徒に古典を親しませようかと心砕いていることは、我々もよく知っている。その熱意は九重の国語教師たちの伝統でもあると言われているから、その昔、このような楽しい陰謀を企てた先生がいたとしてもおかしくはない。しかし、それを裏付ける証拠が全くないため、我々歴史研究会会員たちは懐疑的である。それよりも、「姫制度」があったために、執行部の役員達にも何か渾名をつけた、と考えるほうが自然だろう。(春秋姫については、次回話す予定)
   ともかくも、脈々と続いてきたこの名は、彼ら「四神」たちに、役名以上のもの――生徒たちの期待や風格といったもの――を与えてきたに違いない。そして我々はこれからも、四神を畏れ、四神に憧れていくのだろう。

 第四回 おわり。(歴史研究会 二年 松丸 恭司)

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