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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た 第二話

06
 樹の予想に反して、和高は一週間後に樹の部屋を訪れた。ドアの外に和高がいることにひどく驚いた樹は同時に、とても嬉しかった。
「お許しが出たのか?」
 皮肉を込めて、意地悪な顔をすると、和高が俯いて否定した。
「でも、サボテンの元気がなくて」
 しゅんとした和高が可愛らしくて、樹は思わずその髪をくしゃりと撫でた。本当は抱きつきたいほど嬉しい。
「ああ良かった。このまま高居の言うこと聞いて会いに来なかったら、殴りに行こうかと思ってたんだ」
 半分本気で、半分冗談のセリフを笑いながら言うと、和高が呆気に取られたのがわかった。
「おまえの走りのためだってわかってても、腹立つだろ?高居に言われたからって俺に会いに来ないなんてなあ」
 樹はさっとサボテンを取り上げて、中に入っていく。
「高居先輩、なんて?」
「おまえの走りの邪魔になるからしばらく会うなって」
「そんなこと!」
「高居の口の下手さはわかってるから言葉は別にいいんだ。気に食わなかったのは、和高だよ」
 樹は機嫌よく笑っていた顔を引き締めて、目を眇めた。
「高居の言うこと馬鹿真面目に聞いて会いに来ないし。だからって少しもタイムは上がってない見たいだし」
「そんなこと言われても……」
 ああ、これは切羽詰っている。
 樹はそう思って、少し心配そうに顔を曇らせた。でも、自分ではどうすることも出来ないのだ。
 高居の言う、和高に足りないもの、がわかっていても、それを言葉で伝えてしまっては意味がない。和高自身が、その足りないものを自分自身で掴まないと。
「和高はさ、走ってるときって何見てるんだ?」
 樹はふと前から考えていたことを聞いてみた。ただ真っ直ぐに走るスプリンターたちは、一体その先に何を見ているのだろう、とずっと思っていた。和高は、少し考えて、「ゴールですかね」と平凡な答えを言った。
 でもそれなら、と樹は思った。
「だろう?そのゴールに、だ。俺がいるって言うのに、どうしてタイムが上がらないんだよ」
 言いながら、樹は、恥ずかしいことを言ってるよ、と思った。思ったら、駄目だった。血が昇ってくるのがわかる。その恥ずかしさを隠そうと、睨んでみたがあまり効果はないようだった。
 和高が驚いたように顔を上げた。それから、はっと息を呑む。
「先輩……」
「サボテンは水のやりすぎ。ここに入院な。おまえはさっさと自己記録を更新しろ。あの高居なんかに口出させるなよ」
 照れ臭くて照れ臭くて、樹はいつもよりずっと早口で捲くし立てるように言った。じっと注がれた和高の視線が痛かった。
「85、切ったら褒美をやる。俺は結構気が短いんだから、待たせるなよ」
 和高は、呆然とした顔のまま樹を見つめつづけている。その恥ずかしさに、樹は無理やり和高を部屋から押し出した。
 一体、何をやってるのか。
 自分のあまりにもの言動に、閉まったドアを見ながら、樹は深いため息をついていた。


 どこかで聞きなれたような声に呼び止められたのは、翌日の放課後のことだった。最近樹は、少しだけ遅めに校舎を出て、こっそりとトラックを見るのを日課にしている。
「西嶋……だっけ?」
 いつも和高の隣にいる、同級生だった。哲平はにっこりと笑って、「深山先輩に名前を覚えられているのは光栄です」と言った。
 樹はそれには答えずに、話を促した。
「カズ……坂城のことなんですけど」
 そう言えば、哲平達が「カズ」と親しげに呼ぶのが密かに羨ましくて、自分も和高と呼び捨てることにしたんだっけ、と樹はそのときのことを思い出した。
「なに?」
「失礼を承知で聞きます。これでも、俺も坂城の親友だと自惚れてるんで。先輩、本気なんですよね?」
 何を突然、と樹は一瞬目を眇めて、でもすぐにもちろん、と笑った。
「本人は全然気にしてくれてないけどね」
 少し、樹の目が揺れる。哲平はそれから視線を逸らして、そんなことはないと思うんですけど、と小さく呟いた。
「それを確かめに来たの?」
「あ、いえ。ちょっと、何があったのかなあ、と思って」
 それに、樹は首を傾げて知らない振りをした。
「何でもない、ってあいつも言うんですけど。落ち込んでると俺は思ってるんです。最近は先輩がらみでしかあいつも表情崩さないから」
 そう言うと、哲平はようやく樹を真っ直ぐ見た。
「心配なんです。あいつ、ちょっと冷めてるっていうか、事なかれ主義って言うか、そういうところ合って。もともとの性格ならそれはそれでいいのかもしれないけど、どうも自分を押さえ込んでそうしてるように見えるんですよね。変に臆病と言うか」
 確かに和高の親友を自惚れているだけある、と樹は思った。樹も薄々感じていたことを、しっかり言葉で表わしている。
「西嶋はどうしてか知らないのか?」
「俺も高校に入ってからの知り合いなんで。一年のときから、あんな感じでしたよ。あいつの実家、九州だから中学の同級もいないでしょう?」
 そう言えば、随分遠いところから来ていたな、と樹は宮古から取り引きのように貰った情報を思い出した。
「まあでも、それが先輩と知り合ってから表情も少し出るようになった気がしてたんです」
 哲平は、本当に和高のことが心配なんだろう。そう言えば、和高をいつも騒ぎに引っ張り出すのもこの同級生だ。
「本当にね、何もないんだ。ただあいつの走りのために、ちょっと会わないことにしてるだけで」
 大丈夫、と樹はにっこり笑った。
「三年になってから、ここで誰かを、それも下級生を手に入れようとするなんて、どれだけ馬鹿だか知ってる?」
 それから、そんなことを言った。それに哲平が驚きつつ、すぐに「ああ」と頷いた。
 ここで恋愛をするなら、一、二年生のうちに。
 それを哲平も知っていた。
「俺もね、馬鹿だなって思った。でもね、仕方なかったんだ。どうしても、欲しいと思ったから」
 樹がそう言うと、哲平が目を見開いてから、苦笑した。
「まあ、それだけの価値はある男だと、俺も思いますよ」
 生意気な物言いの後輩に、樹が目を眇める。
「睨まないで下さい。別にそう言う意味で俺はカズが好きなわけじゃないんです。親友の座は、誰にも渡す気はないですけど」
 世話を焼いているような哲平もまた、あの和高の優しさに救われている人間なのかも知れない、と樹は思った。


 和高は結局、競技会まで記録更新は敵わず、樹はそっとその姿をトラックに眺めながら、自分はひたすらその視界から逃げた。
 「高居になど口を出させるな」と言ったのはほとんど本心だった。それに、ときどき探すような様子を見せる和高に、樹は思わず笑みを零したりもした。ただ、ときどき哲平が苦笑して、ずいぶん酷い状態だと言っていて、心配でもあった。
 競技会当日は、絶対に見に行こう、と思ったのはその心配もあったからだ。実は何度か和高の走りを見に行ったこともあった。
「先輩」
 ふっと自分の方を和高が見たかと思うと走り寄って来て、樹も手すりから身を乗り出した。
「褒美用意して待ってるから、切れよな」
 にっこりと笑って言うと、和高も少し笑って頷いた。それから、
「リクエスト権、ないですか?」
 と言った。樹は少し驚いて、でもそれからすぐににやりと笑った。
「優勝したら考えてやるよ。なんだよ、リクエスト」
「それは後のお楽しみです」
 可愛くないことを言うものだ、と樹は思いながら、この様子ならば大丈夫だろう、と確信めいた気持ちを持った。
 実際、和高は迷いを振り切ったような、とても気持ちのいい走りをした。
 走る姿は、本当の和高を良く見せている、と樹は思う。普段の表情には感情を乗せないくせに、走る姿はとても素直だ。力強く、真っ直ぐで。
 危なげない走りで、和高は見事に優勝した。樹は自分は応援していただけなのに、いやにほっとして、思わず微笑を零した。
 駆け寄ってくる和高が見えた。樹はまた手すりから身を乗り出す。
「おめでとう」
 そう言うと、和高は滅多にない笑顔を返してくれた。
 期待したくなる、とそれを見て樹は内心苦笑する。今すぐにでも、抱きついてもいいような気になってくる。
「リクエスト、聞いてくれるんですよね?」
「約束だからな。寮で待ってるよ」
 樹がそう言うと、和高は頷いて、また仲間の輪の中に戻っていった。
 樹はそれを見ながら、帰ろうと立ち上がった。その耳に、ふいに「坂城は……」という声が聞こえて、樹は後ろをそっと振り返った。スーツ姿の男達が二人ほど、和高を話題にして話をしていた。一人は若く、大学生のようだった。
「高居の秘蔵っ子ってだけあるな」
「ええ。高居が走らなくなったのはとても惜しいですが、彼もいい走りをしますね」
 まだ二年だから、楽しみだ、と真剣な顔で話している。樹は動けずに、二人の会話を聞いていた。
「監督、挨拶しに行きますか?」
「ああ、石神監督には少し話を聞いてみよう。高居のことも聞きたいし、他に取られないうちに坂城のことも押さえておきたい」
 話の様子から、どこかの大学の陸上部だろうと樹は思った。そして急に、既に覚悟したはずの気持ちが、揺れた。
 樹は九重大にそのまま上がるつもりだが、和高はどこか違う大学に行くかもしれない。そしてそれを、止めるべきではないのだ。
 それに、それならば、和高を今、自分に縛るべきではないのだ。
 一度手に入れたら、きっと自分は和高を手離せないだろう。それは確信に近く、そして、それはきっと和高の将来を潰すことにもなりかねないことであるとも、わかっていた。
 樹はもう一度、走り去った和高の後姿を探すように広い競技場に目を移した。ちょうど高飛びの選手が、ふわりとバーを飛び越えたのが目に入る。でも、そこに和高たちの姿は見つけられなかった。
 樹はしばらくぼんやりと、動き回る選手達を、ただ見ていた。



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