home モドル * 02
Creepinng-devil cactus
01
九重には冷房は完備されていない。山中の学校は、生徒達が下界と呼ぶ街よりも、僅かながら気温が低いからだ。夏は暑いものだ、とは歴代理事長の言葉で、季節感を大切にする姿勢は受け継がれつづけている。確かに、開けた窓から風が入ってくれば、クーラーなどいらないとは思う。
それにしても、外にいたらやっぱり暑い。
和高は滴り落ちる汗を拭きながら、寮の部屋に戻ってシャワーを浴びた。昼間の気温が最も高くなる前に練習をするのはどこの運動部も同じで、その頃、樹も植物の世話をしているはずだった。
樹の朝は早い。日の出と共に起きて、畑に行って水を撒いたり草取りをし、出来た野菜を収穫する。とても高校生の夏休みとは思えない毎日を過ごす樹はでも、とても楽しそうだった。
だからこそ、早起きはそれほど得意ではない和高も、一緒になって起き出してはその手伝いをする。今はほとんど樹の部屋に泊まっている状態だから、早起きの樹に合わせて早く眠ると言うこともあった。
あの生き生きとした樹を見るのは和高の楽しみの一つだ。ときどき植物に嫉妬したくなるくらいやさしい顔をしているときもあって、それを見るのも好きだった。
部屋でシャワーを浴びた後は、樹の部屋に行く。昼食を一緒に食べる約束をしているからで、そこには時々他の先輩たちも混ざったりするが、基本的には二人きりだった。朝が早いから、昼食も少し早めに食べないとお腹が空いて仕方がない。取ったばかりの野菜で作られる料理はどれも美味しい。陸上をしている関係で、食事にも気を使うのだが、そこは高校生。去年は疲れ果てていい加減な食事を取ることも多かった。
「入っておいで。手が離せないんだ」
ノックをするとそう答えが返ってきて、和高はそのままがちゃりとノブを捻って部屋に入った。その後、きちんと鍵をかけるのは、樹が寮長なんかをしているからだ。本人はいい加減だと言っているが、悩み事から相談事、泣きついてくる寮生は後をたたない。鍵をかけるのは、東寮生ではない和高の、二人なのだというささやかな意思表示だった。もちろん、やはり唐突に入ってこられては困る時だってある。
「いい匂い」
朝もきっちり食べる樹と一緒に起きるから、和高もしっかりと朝食を取る。それでもいつもよりずっと早起きをしている所為で、昼食は正午を待っていられないことが多かった。
「今日は何ですか?」
料理をするのは専ら樹で、和高は片付けを担当していた。和高の練習が終わってから作るのでは遅くなるからだが、レパートリーの広さからも樹のほうが料理には向いている。
手元を覗き込む和高からは、浴びたてのシャワーの匂いがして、樹は思わずうっとりと微笑んだ。
「サラダうどん。サラダ菜のまだ小さい葉っぱ、取っただろう?」
「あ、あの柔らかそうな奴ですね。いい匂いと思ったのはつゆの匂い?ちゃんとだし取ってるんだ……先輩、まめですよね」
和高が心底感心したように言うと、樹は「暇だからね」と苦笑した。和高が手伝ってくれているおかげで、今までより午前中の時間が長い。その上一緒に食べてくれる人間がいるとなると、料理も楽しい。
茹であがったうどんを水で洗って、樹はそれを皿に盛った。三人前を茹でて、和高は少し多めにする。それに毎回、和高は律儀にお礼を言う。無邪気に、嬉しそうに。
「先輩、飲み物は?麦茶?お茶?」
麦茶、と答えて、樹はうどんにサラダ菜やスライス玉葱やキュウリやワカメ、ツナをのせていった。最後にゆで卵をのせて、めんつゆをたっぷりかける。ふわりと香ったかつおだしに、樹は小さく苦笑した。一人だったら、こんな面倒なことはしない。顆粒のだしで済ませてしまう。おかしなものだな、と思った。
和高は気付いてくれたけれど、本当は気付かれなくても構わなかった。ただ、美味しいと思ってくれれば、それだけで良かった。ささやかながら、そう言う見返りを考えない愛情を、自分が持つことが不思議だった。
あ、うまい。つるりとうどんを食べ、サラダ菜を食べて、和高は満面の笑みを浮かべた。すごく柔らかくてちょっと感動、とにこにこしている。
若取りのサラダ菜は、確かに柔らかく美味しい。でも、本当に早いうちにとってしまうので、贅沢なものとも言えた。それを、食べて欲しくて。
凝ったものでも何でもなく、でも、二人でこんな風に季節を味わいながら過ごしていけたら、幸せだと樹は思う。
来年は自分は下山していて、どうなるかなんてわからないけれど。
それでも、ずっと。
夕方の練習を終えて、夕食は寮に残っている他の三年生や二年生も混ぜて一緒にした。当番制とまではいかないが、なんとなく順番に友人達で食事を作る。特に料理研究会の岡崎は食費さえ払えばいつでも食事を作ってくれた。三年の先輩の誰かが食事を作ると、そのお返しのように二年が作るときは、大概岡崎が作る。どうせなら美味しいものが食べたいから、みんなそれについては歓迎だ。
「あ、そう言えば、カズ、メール見た?」
「メール?」
「哲平からの」
同室の鼎に言われて、和高は首を振った。携帯は樹の部屋に置いてきてしまった。今日は岡崎の部屋で食事をしているのだ。樹がちらりとこちらを見た気がしたが、すぐに隣の宮古と話し始めた。
「遊ぼうってさ。今度暇なのいつ?」
「土曜は朝錬だけだけど。なに?遊ぶって」
「知らん。付き合うべし、ってしか書いてなかったからな。どうせ哲平も暇してるんだろ」
それか、なんか逃げ出したい用事でもあるとか、と鼎がいししと笑った。それから、どう?と伺うようにちらりと樹を見た。
「たまには下界に降りてくれば?俺も買い物行くし」
「でも、それなら一緒に行きますよ?」
「大丈夫。どうせ重藤も遊び相手がいないって愚痴ってたから」
樹がそう笑って、和高たちは首を傾げた。
「海田先輩は?」
「大学にもう顔出してるんだよ」
「で、姫さまは一人で大学に行くのは禁止されてんだよな」
隣の宮古が食後のコーヒーを飲みながら苦笑した。
「そう、だから一緒に行こうって言われてたんだよ」
海田もいい加減心配性だよな、と樹は半ば呆れた口調で言ったが、宮古は「まあなあ」と曖昧に返事をした。
「……宮古先輩、その返事はなんですか」
「おや、カズくん、心配?って言うか、なんでこういうときは素早いつっこみなわけ?」
「海田統括は確かに心配性ですけど、そこまで拘束するような人じゃないんじゃないかと」
和高はそう言って片眉を上げて見せた。
「まあね。一人で来るなっているのは、大学部の先輩たちに言われてるからだよ。春姫を連れて来いって。大学ともなると外部からの人間も多いし、中には性質の悪いのがいるから」
「性質が悪い……」
「ここで慣れてる学生はいい。でも、姫だとか、男同士とか、突然九重の伝統なんだって言われてみろ、変な好奇心を持つ奴らだっている」
「海田、ばらしたのか?」
樹が驚いたように顔をあげた。
「いや、それはないと思う。あいつもそこまで馬鹿じゃないだろう」
だよな、と樹が頷いて、和高はふと海田の心配を理解した。言えないなら、それはそれで心配だ。ここで千速を守ってきたようには、守れないのだから。
同じことは、自分たちにも起こり得る。来年には、それこそ離れてしまうのだ。
今だって、和高は守れているとは思っていないけれど。
目が届かないと言うのは、なかなか不安なことだとふいに気付いて、和高は呆然とした。
「心配すんなよ」
あまりに情けない顔をしていたのか、樹が微笑んで和高の鼻をきゅっと摘んだ。
こんなことだって、平気でしているけど。
樹が、何に対して心配するなと言ったのか、和高はわからなかった。
未来のことなのか、休み中に大学に行くことなのか。
どちらにしろ、和高には、関係がなかった。
自分はいつだって、誰も守れた試しがない。
今だって、樹はいつだって支えてくれているのに。
結局、土曜日には樹と和高は一緒に出かけて、昼食を食べて途中で別れた。夕飯はお互いの友人と食べることになっている。
二人で街に出るのは初めてのことではなかったが、和高は先日の話を引き摺っていて、ただの先輩と後輩なのだと意識して演技をしていた。
あの籠から出るというのは、そういうことなのだ。自分はまだ一年以上あると思っていたから、実感が湧かなかった。でも、樹はもうすぐあそこを卒業する。
重藤との関係をばらしていない海田のことを、そこまで馬鹿じゃないと言った宮古も、それに頷いた樹も、きっとそんなことは良くわかっていたに違いない。あの籠から出ることの意味を。
「大丈夫だよ。和高には後一年あるだろ?その間に、色々覚悟とか決めてもらえばいいんだから」
樹はパスタを食べながらそう笑った。それは、樹はもう覚悟をしているということだ。
「……覚悟、したと思っていたんですけどね」
「うん。でも、色々折り合いつけなきゃならないこともあるから。そう言うことも含めてなんだよ」
折り合い、と樹は自嘲気味に言った。
どれだけこの気持ちに嘘がなく、そして和高を見つけた自分を誇りに思っていても。
それを他の人間全てに理解してもらうと言うことは無理なのだ。相手が、男ということで。
ただ真っ直ぐなままで、若さを楯に突き進むことが出来るのは、あの山の中の学校の中だけの話だと、籠から出るときは知らなければいけない。
その真っ直ぐさを失わないにしても、捨てるにしても、覚悟は必要だ。
「なんか、そうすると、一年間は樹先輩だけにみんな預けることになる気がする」
和高の言葉に、樹は目を見開いた。そんな風に考えるとは思わなかったのだ。
「そんなこと、ないだろ」
「そうですか?……うーん。まあ、急には無理だと思うんで、徐々に先輩に追いつくように頑張ります」
和高が笑って、ようやく樹もほっとした。
何を心配したのだろう、と樹は思う。
和高がこんなことで自分と離れるはずがないのだ。
あそこを卒業した後、同じ大学に通ってさえなお、別れるカップルは多いと聞く。あの閉鎖空間の、妙に居心地がいいのが返って問題なのだ。だから、あそこは特別なのだと肝に銘じておかないと、外に出たときに負けてしまう。世間とか、常識とか、色々なものに。
でも、和高はきっと平気だ。
そう言うものには、きっと負けない。
それが自分の希望なのだとしても、樹はそれを信じていた。
信じていなかったら、離れられるはずがない。
たぶん、一番不安なのは自分なのだから。
樹と別れて、哲平と鼎との待ち合わせ場所の駅前に急いでいた和高は、土曜日で混んでいる道を足早に歩いていた。九重の寮生活が長くなると、こうした人ごみを掻き分けて進むことも上手く出来なくなってしまう。
「わっ」
ふいに何かがぶつかって、和高は思わず声を上げた。下を見るとまだおぼつかない足取りの女の子がいて、ぶつかった勢いで倒れそうになっていた。よろけて他の人にぶつかりそうなその女の子の手を、和高は慌てて掴んだ。
「大丈夫?」
にっこり笑って見せると、女の子もにっこりと笑う。それから、親でも捜しているのか、きゃろきゃろと周りを見た。つられて、和高も顔を上げた。
「莉奈!ああ、ごめ……」
駆け寄った女の言葉は、最後まで音にならなかった。和高も、笑っていた顔を強張らせて、二人はしばらく黙って互いを見ていた。
変わっていない、というのが和高の最初の感想だった。一息に時を遡ってしまったのかと思ったほど、変わっていない。
「和高くん……?」
久しぶりに聞いたその声さえ、記憶の中のものと変わらなかった。
home モドル * 02