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見つめるさき

 その窓からは、いつも空が見えている。高層マンションというわけではないのだが、目の前の道はわりと広く、その先には一軒家が並んでいるからだ。
 冬の真昼、暖かな日の光に誘われてそこに坐って煙草を吸っている穂積の隣に、周がごろりと横になった。部屋の真ん中には本皮の立派なソファーがあるというのに、好んでここに坐る周につられて、穂積まで床に坐るようになってしまった。それで、羽が入っているかのような柔らかいクッションを買った。
 ゆっくりと煙草を吸いながら、穂積は外を眺めていた。周は手にしていた雑誌を広げて、うつ伏せにその雑誌をぱらぱらと捲った。外国の雑誌は、見ているだけで楽しい。穂積の家には色々な国の色々な雑誌が―――美術関連だけではなく、ファッション誌も―――あって、暇つぶしには事欠かない。
「あ、eye shotが載ってる」
 周が指した先に、二人の見慣れたバーの写真が載っていた。穂積や指月の悪友と周が呼んでいる、鷲見がプロデュースした空間を贅沢に使ったバーだった。開店記念パーティーはクリスマスに行われて、二人も少しだけ覗きに行った。あのときは人が多すぎてあまり居心地のいいものではなかったが、洗練されたアジアのリゾートという感じのインテリアや構成は、もう一度行って見たいと思わせた。鷲見もまた、友人達に負けないセンスを持っている。
「ああ、そう言えば取材が来てたとか言ってたな。あいつ、日本の雑誌は嫌がるくせに外国ものには応じるんだ」
 それは、そうやって有名になって、客が押し寄せてくるのを鷲見が嫌うからなのだが、穂積は指月に対するのと同様、鷲見にも容赦がない。
 鷲見は、きちんと雑誌の性質を知った上で、取材を受けているはずだ。
 イギリス発行のその雑誌は、デザイン性の高い雑誌で、紹介される店や物も、厳選されたものだ。以前、指月のネイキッドも、穂積たちの展覧会の一つも、紹介されたことがあった。
 全くどうして、この人たちはこんなに遠いのだろう、と周は思う。
 周は目の前の雑誌を隣に置いて、ずるりと身体をずらした。穂積の太腿に頭を乗せると、小さくため息を吐く。
 一体いつ鍛えるのか、穂積は無駄な肉をつけていない。スポーツクラブになど行かなくても、十分肉体労働だからな、と穂積は言うが。
 社長という身でありながら、現場好きの穂積は、なるべく現場に足を運んで、重さんたちを手伝っているらしい。
 なんとなくその太腿の引き締まった肉を押したり撫でたりしていたら、頭上からくすりと笑いが洩れた。それから、穂積が周の髪をゆっくりと撫でた。ふわりと、煙草の香りが漂う。
 背中がぽかぽかして、暖かい。周はうっとりと目を閉じて、そのまま眠ってしまった。

 周がこうして、どこか安心しきった猫のように眠るようになったのは、いつからだろうと穂積はその髪を撫でながら思った。言葉をどれだけ尽くしてみても、気持ちとその言葉の隔たりは埋められない。ときどきもどかしくなるその距離に、きっと人は行動してしまうのだろうけれど。
 手を伸ばしても、周は迷うことなしにそれを掴むことはない。同じように、甘えることもなかった。
 すうっと寝入った周の顔を眺めるように見ていた穂積は、その目と鼻と唇とをそっと指の先で撫でた。思わず惹き付けられる印象的な目が閉じられて、穏やかな顔がある。
 いつでも、本当にもどかしいのは周なのかも知れない。精一杯自分達に追いつこうと背を伸ばして追いかけてくる周を、穂積だけではなく尋由や指月、今では外村まで可愛がっている。でも、本当はそうやって可愛がられたいわけではないのだろう。そうすることを許されているのは、そして、周が甘えるのは、尋由だけだ。くしゃりと人前で髪を掻き揚げたりしても怒られず、躊躇なく手が伸ばされる相手は、尋由だ。
 実の兄に嫉妬するというのもどうかと穂積は自分でも思う。
 周のキーホルダーには、三つの鍵がついている。この部屋の鍵と、実家の鍵と、尋由の家の鍵だ。一度喧嘩したときは、実家ではなく尋由の部屋に何日か泊まっていた。
「いっそ、引っ越してきたらどうかと提案してみたんですけどね」
 あのとき尋由はそんなことを言って、穂積を不機嫌にさせた。
 もう一度この手を掴んだら。
 もう、離せないことはわかっていた。正直、あの最初の頃、いつから周を本気で好きになっていたのかわからなかった。本当に気付いたのは、もしかしたら別れた後だったのかもしれない。だから、あんな大人ぶった態度で周を手離したのだ。
 寝心地が悪いのか、周がもぞっと動いて更に乗りあがってきた。そのうち足が痺れるだろうと思いながらも、穂積はそれを避けることは出来なかった。
 しばらく寝顔を眺めていたら、携帯の音が部屋に響いた。あれは仕事用の携帯だと思って、穂積は少し首を傾げた。今回の休暇は働きすぎだと尋由に無理やり取らされたようなもので、仕事先からの連絡が来ることはないはずだった。
「ん……電話?」
 周がぼんやりと目を覚ます。それからあっさりと穂積の膝から頭をどかして、起き上がった。仕事先からの電話なら、取らなければ周に怒られるのはわかりきっている。実際、周は動かない穂積を不思議そうに見ていた。
 穂積はため息を吐きつつ、テーブルの上の携帯を取った。事務所からの電話で、穂積はますます眉根を寄せた。今日は自分がいない分、尋由が一日事務所にいるはずだった。
「なんだ、どうした」
 不機嫌さを隠さずに電話に出ると、くすりと笑った声がした。それだけで、穂積は相手が尋由だとわかった。
「よりにもよっておまえから掛かってくるとは、思わなかったよ」
『すみません。今、どちらですか?』
 家に決まっている、と言おうと思って、穂積はふと尋由の質問の不自然さに気付いた。たまの休み、それも周も一緒なのだから、きっと家でのんびりしているはずだと尋由がわからないはずがない。それが、口調はまるで出先に電話を掛けている感じだったのだ。
「なんだ?何があった?」
『……ああ、遠いですね。今日はそちらにお泊りですか?』
 明らかに食い違っている会話に、穂積も直感した。尋由は、電話を掛けざる得なかったのだ。
「もちろん、泊まるつもりだが」
 話を合わせてみた穂積に、尋由のひっそりとした笑いが見えた。
『飛田さんが、レイアウトをどうしても社長と相談したいとおっしゃっているんですが……』
 穂積はその言葉にため息をついた。飛田は今請け負っている展覧会の出品者で、穂積を気に入ったのか何かと言うと穂積を引っ張りだそうとするのだ。それを、尋由も良くわかっている。
「レイアウトは俺より重の方がよほどセンスがいい。どうせ最終的には重に任せるんだ。俺が出ても意味ないじゃないか。我侭もほどほどにしろって」
『わかりました。帰宅予定は明後日ですね。そのように伝えますので』
「俺は責任者じゃないって言っておけ」
『お休みのところすみませんでした。そちらは良いところでしょうけれど、あまり無茶はなさらないで下さいね』
 尋由との会話は、最後まで噛み合わないままだったが、その言葉が指す意味は、悔しいながらも通じていた。穂積は眉根を寄せたまま、せいぜい楽しむことにするよ、と言って電話を切った。
 思わずため息をついて振り向くと、寝転がったままの周と目があった。電話の相手が誰だかわかっているのだろう。周はそのまま、仕事?と聞いてきた。
「あのな、周。俺は休暇中なんだ」
「でも、尋由からだろう?」
 だからといって、休暇を返上する理由にはならない。ときどき、一体周は誰の味方なのだろう、と思う。
「尋由からだろうが、休暇は休暇だ。大体、尋由も休暇を返上しろって電話を掛けて来たんじゃない」
 穂積はため息を吐きながら周の隣に坐って、その鼻をつまんだ。すぐ下で眉間に皺がよるのが見えた。
「聞いてなかったか?今日はそちらにお泊りですか、って聞いてくるから、泊まるって答えただろう」
「泊まるって、どこに」
 穂積の手首を掴んで、周はそれをどかした。眉間の皺は寄ったままで、穂積の手首から手を外すと、鼻を軽く擦った。
「そりゃあ、ここに」
 訳がわからない、という顔を周がすると、穂積がふっと笑った。
「作家の我侭だよ。俺にレイアウト見て欲しいとか言って、休暇だって言うのにきかないんだろう。それで仕方なくわざわざ携帯に電話して、遠くに出てることにしたんだ」
 どかされた手は、そのまま周の髪に埋められた。逆さまに見上げている形の周は、よっとひっくり返って、今度は肘をついてうつ伏せになった。顔を上げると、穂積が苦笑していた。
「作家って……昨日の人?」
 近くにいるから食事に行こうと誘われて、昨日は早く終わった周が今度の展覧会の現場に行ったのだ。そこに、まだ若い、大学を出たばかりなのだろう女の子がいた。エキセントリックな雰囲気で、若い芸術家というものを体現しているような女の子だった。
「そう」
 深々とため息を吐いた穂積の顔を、周がじっと見る。食事に行くなら是非一緒に、と昨日散々迫られていたのだ。それを仕事の話だから、と嘘をついて断ったのだが、絡まる腕やにっこりと首を傾げてねだる彼女を周は見ていたのだ。
 穂積の周りには、そう言った人間が絶えないことは、よく知っている。企画会社の社長という立場から、付き合いというのも大切だと周はわかっていた。
 周はふっと目線を落とすと、目の前にあったものをそっと握った。頭上から、戸惑ったような呼び声が聞こえたが無視して、今度は口付けた。
「誘ってるのか」
「別に。可愛がってるだけ」
 そっと、まるで自分が周の頭を撫でたときのように触られて、穂積はぴくりと腹筋が動いたのを感じた。
「……最後まで、可愛がってくれるんだろうな」
 ちちちっと音がして、チャックが下ろされたのがわかった。周は無意識に少しだけ口元を緩めながら、もう一度、今度は薄い布の上からそこに口付けた。
「周、一つ提案なんだが」
「ん?」
 ぱくり、と咥えて、周は目線だけ上に向けた。珍しく、どうしたらいいだろうかと考えている穂積がいた。
 悔しい、と思う。
 どうしてここで、戸惑うのだ。
「ベッドルームに行くというのはどうだろう」
「ここじゃ嫌?」
 周はそっと、壊れものを扱うかのように布の中から先刻から口付けていたものを取り出した。また少し、口元が緩んだ。
「嫌どころか、大歓迎なんだが……。後で辛いのはおまえだろう?」
「なんで?可愛がって欲しいんでしょう?」
 周はそう言いながら、目の前の立ち上がりかけたものに口付けた。穂積は観念して、立ち上がろうとして力を入れていた腕を緩めた。
 しばらく、周は真剣に舐めたり咥えたりして楽しんでいた。こう言うのを楽しいだとか嬉しいだとか思うのは、一体どういった感情なんだろう、と周は自分でも思う。
 たとえ、これが何人もの女や男を喜ばせてきたのだとしても―――そんなことは、どうでもいいとこうしている瞬間だけは思う。
 周がこうして没頭している間、穂積はいつも周の髪や首を触ったり、または同じことをする。でも、集中できない分、互いにするのは周が嫌がるから、どちらかというと一人快楽に堪えることが多かった。
「周……どうせなら」
 穂積がするりと周の顔を撫でて、顎を捕らえた。それをすっとあげると、周の少しだけ不満そうな顔が見えた。濡れて光る唇が、昼の光の中で妖しげだった。口付けようと顔を近づけると、周も腕を首に回してきた。
「ん……」
 口付けながら、穂積の手は休むことなく動く。少しも乱れていなかった周のシャツをたくし上げ、背中を撫でながらズボンの中に時おりその手を忍ばせる。ひくりひくり、とその奥が訴えてくるのが周にはわかった。
 こうして確かめるように抱き合うのは、本当は少しだけ哀しくなる。
 確かめなくても、実感はある。それなのに、どうして、こうして身体で確かめたくなるのだろう。
 言葉だけでも、視線だけでも、温もりだけでも、こうして求め合っても―――まだ、何かを探してしまうときがある。
 それは、きっといつまでも見つからないものなのだと、周にはわかっている。でも、それでも求めずにはいられないのだ。
 息が上がって、思わず背を逸らして周が喘ぐと、穂積は首元に口付けた。探っていた手は今は遠慮なく入り込んでいて、膝でふいに立ち上がった瞬間に、するりとズボンが下ろされた。
「もう、欲しい」
 周が穂積の首にかじりつく格好で耳元で囁くと、穂積がにやりと笑った。そのまま両手を腰に回すと、周は自分で穂積を確かめて、その腰をおろしていった。
 最初は少し辛そうに寄せられる眉が、ゆっくりと繋がっていく間に少しずつ解れていく。そして、全てが入った瞬間に、どこか恍惚とした目をするその周の表情が、穂積は好きだった。
 繋がりあえることを、周も喜んでいるのだと、どこか思うことが出来る。
 可愛がる、と言った通り、周は自分で腰を動かした。そうしている間はでも、抑止が聞くのかあまり声を聞くことが出来ない。それが寂しくてぐるりと腰を動かすと、あっ、と掠れた声が洩れ出た。きゅっと、周の中が締まる。
 二人のセックスは、ときどき競い合いのようになる。どれだけ相手を気持ちよくさせることが出来るか、ほとんど無意識に遣り合っている。
 はぁはぁと荒い息を吐きながら、周が腰を上下に動かした。意識してやっているのか、内の伸縮が穂積を追い立てる。
 最後まで、主導権は任せておこうと思っていた穂積は、我慢が出来なくなって隣にあったクッションを掴んで周の後ろに放り投げると、そこに周を押し倒した。周が抗議の声を上げる前に、激しく突き立てる。
 こういうとき、競い合っているなら自分が負けたことになるのだろう、と穂積は思う。どうしても我慢しきれなくなることは、穂積にしてみれば経験したことのないことだった。
 こうして、周を抱くようになるまで。
 突き立てながら、上体を傾けて鎖骨辺りを吸い上げると、周の腕がその穂積の頭を捕まえた。ぎゅっと、その腕に力を込めると、穂積もぎゅっと抱き返してくれる。何度かキスを交わすうちに、周が耐え切れずに背を逸らした。
 ああ、と全てを放り投げるような声を出して、周は穂積を絞り上げる。その状態で穂積が達すると、周は続けて何度か余韻で達するから、穂積も堪えることはしない。
 ものすごい開放感に、穂積は瞬間真っ白になりながら、そういえば生でしたのはいつ以来だろうとちらりと考えた。なんだか、すっかり忘れていたのだ。
 くたり、と倒れた周は、何度かびくりびくりと身体を震わせた。それから、ゆっくり目を開いて、何かもどかしいとでも言うような目で、穂積をじっと見た。
 でも、このときの周は何も言わない。言うべき言葉を、本人さえ、知らない。
 ときどきある、周のこの暴走のようなものを、穂積は今はただ受け入れるだけにしていた。何があったのかとか、どうしたのかとか、問い掛けることはしない。
 今はただ、こうした二人の時間を、重ねることしかできないとわかったのだ。
 いつまで積み重ねなければいけないのか、そんなことはわからない。そんなことは考えない。ただ、続けていくだけだ。
 いつか尽きてしまうときは―――時間さえも、止まってしまうときなのだろう。
 積み重ねていくことのできる時があるのなら、それは幸せなことなのだと、穂積は思っていた。
 穂積がそっと髪を撫で上げると、周はうっとりと、ようやく安心したかのように、目を閉じた。
 窓からは、傾いた日が柔らかい光を世界に満たしているのが見えた。


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