home モドル * 02
la vision
1
闇のような黒い髪。
切れ長の目。
その中で、妖しく光る瞳。
細い、長い指
赤い唇。
赤い―――
バー「ステラ・マリス」は、適度に騒がしい、周(しゅう)には居心地の良いところだった。クラブより、少し大人の雰囲気がある。
ときどき、一人で飲みたくなると、ふらりとやってくる。
一人でも、浮かない。加えてバーテンが兄の友人で、話し相手にもなってくれる。
カウンターの隅は指定席のようなもので、周は今日もそこでぼんやりとカクテルを飲んでいた。
「どうしたんだ」
「ん?」
「ひろ、心配してる」
周が一人で飲みに来るときは、周の話を聞くか、バーテンに徹するかどちらかだった一真(かずま)は、決して兄の名を言ったことはないのに、そう言って周をじっと見つめた。
兄よりも、血の繋がっていない分、甘えることを許される、許してしまう一真にも、周は何も言わない。どのみち兄に繋がって行くことが分かっているからだ。
小さな、ため息が聞こえる。
何もないと言っても、騙されてくれる相手ではない。だから、何も言わないのが一番だ。
「今、どこにいる?」
「友達のとこ」
周が詮索されるのを嫌っているのを知っているから、きっぱりとそう言った周に、一真はそれ以上何も言わなかった。
グラスを磨く音がしている。心配されているのをわかっても、周はどうにも答えられなかった。
「兄貴が向こうに行くの、そんなに嫌か」
「べつに…」
嫌なのは、そんなことではない。多分一真も分かって、遠まわしな言い方をしている。
ただの、子供の我侭だとわかっている。それが、よけいに自分をイライラさせるのだ。
「ねぇ、酒…」
「だめだ」
「ちょっとぐらい、いいだろ?」
周の前に置いてあるのは、限りなくスクリュードライバーに似た、オレンジジュースのカクテルだった。グラスはもちろんのこと、ご丁寧にオレンジの皮からミントが添えてあるところまでそっくりだった。違うのは、ノンアルコールだと言うことだけ。周はまだ、未成年だった。
「俺がひろに怒られる」
一真が兄の尋由(ひろよし)に弱いのは知っている。気持ちも、わかる。周自身、兄には弱い。
外見は繊細といった感じなのに、それを裏切る強さがある。力と言う面でも、精神と言う面でも。スマートな身のこなしをするのに、気の許しあった仲間には、とことん頼ったりだらしないところを見せたりする。その最たる相手が周であり、それを周自身も誇りのように思っていた。
その兄が、半年間の海外旅行に行くと言う。アメリカからヨーロッパを巡って、今の美術市場を見てきたい。流れを見てきたいといって。
それは、前から言っていたことでもあるし、納得していた。一年ぐらい前から準備をしていたのも知っている。そのために今、仕事を必死で片付けているのも。
仕方がない。
わかっている。でも、これが半年、いや、三ヶ月前だったら、心から前途を祝して旅立ちを見守っただろう。
周は目の前のオレンジジュースを、自棄になったように飲み干して、グラスを乱暴にカウンターに置いた。
「ギムレット」
飲めないのに、知っている辛いカクテルの名を言ってみる。一真が、ため息をついた。それからジンジャーエールを手にするのを見て、周は舌打ちする。やはり、ノンアルコールを徹底するらしい。
「へぇ、ここではギムレットにジンジャーエールを入れるの?」
低い、バリトンの声。眠りに誘われそうに、心地いい。
「穂積さん…いえ。これは特別なレシピで…」
ふてくされたようにカウンターに突っ伏していた周は、顔だけずらして、穂積と呼ばれた相手を見た。腕に、女がしがみつくようにしている。店の奥から、穂積を呼ぶ声もする。それも頷ける、男前の顔だった。
整った顔、高い背。ほどよく鍛えられた、スーツの上からもそうと知れるしなやかな体。
そのスーツも、仕立ての良いのが覗える。
この場に、似合いすぎる。
周とは、明らかに違う、大人の男。
ふっと笑われて、周は思わずかっとした。
子供のくるところじゃないと、笑われたようで。
「ノンアルコール?」
追い討ちをかけるように、低い声が響く。
わかっている。こんなところに来て、ノンアルコールなんて不思議なんだろう。
「悪いね、おじさん。まだまだ若いもんで」
いかにも子供らしいせりふを言って、周は立ち上がってドアに向かった。
「周っ、ひろに連絡ぐらい入れろよ」
一真の、店に響かないように押さえた声がした。でもそれを、店内の騒がしさの所為にして、周は聞こえない振りをした。
転々として、もう一週間か…。
周は、濃紺の空を見上げた。周りに電灯がない所為で、星が瞬いているのが見える。
家に帰るのが嫌で、友達の家に転がり込んだのが始まりだった。それからずるずると、帰れないでいる。一人暮しをしている兄のところへ行けば、きっと泊めてくれるだろう。でも、とにかく今は、話をするのが嫌だった。自分の気持ちの整理がつかないうちに周りにとやかく言われるのが、周は嫌いだった。
気持ちの整理など、つくのだろうか。
春の濃い空気が、温かい。それでも周は、身震いをした。
ぎゅっと自分の腕を掴むと、幼い頃に父親が良くそうやって掴んでいたのを思い出す。
ちょこちょことしてかなわないと、周の腕を良く掴んでいた。温かい、大きな手。決して痛くないように掴まれた、あの力。
父親が亡くなって、二年が過ぎようとしていた。
今の母親、咲子は、その父親が、周が小学校三年、兄が高校に上がった頃に連れてきた後妻だった。
周と兄の尋由の生みの親は、周を生んですぐに亡くなった。それから父親は、男手一つで二人を育てて、悩んだ末に、咲子と再婚をした。
あっけない。
人の死とは、あっけないものだと思う。やっと夢に見たような、一家団欒の幸せな家庭が築けたのに、父親は事故で亡くなった。
それから二年、咲子は再婚すると言う。
それが、つい三ヶ月前に決まった。
父親と結婚したのが初婚で、子供も生まれなかった。事故と言う怒りのぶつけ所のない形で、最愛の人を亡くした。
だから、わかる。
大きくなってからの、血の繋がらない子供では、淋しさを埋められないのも。
咲子は良い母親だった。二人を、本当の子供の様に、かわいがって、叱ってくれた。
だから、周は困る。
嫌いじゃないから、心から祝福できない自分が、嫌でたまらない。
でも、兄のいないあの家では、全員が他人なのだ。
兄が長い旅行に出たら、もう、逃げ場がないのだ。
どう考えても滑稽だった。新婚家庭に、血の繋がらない高校生の息子。
家を出て行くと言ったら、咲子は結婚をやめると言い出した。もともと、咲子は結婚をする気はなかったのだ。せめて後一年、周が高校を卒業するまで。でも、相手がいることを知った尋由が、話を進めたのだ。
そのときは分かっていた。それがどれだけ良いことか、分かっていた。
時間が欲しい。
静かに考える、時間が。
でも、そうやって周が留まっていれば、咲子も、相手の篠崎も、留まってしまう。
その優しさが、苦しい。
それに、高三になったら思ったより忙しい。
篠崎からお金が出るのが嫌で、バイトも始めた。
何もかも、放っておけば流されるように出来ていて、それが周の神経を逆なでする。なんとか逆らおうと、もがきたくなる。
きちんと、見つめたい。すべてのことを、ちゃんと見たいのだ。
歩いている周の目に、細い三日月が目に入った。その切先は、人を殺めることも出来そうなぐらい、細い。
どこか、24時間営業の店にでも行こう。転々として、寝るのは昼間学校で寝ればいい。
周は頭を振って、そう呟いた。
闇の中に、周の足音だけが、響いていた。
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