home モドル

 la vision 番外編

雪降る視界


 その年の初雪は、大きな牡丹雪だった。それは全ての音を吸収して、静寂な世界を作り上げる。白く霞んだ窓の外の景色では、周は今が朝なのか昼間なのか、わからなかった。
 隣で寝ている穂積を起こさないように、そっと起き上がる。雪は街一面を白く覆い、別世界を作り上げていた。周はガラス越しに、その街をぼんやりと眺めていた。
 確か穂積の部屋に来たときは、まだ雨だったはずだ。それがいつ雪に変わったのか、周は分からなかった。
 大きな雪が、ふわりふわりと落ちるその様子に、心を奪われる。その雪に触りたくなって窓を開けると、ひんやりとした空気が暖かい部屋に紛れ込んだ。周はそんなことは気にしないかのように、手を伸ばして雪を手のひらにのせようとするが、それは一瞬の間も形を残さずに、溶けて消えてしまう。
 温かい手では、だめなのだ。同じ冷たさがなければ、雪はその形を留めることをしようとしない。
「風邪をひくぞ」
 いつの間に起きたのか、穂積が周の後ろに立っていた。それからそのまま、周を自分と一緒に毛布に包んで抱きしめる。窓を閉めることはしない。それは、周があまりに無垢な目で雪を眺めていたからだ。
「だめだな。どうしても溶ける」
 周が手を伸ばしたまま、そう呟く。穂積はそれに、もぞりと動いて毛布から抜け出して、ベランダの雪をさくりと掴んだ。それからそっと、その上に降る雪を受け止める。それを周が、じっと見つめた。
「きれいだな」
 周がそう言うと、穂積は冷たさに我慢が出来なくなって、雪を落とした。手のひらが、赤くなっている。周はそれを一瞬見ると、すぐに視線を逸らして窓を閉めた。それから、コーヒーでも淹れる、と独り言のように言って、毛布を引きずったまま、キッチンへと向かっていった。

 穂積はその周の後ろ姿を見ながら、小さくため息をついた。冷え切った片手の掌をもう片方の手で温めながら、昨晩のことを思い出す。
 周が連絡なく部屋に来るのは、珍しいことだった。それも、夜中近くに。周のアパートから穂積のマンションまでは近いようで遠く、電車を二度も乗り換えなくてはならない。そうしてやって来た周は、まるで傘を差してこなかったかのように雨に濡れて、どこか不機嫌だった。それでも、遅くに悪い、と言うあたりが、兄の尋由の教育の厳しさを思わせた。
「いや、別にいいけど。どうかしたか?」
 穂積がそう言うと、周は一瞬何かを言いたそうに穂積を見たが、すぐに諦めたように視線を逸らして、別に、と答えた。
「何か飲むか?まだ食べてない、ってわけじゃないよな」
「あぁ、夕飯は食った。作ってくれるなら、何かちょっと強いのを飲みたい。……冷えるんだ、今日」
 周がそう言って腕を擦ったのを見て、穂積は風呂に入ることを提案した。周は一瞬考えたが、すぐにそうさせてもらう、と言って風呂場に向かった。
 やはりおかしい、と穂積は思う。週末の夜中近く、雨の降る中にやってきて、強い酒を飲みたいと言う。週末はエクスポジションを動かす穂積にとって、忙しいことが多い。だから周は、いつもきちんと連絡を取って穂積の都合を聞いてから来るし、それも泊まろうとしないことが多いのだ。
 風呂から上がった周は、置いてある自分のバス・ローブを着て、居間に入ってきた。ソファーに座って本を読んでいた穂積は顔を上げると、その姿に眉根を寄せた。どこか頼りなさそうで――それでいて妖艶な瞳で――穂積を見ていたからだ。
 その穂積の視線に気づかない振りをして、周は机に乗っていた穂積のブランデーのグラスを手にすると、それをこくりと飲んだ。
「周」
 問い掛けるように、穂積がその名を呼ぶ。それに顔を綻ばせて、周はソファーの背もたれに手をついて、後ろから穂積に口付けた。その口付けに、周がこの部屋に来る前も飲んでいたことを、穂積は知る。
「寝室、行こう」
 周がそう誘って、穂積は問い掛けることを諦める。
 こういうときの周は、何を言っても口を割らない。その不安が何であるかを、穂積は知る術がないのだ。
 周は性急に、何度も穂積を求めた。それがあまりに周らしくなく、穂積は何度も焦らして、快楽を餌に答えを求めた。
「焦らす……な」
 確かに触れ合っていて、穂積の存在を感じているのに、それを自分の中で感じられないことに、周は泣きそうになった。その圧迫感も、意識がなくなるほどの気持ちよさも、周は知っている。
「周が何かを隠すからだ。早く、言えばいい……」
「いれ、て」
「周」
「欲しい――」
 周は求める言葉だけを何度も繰り返し、自ら動くことさえした。それに、穂積が堪えきれなくなる。
「……周っ」
 腰と足を使って、周は穂積を捕らようとする。そのあからさまな様子が、穂積を刺激した。そして、その周に負けるように身を沈めた後もなお、周は巧みなまでに穂積を捕らえる。快楽に負けたのは、穂積だったかもしれない。
 そう思えるほど、その夜の周は、あまりに巧みで、妖艶だった。

 キッチンにいって時計を見ると、もうお昼近くなっていた。昨晩はさんざんに抱き合って、眠ったのは明け方に近かっただろう。二人とも、時間など覚えていなかった。周があまりに貪欲に求め、穂積が理性を失いそうになるほど抱き合ったのだ。覚えているはずがなかった。
 キッチンの周は、コーヒーメーカーが作るコーヒーを、じっと見ている。そこに温かいコーヒーの匂いが漂って、穂積はほっと息を吐いた。
 毛布から頭だけ出ている周の横顔は、少し思い詰めたように白く、きれいだった。それが兄の尋由の面影を持っていて、穂積を責める。それは決して、穂積の口からは言えないことだった。
 周はきっと、いくつもの不安を抱えている。でもそれを、決して口にはしないのだ。それではわからないと何度も穂積は言うのに、周は言葉ではない解決法を探す。
 たとえば温もりや、視線に。
 穂積が入ってきたのに振り向きもせずコーヒーが落ちるのを見ていた周は、ふとため息をつくと、小さく笑った。
「さすがに立ってるのがつらい」
「あれだけやればな。いいよ、横になってろ。コーヒーは持っていってやる」
 穂積がそう言うと、周は頷いて、またずるずると寝室へと戻っていった。あまり合わされないその視線に、穂積は周の不安は拭われていないのだと思う。
 簡単なことではない。周は人一倍真摯なものの見方をするし、孤独でもある。その孤独は、決して淋しいものではない。どこか気高く、尊いものだ。でもだからこそ、そんな周の不安を消すのは容易ではないのだ。
 コーヒーを二つ手にして寝室へ戻ると、周は横になったまま、窓の外を眺めていた。毛布に包まったままで、布団には入っていない。
「仕事は?」
 億劫そうにベッドに腰掛けてコーヒーを一口飲むと、周がそう聞いた。少し言い淀むような口調に、穂積はその意味を探る。
「雪もひどいし、行く気はないよ。大した仕事もないからな」
 そう言いながら穂積が隣に腰掛けると、周は何も言わずにまたコーヒーを飲んだ。少し、ほっとしているようで、穂積は正しい答えを見つけたのだと確信する。
 普段だったら、そんなことを周は許さない。穂積の片腕と評される兄に迷惑をかけることを嫌うのだ。
 雪は音もなく、降り続いていた。黙ってしまうと、部屋の中はひどく静かだった。
「嫉妬したんだ」
 ふいに周がそう言って、笑った。視線は外を見たままで、呟きでしかなかったが、穂積は周を見る。
「誰に?」
「わからない。たぶん、会社の人たちとか」
「尋由とか?」
 穂積がそう言うと、逆に周が大丈夫とでもいうように、笑った。
「特別な誰かじゃないよ。――ただ、傍にいられる人に。でも、すごい嫉妬だったんだ。まるで、浮気されたみたいに」
 周がそう言って、穂積はようやく周の不安が何であるかを知る。ここのところずっと悩んでいたことに、周はつい最近結論を出したのだ。
 大学を終えたら、ドイツに行く。
 周はそう決めたと、穂積に言ったのだ。それは長くても一年ぐらいのことであるにしろ、離れてしまうことに対する周の不安は、たぶん本人が思っているより大きかったのだ。それは、穂積も一緒だった。ただそのことを、周はわかっていない。自分ひとりだけが、不安だと思っているのだ。
 そんなことがあるわけがない、と穂積は苦笑する。誰よりも不安なのは、多分穂積なのだ。それを、表面には出さないだけで。きっと変わるのは、周であって自分ではないと、穂積は確信している。そして、変わった周が穂積を見限っても、何も言えないだろうと思うのだ。
「俺はきっと、俺の知らないお前をこれから知るだろう人々に嫉妬するよ」
 穂積がそう言うと、周は顔を上げてその顔を見た。
「俺は、お前が帰ってくる場所がここであってくれることを、本気で祈ってるんだ」
 やっと見ることが出来たと思いながら、穂積はそう言った。周はその言葉に、ほっとしたように、でも泣きそうな顔で、笑った。
「そんなことは決まってる。俺には、ここしかないんだから」
 周はそう言って、確かめるように、穂積へと腕を伸ばした。
 帰る場所は、ここしかないのだと。


home モドル