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 長い午後                    by 螢草さま


柔らかな下生えの草も、素肌には悪戯をする。ちくちくと肌を刺す柔らかなとげは、飽和した思考に信号を送る。この時間は偽りなのだと。いつもまでも、このままではいられないのだと。木の下闇、傍らの人は、本を読んでいる。木の根元に体を預け、重なる葉のあわいから零れ落ちた光をまとって、水の中にいるようだ。風が枝を揺らし、光の水玉が踊る。ゆらゆらと二人、水中を漂う木の葉になったようだ。奥深い森のひっそりとした湖を沈んでゆく、この想いも、いつか木の葉のように腐食され消えてゆく日がくるのだろうか。

 「いつから起きてたんだ」
 心地良い声が降ってきた。アルカリイオン水に似た涼介(りょうすけ)の声。体の中に染み透る、理(さとる)の渇きを癒してくれる、優しい水。
 「ずっと起きてたよ」
 「嘘だな。気持ちよさそうな寝息をたててたよ」
 「狸寝入りだよ。俺は巧いんだ」
 涼介は手に持った本を置き、目を瞑ったまま減らず口を叩く理へとその手を伸ばした。理の白い肌に涼介の手の影が落ちた。理は自分に優しい手の感触を予感し、くいと咽喉を反らした。
 「猫みたいだ」
苦笑とともに、冷ややかな手が、わずかに汗の浮いた理の額へと置かれる。柔らかに髪をまぜ、そのまま咽喉もとまで移動した。
 「なんなら、鳴いてみせようか」
 「猫の真似も巧いの?」
 「巧いよ。聞きたいか」
 「今日は、遠慮しておくよ」
 夏木立の中を、生ぬるいけれど、心地よい風が通り過ぎた。柔らかく肌を撫でる風は、涼介の苦笑に似ている。理は、ふとそう思った自分に可笑しさを感じた。最近の彼は、何でもかんでも例えてみせる下手な詩人になったようだ。我ながら、くだらない感傷だと理は思う。涼介がいなくなった後も、彼に似た何かを見つけておくことで、少しでも淋しさが紛れるようになどと。躍起になったところで、そんなことが無意味であると理は知っている。アルカリイオン水も、柔らかな風も、涼介がいなくなったら、とたんに意味を無くしてしまう。そのことを、理は知っている。
辺りには、蝉の鳴き声と遠くから聞こえる運動部の掛け声以外、なんのざわめきもなかった。体育館裏、木々の鬱蒼と茂った林は、外からの目を遮ってくれる。学校の構内にありながら、この場所は一定の静けさを保っていた。今がいっそう静かなのは夏休みだからだ。部活や補修に参加する以外に、学校へ好きこのんで来る者はいない。涼介と理は、そのどちらも受けていなかったが、示し合わせたように学校のこの場所を訪れていた。いつもと変わらぬ顔をして、いつもと変わらぬ時間を過ごそうとする。けれど、確実に刻まれる時間に、不意に襲ってくる淋しさに、理は堪えられなくなるのだった。
着々と近づいてくる別れに身を震わせて、理は咽喉もとでたゆたう涼介の指を、手のひらに包みこんだ。ゆっくりと瞼をあげて、涼介を見つめる。目で誘った。
 「抱き合いたい」
 「人が来るかもしれない」
 「構わないから…。斎藤(さいとう)さえ気にならなかったら、」
 「莫迦…」
 涼介の冷たかった指先は、理の体温で微かな熱を帯びていた。その涼介の手が、理のうなじへと回り、今度は全身の影が、理を覆った。青々と生い茂った木々の葉群れから、夏空の青が覗いている。白く盛り上がった雲が、目に痛い。太陽がひらめき、蝉の鳴き声が遠くなった。理は軽い眩暈とともに、自分に重なってきた体を力いっぱい抱きしめた。


夏期休暇を前にした学校は、どことなく浮き足立った雰囲気を持っていた。受験を控えた三年生と、高校に入学し初めて迎える夏休みに心を躍らせる一年生と、それぞれ感じ方は違っても、誰もが長い休みを気に掛けている。
 「斎藤君が転校かあ。急だよね」
理の前の席に座っている棚橋麻奈(たなはしまな)は、ふと思いついたようにそのことを口にした。 
その日、五時限目の歴史の授業は、自習となっていた。開け放たれた窓からは、湿気を帯びた生暖かい風が申し訳程度に流れているだけだった。それでも、冷房の無い教室の、じっとしていても汗のにじむ熱気の中では、ないよりはましといったもの。理はこの時期に窓際の席を得た、自分の幸運を思った。外からは、けたたましい蝉の鳴き声とともに、低く間延びした掛け声が聞こえていた。何気に見ると、涼介のクラスが運動場で体育をしていた。地面に濃い影が落ち、それが外の日差しの強さを物語っている。暑さの所為か気怠い人の動きは、スローモーションをかけた映像に似ている。その景色をぼんやりと眺めていた理に、振り返った麻奈が話し掛けてきたのだった。
 「寂しいなぁ。そう思わない?」
「仕方ないよ」
「…まあ、そうだけど」
 麻奈の言葉に内心が波立ったが、理はそれを外に出したくはなかった。平静を装った言葉は、驚くほどそっけなく響いた。麻奈はその理の返答を不服に思った。「仕方ない」と言った理の白い面には、いつもと変わらずどこかつまらなそうな表情のあるだけだった。
「仕方ないけど、何も三年の二学期からなんてねぇ。どうせなら、一緒に卒業したいよ。友達なのに、新見(にいみ)はそう思わないの?」
しつこいかと思いつつ、麻奈は食い下がった。自分の言葉で理のどんな反応を引き出したかったのか、それは麻奈自身にも分からなかったが、何の表情も映し出さない理の態度が何故だか腹立たしかったのだ。
 「思ったところで、どうなるんだよ」
 理はひどく冷めた表情で、麻奈を見た。嘆いて事態が変わると言うのなら、とっくに理はそうしていただろう。麻奈に悪気があるわけではないと分かっていたが、今は放っておいて欲しかった。涼介から転校を告げられた時から、理は自分たちを取り巻く何もかもが、苛立たしかった。理の冷めた視線と声音に麻奈の顔が強張り、彼女を傷つけたことが分かった。だが、理は何の言い訳もするつもりはなかった。
 「ひど、そんな言い方することないじゃない。冷たいなあ」
 「冷たくて、結構だよ」
 麻奈は怒りに高潮した頬をおさえて、前に向き直った。理と麻奈の様子を遠巻きに眺めていた生徒たちが、気まずげに目配せをしている。理はそれらを意識から追い出し、外の景色に集中しようとした。外では、涼介がやや猫背の長身で、サッカーボールを追っていた。
 「涼介」と心の中で名前を呼んでみる。応えて欲しいと、何度も呼びかけてみる。頭痛がしていた。自分たちを取り巻く何もかもが、苛立たしいのだ。どうか放っておいて欲しい。二人以外の何もかもすべてを遮断できたらいいのに。
 理はかたんと椅子を鳴らして席を立った。ひそやかな好奇心の込められた視線を背中に感じながら、理は自分を隠してくれる場所へと足を向けた。


 蝉の声がする。
聴覚が戻り、気怠い体を投げ出して見上げた空に、懐かしさを感じた。
 「あの雲、見たことあるかも」
 「どれ?」
 理の呟きを拾って、涼介も同じく仰向いて空を見上げた。木々の合間から、吸い込まれそうに遠い夏空が広がっている。
 「あれ、右側の、象の形に似たヤツ」
 「象?あれのこと」
 「うん、何時見たんだっけ?」
 「さあ。その時、俺もいた?」
 見上げた空にある雲は、涼介にとってはどれもどこかで見たような雲ばかりだった。理というフィルターのかかった空はどんなだろう。涼介は穏やかな笑みを浮かべ、理を覗き込んだ。
理は先程の涼介の言葉で、不確かなその記憶を取り戻した。
 「あ、思い出した。斎藤と初めて寝た時見たヤツだ」
 得心がつき、すっきりとした顔で理は涼介を見た。涼介は理の惚けたような返事に、肩を揺らして笑いながら、歪んだ象の雲を見た。
 「じゃあ、ヤツはあの時からずっといるんだ」
 「覗かれてたんだ、俺たち」
 「雲の象に?」
 「雲の象に!」
 理と涼介はお互いの顔を見合わせて、吹き出した。木々に囲まれているとはいっても、青空の下でセックスをして、それを雲の象に覗かれている。その想像は、二人を心地よい可笑しさで包みこんだ。ただ、その可笑しさは哀しさにとても近くて。横向きに向き合って寝転んで、体を折ってくすくすと笑う。なんて、可笑しくて哀しいのだろう。分かって道化を演じている、僕たちはピエロのようだ。
 「いいじゃん、見せてやろうよ。気持ちのいいところ」
 「好きだからなぁ」
 「好きで悪いか。好きだよ。凄く好きだ。だから…」
 「いや、ぜんぜん悪くないよ。俺も好きだから、」
 「……」
 涼介は理のひそやかな嗚咽を唇で宥めた。汗で湿った髪の絡む額に頬に、唇を滑らせてゆく。理の肌からは夏草の匂いがした。
 「…も、いっかい」
 「うん、何度でも。これからも、ずっと、」
 「ずっと…」
 下草が、はだけた肌に柔らかく刺さる。分かっている、分かっているから。「ずっと」などと、どんなに願っても変わらぬ現実が待っていることを。


 「頭痛がするんだ。ずっと苛苛して、人にあたって、辛いんだ」
 教室を飛び出してからどれくらい時間が経ったのか、何時の間にか寝入っていた理は人の気配を感じて目を覚ました。特に確認するまでもなく、そこに佇んでいるのが涼介だと分かる。
 「斎藤が、あんたが、いなくなるから」
 自分を詰る唇を、涼介は静かに見つめていた。
 「仕方ないんだ」
 涼介の声が空々しく響く。
 「うん、知ってる」
 理の声も乾いていた。離れてしまうことを「仕方がない」と片付けてしまうには、二人の距離は近づき過ぎていた。
 「いっそ、気付かなかったら良かったのに」
 「何に?」
 「知ってるくせに…」
 「……」
 空は夏を主張する濃い青をし、光を弾く白い雲が盛り上がっていた。群をなしてそびえる雲の中、一つだけはぐれた雲があった。
 いびつな形をしたその雲が妙に淋しげに見えた。今の理の心境をそのまま映しているようで、やりきれない虚しさに侵食される。
 「行けたらいいのに、」
 理はぽつりと呟いた。
 「何処に?」
 「何処か遠く、誰も知らない処。誰もいない処」
 「俺もいない処?」
 「いや、あんたを知らない処…」
 離れるくらいなら、いっそこの想いに気付かなければ良かったのだ。否、そもそも出会わなければ、良かったのかもしれない。涼介を知らなければ、この胸の痛みを感じることもなかっただろうから。
 「嘘だけど」
 「うん、分かってるよ」
 涼介は理の目元を指で辿った。温かな雫がとめどなく指を濡らしていく。
 「斎藤を知らない処なんていやだ」
 「うん、俺も新見を知らない処なんて嫌だな」
 「できるなら二人で…、」
 「うん、二人で。二人しか知らない処に行けたらいいのになぁ」


 「二人しか知らない処」
 「ん?」
 「なんでもない」
 ぼんやりと眺めた空を、雲がゆるやかに流れている。蝉はかきたてるように鳴き続け、運動部の掛け声も相変わらず流れていたが、二人の周りは嘘のように静かだった。静寂におし包まれた、ここには理と涼介の他に何者も存在していない。かりそめに過ぎないものの、二人しか知らない処だった。
この場所で、永遠に続くのではないかと思われるひとときを二人は共有している。けれど、その実、一瞬一瞬を惜しんでいる。ここで過ごす時間は悠久ではなく、二人にとって長い午後のようなものだった。確実に訪れる夜を目の前に、だが、何事も起こらない日常に身を置いているのだと錯覚させてくれる時間。

穏やかな午後は、二人の想いを包み込んで、時を刻んでゆく。
長い午後は、そのうち終わりを告げるだろう。やがて訪れる別れの暗闇を前に、ただ祈った。

永遠に続くこの午(ひる)を僕らに……、と。





4000hitsのお祝いにと、こんなに素敵な作品を頂きました。
螢草さま、本当にありがとうございました。
ちなみに、私のリクエストは、

「長い午後」と言うタイトルで、「見たことあるかも」「好きだからなぁ」と言うセリフを入れる。

でした。このリクエストから、こんなに可愛らしくも切ない物語をいただけて、本当に幸せものです。私。
螢草さまのHPには、リンクから行くことが出来ます。素敵なイラストも必見です。
螢草さま、本当に本当にありがとうございました。