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シュレーディンガーの猫
11
翌日は朝から雪で、今度ばかりは積もるかもしれないと思われる牡丹雪が、しきりに空から落ちてきていた。庭一面、どこもかしこも真っ白になって、全てを覆い隠している。視界に映る、煙ったような景色。落ちる雪が見えるだけなのに、響貴はそれをじっと見つめていた。
――逃げなさい。
囁くその声が、耳を離れない。でも、姉が来たときに自分が動くことができるのか、響貴にはわからなかった。ここから逃げることなど出来ないのだと、どこかで怖れる自分がいる。
たとえ自由になれても、それは一瞬のことで。
そして、その一瞬に焦がれつづける。そんな自由を知らなければ、良かったと思うほど。
こんな風に、全てを隠してくれるのなら、と目の前の雪景色を見ながら響貴は思う。でも、この雪が溶ければ、隠したものはいつでも白日の元に晒されるのだと言うことも、響貴は知っている。
ぼんやりと午前中を過ごし、午後になると佐々原がいなくなった。時計の針が、嫌に遅く、でもはっとみるとこれほど進んだのかと思うほど早く、進んでいた。
雪は、降り止まない。
響が来たのは、ちょうど一時になったときだった。無言で部屋に入ると、素早く着ているものを脱いだ。それから響にも脱ぐように指示する。
「時間があまりないの。予定より早く出るかもしれないから」
言いながら、響貴の脱ぐ物を端から着ていく。
「何してるの。早くこれ着て」
響貴が迷うように響の服に手を触れないでいると、そう急かす。華奢な手足。すっとした首筋。見れば見るほど似ていて、響貴は気分が悪くなる。でも、そのしっかりとした口調も、表情に表れる強さも、響貴が持っていないものだ。
自分より年上だったのだと、思い出した。
「青い顔してる場合じゃないのよ。化粧もしなきゃいけないし」
そう言って、持っていたバッグから化粧道具を取り出す。手間どう響貴の背中のファスナーを一息に上げて、椅子に座らせると、化粧を始めた。
口ではなんと言っても、緊張しているのか、目の前で自分に化粧をしている響は、少し思い詰めたように見えた。
「やっぱり人の顔って難しいわね。ちょっと、じっとしてて」
そう、手早く化粧を施す。同じ色の口紅を塗って、出来上がりだ。
ふと、そのまま響貴を抱きしめる。何も言わずに、ただ、ぎゅっと。しばらくしてから、やっと囁くように口を開いた。
「生きてね。絶対よ。もう、会えないだろうけど、生きてね」
その声は優しく、少し哀しそうだった。やっと二人で話をするようになったのに、すぐに別れ別れになるのだ。あの都住がいなくならない限り、二人は会うことは叶わないだろう。
最後の、家族かもしれないのに。
響はそっと響貴の手を握った。幼い頃、まだ赤ん坊だった響貴に、こっそり会いに来たことがあった。あまりに可愛らしくて、恐る恐る触れたら、人差し指をぎゅっと握られた。それが普通の反応なのだとわかった今でも、響はその感触を忘れていない。握られた、あの力。まだ自分だって幼かったはずなのに、その記憶だけははっきりとしていた。
握った手の上にそっと反対の手をのせられて、響は顔を上げる。
「かっこいいわ。さすが私の弟ね」
微笑まれたその顔に、響貴はゆっくりと頭を下げていった。
泣きたい。
――はじめて、そんなことを思った。泣きたかった。
「だめよ。お化粧が崩れちゃうじゃない。男の子でしょ。まだ駄目よ、泣いちゃ」
優しい、声。一生忘れないだろう。響貴はそう思った。この声を、一生忘れない。
響貴はゆっくり立ち上がると、大きく息を吸って、顔を上げる。
残すなら、この顔を。
きっと今まで一度だってしたことのない、満面の笑みを。
「ありがとう、姉さん」
外は一面の、銀世界だった。空中のいろいろなものを吸収して、どうしてこんなにまで雪は白いのだろう。
こんな風に、自分のこれからが真っ白ならば、それでいいと響貴は思った。
真っ直ぐ先に、車が一台止まっていた。そこまでの道だけは、使用人によって綺麗に掃かれていた。少しヒールのあるブーツでその上を歩くと、コツコツ、と小さな音がする。車に乗って横を見ると、いつもと変わらない屋敷が見えた。ずいぶんと久しぶりに見るのに、いつまでもこのままなのだろう、監獄。
するりと音もなく車が走り出して、響貴はゆっくりと瞬きをした。もう、二度とこの屋敷には帰ってこない。
どんなことがあっても。
どんなことになっても。
車はゆっくりと大通りに出た。今日は観劇に行くことになっていると響が言っていた。いるのはこの運転手兼ボディーガード一人で、用心のために劇も一緒に見ることになるだろうが、うまくどこかで抜け出さなくてはならない。冬なのが幸いして、ワンピースの下には重ね着をした男物の服を着ている。
街もすっかり雪化粧をしていて、外に出ない響貴にはあまりどこがどこなのかわからない。行き交う人々も傘を深く差していて、顔が見えない。こんな風に、こんな風に紛れればいいのだ。
車が劇場の前にさしかかった。でも、スピードを少し落としただけで、止まることなくその前を通り過ぎた。
響貴が不審に思って顔を上げると、運転手の低い声が聞こえてきた。その声に、響貴の背が戦慄く。
「予定を変更します」
逃げなさい。
逃げなさい。
柔らかいはずの姉の声が、切羽詰ったように頭の中で響いていた。
「佐々原……!」
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