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シュレーディンガーの猫 番外編
白い函
部屋に入った途端に能瀬が笑ったのが見えて、坂倉は眉をしかめた。それを敏感に察知して、能瀬が坂倉のほうに顔を向ける。
「いや、変わらないなと思って」
部屋が狭いからと、半年ほどで前の部屋からこの部屋に引っ越したとき、手伝いは要らないといった坂倉の言葉に納得したのだ。
相変わらず、何もない。
坂倉はそれには何も答えずに、キッチンに行ってコーヒーを淹れ始めた。能瀬はその後ろ姿にもう一度微笑みながら、部屋をぐるりと見渡した。その眼が、壁にかかった一枚の小さなリトグラフを見つける。モノトーンの部屋の中、それだけがはっきりとした色彩を持っていた。オレンジ色の壁の家の窓から、子供が一人、外を眺めている。絵そのものが小さいために、子供の顔はわからない。それはとても温かく、寂しい絵だった。
「響貴は?」
コーヒーを持ってきた坂倉に聞くと、買い物に行っていると言う。「所長が来るんだったら、茸の炊き込み御飯でも作ろう」と思い立ったのだと。
「響貴は俺を可哀相な独身男だと思ってるからなぁ」
能瀬がそう笑うと、坂倉もつられるように、笑った。その顔が、だいぶ穏やかになってきたのを確認して、能瀬は心の中でほっとため息をついた。響貴も最近、やっと落ち着いた顔をするようになった。事務所で働き始めた当初は、いつかその緊張の糸が切れたら、倒れるのではないかと思っていたのだ。
二人が一緒に住み始めて、もう半年は経つ。それでもこの関係は、儚く危ういものに見えていた。いつか、終わりが来るのではないかと、本人たちが怯えている。
「響貴、ちゃんと働いてるか?」
坂倉がコーヒーを一口飲んで、外を見る。心配なのだろうと、能瀬は思った。
「働いてるよ。とても優秀だ」
実際、響貴は事務所ではとても気が付くことで重宝がられている。整理整頓が得意なことも、雑多な資料の多い法律事務所には助かるのだ。
「あれから一度も、都住から連絡はないのか」
都住商事は結局、副社長を昇格し、なんとか会社としての体裁を保っていたが、今や都住とは、名だけのものになっていた。
「ないよ。一度だけ佐々原を見たが、何も言わずに通り過ぎたよ」
「気付いていたのか?」
「俺と相手はね。響貴はいたが、気付いてなかった」
佐々原は、今はどこか違う会社でボディーガードとして雇われているはずだった。彼もまた、都住の血の犠牲者だったのかも知れない。
「もう、半年か……」
「あぁ」
長いとも、短いともいえる半年だった。その半年は、響貴が一人で外に出られるようになるには十分だったが、坂倉と響貴を安心させるには足りていない。
ふと沈黙が流れたその隙間に、かちゃりと音がして、響貴が帰ってきた。目の前で明らかに坂倉がほっとしたのが、能瀬には分かった。能瀬は苦笑したかったが、それには少し事情を知りすぎていた。
「所長、早かったんですね」
響貴が荷物を置きながら、そう微笑んだ。それはまだ、儚さをなくしてはいない。そういう雰囲気が、部屋中に満ちていた。幸福な、と呼べる雰囲気がないのだ。あるのは、怯えのような空気と、重たく苦しい空気。
それは、食事が始まってからも拭い去ることは出来なかった。能瀬は、夕方に歩いてきた道を思い出した。木々はもうすっかり紅葉し、あるものはその葉を既に散らしていた。この部屋は、その木々に似ている。殺風景で、色がない。たった一枚葉が残ったように、壁に小さなオレンジ色の絵がかかっているだけで。
決して、食事が楽しくなかったわけではない。能瀬と坂倉の大学時代の話を響貴が面白がって聞いていて、笑い声だってしていたのだ。それなのに。
「淋しすぎないか、この部屋」
食事が終わって、ウイスキーを飲みながら、能瀬は堪えきれないようにふと呟いた。言ってしまってから、能瀬は失言したかのように目を伏せた。
たぶん能瀬も、怖れているのだ。二人が、目の前から消えることを。この殺風景さは、仮宿を思わせてならない。いつでも、逃げられるように。最小限のものだけを置いた、部屋。
そういう能瀬の思いを分かっているかのように、坂倉は微笑んだ。
「心配するなよ。俺がお前から逃げられた試しがないだろう?」
その言葉に、響貴もゆっくりと微笑んだ。
能瀬が帰ってから、響貴はソファーにもたれてじっと壁の絵を見つめていた。その絵を欲しいと言ったのは響貴だが、それが何故なのか、坂倉は知らない。窓から外を眺める子供に、過去の自分を重ねているのか、それとも、姉を重ねているのか。よく見ると、それは女の子だとわかるのだ。
今ではすっかり、響貴は「女らしさ」を失っていた。線が細い印象があるにせよ、女に間違われることはない。それでも、鏡を見るのが嫌いなことを坂倉は知っていた。
何も解決はしていなかった。
響貴と自分が兄弟であるのかもわからなかったし、響貴の傷も―――そして坂倉の傷も―――癒えてなどいなかった。響貴は今でも、どこか張り詰めたような表情をするときもあれば、何かを忘れようとして坂倉を求めることもあったし、坂倉は幸せと言うことを実感できずにいた。でもそれを、坂倉は仕方がないと思うのだ。それほど、簡単なものではないと。
ソファーの後ろから、響貴を抱きしめて、坂倉は一緒にその絵を眺めた。絵の中の子供は、一体なにを見ているのだろう。この、淋しい部屋だろうか。
「俺は、好きだよ。この部屋。機能的で、無駄がない。殺風景さは、これからいくらでも埋められる」
響貴が、絵から目を離さずにそう言った。その言葉に、坂倉は笑って、響貴に口付ける。その通りだ、と思った。
能瀬の言葉は間違いではないだろう。この部屋は、きっと淋しすぎる。でも、それは二人で埋めていくことが出来る。真っ白なキャンバスは、何色にも塗ることができる。
もう、後には戻れないのだ。
「所長は人のことを心配しすぎだよ。彼女でもできればいいのに」
坂倉の腕の中で、響貴がそう呟いた。それに坂倉は笑って、いるよ、と言った。
「え?」
「彼女、いるんだよ、あれで。知らなかった?」
「知らない」
響貴が驚いたように顔を上げるから、坂倉は思わず苦笑した。能瀬は別に顔が悪いわけでも、性格が悪いわけでもないのに、響貴が能瀬に彼女がいることに驚くから、事務所では余程変わり者に見られているのだろうか、と思う。確かに、大学時代から能瀬は少し変わったところがあった。そうでなければ、過去にこだわり続けた坂倉とも、これほど上手くはやれなかっただろう。
「響貴の知ってる人だよ」
坂倉が面白そうに言う。それに、響貴は事務所の女の人を思い浮かべたが、あまりにも似合わなくて、すぐに却下した。
「事務所の人じゃないよな……誰?」
ほかに知っている女の人―――というより、他の人―――はいないはずだ。響貴の交友関係は、ひどく狭い。
「あれから会ってないもんな……」
「あれから?」
「そう。小雪と」
坂倉のその言葉に、響貴が動きを止める。驚きすぎて、声が出ないという感じだった。
「小雪さん?!」
「そうだよ」
響貴が坂倉の腕を解いて後ろを向いて、確認するように坂倉を見た。その坂倉は、楽しそうに笑っている。
本当は、あまり思い出したくないのだ。あのときの闇を、響貴も坂倉も覚えている。甘美で、ひどく誘われる、暗い闇。あの狂気の世界に行けたらと、本気で思ったことがあることを。小雪がいなかったら、きっと二人はその闇に呑まれていただろう。
「なんだよ……」
それならそうと言ってくれればよかったのに、と響貴は面白くなさそうに言う。響貴も坂倉に合わせて、無理に楽しんで見せるかのようだった。
小雪は今のこの二人をどう言うだろう、と坂倉は思った。あの闇を、怖いと言った小雪は。
「そうか、小雪さんなんだ……」
会いたいな、と響貴は独り言のように言った。坂倉も、同じように、久しぶりに会いたいと思った。
「こんど二人を招待しようか」
「そうだね」
響貴が笑う。少しだけ、悲しそうに。それは、臆病ではないカップルを見ることへの、恐怖だった。その怖れを持つ自分たちを、哀れに思うのだ。坂倉は、それを理解する。
こんなにも二人は分かり合えるのに、明日にも離れ離れになるかのように、不安で堪らない。今この季節の、うら寂しさに似た、気持ちがあった。これから冬に向かうしかないような、そんな関係。
「大丈夫」
坂倉は、脈絡もなくそう言う。それはまるで、口癖のように繰り返された言葉だった。
大丈夫。寒い冬ならば、温めあって乗り越えることがきっとできる。
坂倉がそう言うと、響貴はその温もりを求めるように、坂倉へと腕を伸ばした。二人はまるで、何かを祈るように、抱き合った。
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