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over and over


 ときどき、嘘のようだと思うときがある。
 東が、優しい目で俺を見ているときとか。
 抱き締めて、くれているときとか。
 それが夢だと言われても、俺は納得してしまうだろう。
 こんなにも、好きなのに。
 それはもう、揺るがないものなのに。


 絶対にオフを取る、と息巻いていた日曜日、東が朝早くから迎えに来た。目立つ行為は避けたかったが、電車に乗るわけにもいかないし、そもそもその場所は交通の便が悪い。だから車は必須だったが、それなら俺が東のマンションに行くと言ったが、却下された。そんな面倒な、と言うのだ。どうやら東は、俺を迎えに来たかったらしい。その日は朝から、上機嫌だった。
 途中コンビニに寄って、飲み物を買う。東は顔を隠すようなことはしていないのだが、結構ばれないぞ、と平気で買い物をしていた。俺たちにしては珍しく、車で行くからと、アルコールは買わなかった。着くのはちょうどお昼頃になるだろうからと、食べ物も買おうと言ったのだが、東は悪戯な目をして、当てがあるのだと微笑んだ。それから、行きつけなのだろう、料亭に行って、そこで弁当を貰ってきたのだ。予約をしていたのだろうが、正直驚いた。
 酒が飲めないのだから、食べ物は贅沢をしよう、という意見には賛成だが、どうも頻繁に奢ってもらっていて、俺は手放しには喜べなかった。
 だから弁当代も交通費も、みんな折半しようと言ったのだけど。
「……わかった。高速代は折半しよう。でも、弁当代もガソリン代もいいよ」
 いつ見ても、東のハンドルさばきは綺麗だ。手が大きく、指が長いからだろう。俺は東の運転が一番安心していられる。
「そうはいかないって」
「でも、イズルはまだ学生なんだし」
 それは事実だが、本来ならば東だって大学生の年齢だ。それはもちろん、ものすごく稼いでいるのだろうが。
「弁当は俺が勝手にやったことだから。ガソリンなんてわからないから面倒だろ?」
「でも……」
「なんとなく、気持ちはわかるけど。俺の我侭だとも思う」
 ふっと、真剣に前を見ていた東の目元が緩んだ。俺は目の端でそんな東を見ながら、首を傾げた。
「我侭だとは思ってない」
「いや、我侭っていうか、自己満足なんだよ。あの弁当を食べさせたいって言う。他のこともそう。自分がいいなって思うところに、イズルを連れて行きたいと思う。それでイズルに負担が掛かるのは嫌だから、俺はなるべくそうならないようにって考えるんだけど」
 どっちにしろ、負担なのか……、と東が小さく呟いた。
 そうじゃない、と俺は言ったが、それは少しも真実には聞こえなかった。
 実際、今まで全てを折半していたら、俺は払いきれなかっただろう。親父がまた旅行に出ているから、なるべくなら散財はしたくないというのが本音だ。東も、それを知っている。
「金銭的な負担か、精神的な負担か、どっちかってわけじゃないけど、金銭的なものはそのうち精神的にも参ってくると思ったから……だったら使わないようにすれば良いのかもしれないけど、俺の都合で出てきてもらったりもしてるから」
 だから、その我侭を受け入れて欲しいのだと東は言った。
 そんな言い方はずるい。そんな、優しい言い方は。
 俺は窓枠に肘を乗せて、その手で頭を支えた。街並みが緩く流れていく。
「別に、俺は付き合わされてるとか思ってない。東が面白いと思うものを知るのも、美味しいと思うものを一緒に食べるのも、嬉しいんだ」
 ただ、素直に喜びきれないだけだった。たぶん、俺の小さなプライドの所為で。
 信号に引っかかって、車が滑らかに止まった。その途端、東の長い腕がすっと伸びてきて、俺の髪をくしゃりと混ぜた。
「うん、ありがとう」
 東は大人だ。そして、優しい。俺の気持ちもみんなわかっているのだろう。この、変な意地のようなものも。
 結局、高速代だけ払うことで、決着は着いた。今は、東に甘えさせてもらおうと思った。さっきの、ありがとうと言う言葉で、小さなプライドは捨てようと思ったのだ。
 高速に乗ると、東はどんどんスピードを上げて、気持ち良さそうに運転していた。無茶はしないが、速く走るのは好きなんだと子供みたいな目をして言った。
 そう言う、素の東じゃないと絶対に見せない一面が、俺は好きだった。
 目的地までの道を、ナビと地図と記憶で辿る。父親に、もう一度、きちんと場所を聞いておいたから、細い道もなんとか迷わずにすんだ。
 のどかな村と言った雰囲気の町を抜けて、山の中に入る。ぐるぐると、その山を少し登った後は、小さな神社のある場所で車を降りる。降りた途端、東が面白そうに神社に近寄った。
「へえ……なんか、これぞ聖域って感じだな」
 それは本当に慎ましい神社だったが、里の人間がきちんと手入れをしているのか、荒れている感じはなかった。風がさわりと柔らかく吹けば、その音も聞こえる、静かな場所だった。
「ここから、まだちょっと中に入るんだよ」
 だからこそ、穴場中の穴場なのだと父親は言っていた。誰と行くんだ、とにやにやした顔で言われたのには、適当に誤魔化したけれど。
 せっかくだから、お参りしていこうという東に、俺たちは二人で並んでお賽銭を投げた。正月でもないのに神社にお参りするのは、なんだか奇妙な感じだった。でも、せっかくだからと心を込めて願ってみた。
 どうか、いつまでもこうして、二人で並んでいられますように。
 それから、荷物を分け合って、山を登った。地元の人もやはり知っている人は知っているのか、獣道のようなものが出来ていた。
「ああ、ちょっと遅かったかな」
 辿り着いた先には、もう葉が出始めた桜が一本、あった。それでも、満開といっていいほど、花びらが一面に散っている。一本しかないのに、大木の桜は、それだけで十分と言えるほど咲き誇っている。
「山桜か……いいんじゃないか?これも風情がある」
 東はそう言いながら、桜の木の根元に荷物を置いて、シートを広げた。そこはちょうど斜面が途切れて平らになっているところがあって、人が二人坐るぐらいの広さがあった。くるりと周りを見渡すと、他にもちらほらと桜が見えた。
 聞こえるのは、風が吹くと揺れる木々のざわめきと、遠い鳥の声だけだった。
「すげえ、静か」
 東が気持ち良さそうに寝転がる。目を閉じた顔に、微かな笑みが浮かんでいた。
 俺がここにどうしても東を連れて行きたいと思った理由の一つが、この世界から隔離されたような、色々なことから遮断されたような、この静かな空間だった。いつもいつも、きっと雑音に囲まれているだろう東に、静かなときを、あの部屋の中だけではなく、空の下で、過ごして欲しかった。
「いいところだな」
 東が、目を開けて俺に笑いかけた。それに、隣に坐っていた俺も顔が綻ぶ。
 風が吹いて、桜の花びらがひらひらと東の上に降った。
 綺麗だった。
 それは本当に、幻のようだった。
 すっと手が伸びてきて、俺の頭を撫でた。
「花びら」
 目を細めた東が、その花びらを俺の前に持ってきて見せる。それから、それにふっと息を吹きかけて飛ばした。
 それが、あまりに幻のようで。
 たぶん、俺たちは酔っていた。酒も飲んでいないのに、その雰囲気と桜に、酔っていたのだ。
 東がふいに上半身を起したときに、だから俺は逃げなかった。それどころか、吸い寄せられるように、東に口付けた。
 愛し合うとは、そういうことなのだと知った。
 こんな瞬間を、共有できることなのだ。
 俺は、ふいに泣きたくなって、そのまま東の胸に額を押し付けるように倒れこんだ。東が、宥めるように何度も、俺の髪を優しく撫でてくれた。
 俺は、そうやってしばらく、東の心臓の音を聴いていた。
 はらりはらりと、桜の花が散っていた。
 それが、無性に哀しかった。
 たぶん、自分がひどく、幸せだったから。


 東が料亭に頼んだ弁当は、三重になっていて、とても豪華な作りだった。ポットにお吸い物までついていて、その器に浮かんだ花の麩に、思わず顔が綻んだ。
「ここ、良く行くのか?あんまり、弁当とか簡単に作ってくれる感じじゃないんだけど」
 散らし寿司の美味しさに舌鼓をうちながら聞くと、東はのんびりとまるで酒のようにお吸い物を飲んで、小さく微笑んだ。
「ほら、名瀬さんも出てくれたあの番組。あれに、ここの板長さんに出てもらったことがあるんだ」
 その番組は、東と著名人の対談番組で、俺の父親も写真家として出たことがあった。あの後、少しばかり写真集の売上が上がって、テレビの凄さを知った。深夜番組なのに。そして、あれを見ると、東の世界の広さも俺は知る。
「ここ、季節感も味覚も素材も、どれもみんな大切にしているところで、俺も初めて行ったときは感動したんだ。それで対談申し込んだんだけど。あのときは、静かな対談で、結構苦労したな。何しろこの板長さん、食べて貰えばそれでいい、って人で」
「それなのに、よく対談なんか引き受けたな」
 この番組に出る人は、こう言う人が多い。俺の父親も渋っていたが、鷲見さんの頼みで断れなかったのだ。
「ああ、あのときは、それなら俺の質問に料理で答えてもらってもいいって言ってさ。結局、そんな感じの対談でもあったんだ。目の前で、俺のために料理を作ってくれるって言う……贅沢な体験だったよ」
 結局、この板長さんも、東に口説き落とされたんだと思ったら、少し可笑しかった。味も飾りつけも繊細なこの人は、さぞや困ったことだろう。そして、少なからず、東は気に入られたのだ。こうして、弁当を作ってくれるくらいに。
「何笑ってんの?イズルも今度、一緒に行こうな」
 こうやって、東は色々な人に認められている。作り上げたものだと本人は言うけれど、それだけでこんなに様々な分野の人間が惹かれるわけがない。人物評価に関してはなかなかうるさい俺の父親でさえ、いい奴だな、と言ったのだ。
 それは誇らしいことではあるけれど。
 少しだけ、東を遠く感じさせることでもあった。
「イズル?」
 ふっと手が伸びてきて、頭を撫でられた。いつもなら思わず周りを考えるが、今日は周りはとても静かで―――そして、その温もりが嬉しくて堪らなかった。
 近くにいる。
 東は、ここにいる。
 うっとりと目を閉じると、東の唇が重なった。
「来年も、ここに来ような」
 その言葉に、俺は微笑んだ。
 未来のことを簡単に口にする東が、眩しかった。
 それでも頷いたのは、もちろん俺も、そう強く願っていたからだった。


 今度、その料亭に行って。
 来年また、ここに花見に来て。
 そうして時を重ねていくことを、ひどく切実に、祈るように、思っていた。


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