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―少年性恋愛症―
降水確率30パーセント




 雨音がしていた。
 今日の天気予報では、曇りだったはずなのに、と秀は窓から外を見る。これでは、咲き乱れた桜は、散ってしまうだろう。そして、その花びらは雨に濡れて、汚れていく。
 ―――あれほど見事に美しく咲いていた花が。
 教室脇の低いロッカーは、秀の定位置だ。
 あの冬。
 投げかけられたコート、隣で同じ空を見ていた、その視線。自分も同じ空を見ていたのだから、その横顔を思い出せると言うのも変なのだが、秀ははっきりと、その横顔を思い浮かべることができるのだ。
 何故か、言葉は無い。
 モノクロームのフィルムのように、そして、それは繋がりなく、ふいに蘇る。
 吐き出される、白い息。
 今でも、泣きたくなる。
 それはつい最近のことであるのに、遠く彼方の記憶であるかのように、今は暖かい。

「どこか行こうか」
 ぼんやりとしていたら、後ろから声をかけられて、秀は驚いて振り返った。ドアに寄りかかるように、栄がいる。
「卒業式に出てたんじゃないの?」
「……出てないよ」
 俯くように答える栄が、嘘をついていることは分かる。一体どうやって抜け出してきたのだろう。秀は初めから、式にはでていない。もうとっくに始まった頃に、教室に来たのだから。
 どうしても、消すことの出来ない過去がある。そしてそれを、今更確認することは無いと思うのだ。
「なぁ、どこか行こう」
「どこかって……」
「そうだなぁ。南に行こう。関東は雨かもしれないけど、関西当りまで行けば、晴れてるぜ、きっと。この様子じゃ桜も見頃だろうし」
 秀はとんでもない提案に、笑っただけだった。
「曇りの予報だったのに」
「……いや、今日にはぴったりの天気じゃないか」
「そう?」
 秀が笑うと、栄も笑う。秀は今にも泣き出しそうになって、ロッカーから降りる動作で、その気持ちを誤魔化した。栄はいつも、こうやって自分を受け止める。ありのまま、見ていてくれる。
 秀がこの一期上の先輩たちの卒業式に出たくないのも、わかっているのだ。
 でも、そうやって逃げることをしたくないと言う、秀の思いも。
「行こう」
 当たり前のように言う、栄。どうせなら、二人で、遠いところへ。空が繋がっていることさえも、忘れてしまうだろう、晴れた場所へ。
「よし、花見だ」
 秀がそう言うと、栄はほっとしたように、笑った。


 急行列車と鈍行を合わせて二時間、空はいつの間にかすっかり晴れていた。列車の中で、栄はうとうとと眠っていた。秀が眠れない夜を過ごしたように、栄も同じ夜を過ごしたのだろうか。
 そう思うことは、あまりに傲慢だ。
 秀はそうわかっているのに、どことなく確信めいたものがあった。卒業式のことを、栄はとても気にしていたのだ。
 ―――殴るかもな。
 ふと、そう呟いた栄の真剣な目を、秀は覚えている。秀は噂のことは、あまり気にならなくなっていた。栄が変わらずに接してくれて、だんだんと友人と呼べる同級生も増えて、噂そのものも、忘れられていっていた。
 一度だけ、栄には言っていないが、一度だけ、その先輩と話したことがある。秀が捕まえたのだ。声を掛けると、真冬の、雪でも降りそうな校舎の裏で、その男はびくりと肩を揺らした。
『お前が、あれはお前が……っ』
『もう良いですよ。先輩はそうやって、ずっと言っていればいい。ずっと、苦しんでいればいい』
 いつまでも、怯えたように自分を正当化しつづけるその男が、秀には哀れに思えた。栄の強さを知った秀には、彼は、あまりにも卑怯で、臆病で、弱く見えた。こうやってずっと自分を騙し続けていたら、きっと彼の一部分、どこかが、壊れてしまうだろう。
 ―――それを、望むと言うのなら。
『俺は、もう何を言われても平気なんです。自分でも驚くほど、平気なんです』
 何もかもを、受け入れて、見つめてくれる、その上、間違いは正してくれる相手を、見つけたから。
『でも一つだけ、言って置きたかったんです。俺は、決して、あなたに抱かれたいと思ったことはない』
 彼がそれを否定しようとも、秀自身が、その相手に向かって、きちんと言って置きたかったのだ。
『違うっ。あれは、あれは……』
 喚くようにそう言う相手を置いて、秀はすっきりとした顔でそこを立ち去った。
 それでも、傷は癒えはしない。
「おー、晴れてる……」
 ぼんやりと、寝起きの霞んだ目をしたまま、栄が呟いたのを聞いて、秀は思わず笑った。鈍行列車の鈍い音が、心地よく響いている。昼間の鈍行列車には、あまり人が乗っていない。乗っているとしても、皆のんびりとしている。
 半分ほど開けている窓から、温かい風が入ってくる。目の前の老婆も、うとうとと気持ちよさそうだ。
「あ、桜」
「え?」
「見えた、今。結構大きかったぞ」
 鈍行といえども、列車は進んでいる。目の前の景色は、すぐに変わって、秀には桜が見えなかった。
「よし、降りよう」
「ここで?」
「そ。さっきの桜を見に行こう」
 そう言っているうちに、列車はゆっくりとホームに入っていく。人気のない、でも、ほのぼのとしたホームだ。降りたのは、二人だけ。
 小さな改札で乗り越し料金を払って駅舎をでると、そこは広場になっていた。相変わらず人気はないが、それがかえって二人に、開放感を与えていた。
 桜の見えた方向に、歩いていく。途中のコンビニで昼食を買い、だらだらと散歩のように歩いた。栄が、秀の影を踏みながら、追い駆けるように歩く。
 桜のある場所は大抵決まっている。その桜も、定番のように、神社の一角にあった。思ったより、大きい。
「満開だ」
「今にも散りそうだな」
 二人はそう言いながら、根元に腰を下ろす。ときおり風が吹いて、花びらがひらひらと舞っていた。地面にはその花びらが無数に落ちていて、きれいなピンクのじゅうたんを作っている。
 この花びらは、何処に行くのだろう。
 ここで、朽ちることなしに。
「なぁ、秀……知ってるか?……好きだよ」
 いつか言われた、セリフ。
「あぁ、知ってるよ」
 もう、誤魔化しはしない。
「栄は知ってる?」
「え?」
「―――好きだよ」
 また、風が吹いた。
 その風に、花びらが転がっていく。
 二人はそれを、飽きずに眺めていた。



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