晩 |
夏が、終わろうとしていた。 その事件は、夏が始まったばかりの頃に最初に起きたのだから、もう、三月は経つ。三月も経つのに、下手人は上がらず、人々は不安を募らせるばかりだった。 |
満月の夜に、女が一人、殺された。 その次の満月の夜に、また女が一人、殺された。 そうやって、満月の夜になると、女が一人、消されていく。 どの女も若く、乱暴をされて、無残なままに切り刻まれて打ち捨てられていた。 ―――鬼だよ鬼、鬼がいる。 いつしかそう囁かれ、ある、ひとつの噂が立ち上る。 ―――北の河原に、鬼がいる。狼を連れた、恐ろしい鬼がいる。 北の河原は葦が繁る荒野で、人家も少ない。昔から、この城下で何かあるごとに、この河原には色々な鬼が住まわされていた。 今度は狼を連れた、鬼、か……。 影親(かげちか)は日に日に丸くなる月を見ながら、一人ため息をついた。また、満月がやってくる。そしてまた、鬼が現れる―――。 『確かなのだな』 『……』 確かめたとき、和馬が無言だったのは、影親の心持を察してのことだったのだろう。和馬が、確信も持てずにあんな話を持ってくるわけがないと、影親はわかっている。 鬼の正体が知れた、と。 風のない夜の城下は、息を詰めたように、しんと静まり返っていた。 「月に住むのは……」 さわさわと風に揺れる葦の中、何処からか、歌声が聞こえていた。影親は微かなその歌声に、ふと足を止める。少し陽気なその歌は、かえって影親を身震いさせた。 脇に差す刀に手を置き、その声の出所を探して耳を澄ます。 「月に住むのは兎か鬼か……」 辺りは暗がりではあったが、満月に程近い夜のこと、月明かりに慣れた目には、その姿がはっきりと映った。小さな、あばら小屋のその前。生い茂る葦がふと途絶えて出来ている、空き地の真ん中で。 鬼が、酒盛りをしている。 傍らには、確かに大型の獣がいて、月光に銀色に輝くその毛から、あれが狼だろうかと影親は息を詰めた。一人と一匹、愉快そうに鼻歌混じりに歌っている。獣はその下手な歌を子守唄にしているのか、目を閉じて眠っているように見えた。薄闇の中では、その目がぴくりと動いたことまではわからない。 影親はゆっくりと刀を抜くと、何も言わずにその男に斬りかかった。 「なんだい、穏やかじゃないな」 仕留めた、と思った瞬間、背後から声がして、影親はすぐに振り返り様再び刀を振り下ろす。しかし、男は煩い小蝿を払うかのように、小刀でそれを容易く受け止めた。 「こんな美人に襲われるのは嬉しいが、これはちと手荒いんじゃないかい」 男は顔の半面だけで、そう笑う。息はひどく酒臭いと言うのに、動作に酔いは見られなかった。 「悪いが、黙って斬られてもらおう」 影親はそう言って、間合いを取ろうと飛びのいた。そうして構える影親に、男は腰に差した刀を抜こうともせずに、にやりと笑いかける。 「やめておきな。鬼退治と行きたいところは分かるが、お前さんには俺は斬れねぇ」 「何をっ」 影親がそう斬りかかると、男はひらりひらりと身体を交わす。その顔から笑みは消えず、まるで鬼ごっこをして遊んでいる、幼い子供のようだった。 「なんだ、遊んで欲しいのかい?それならそれと、早く言ってくれないと……」 いつの間に捕らわれたのか、両手を押さえ込まれて、影親は空を見ていた。そこにぬっと、男の顔が現れる。 綺麗だ、と思った。 鬼にしては、綺麗な顔をしている。少し荒々しいのも、野蛮に光る目も、端正な顔立ちを引き立たせてはいるが壊していない。 影親は思わず、唾を飲み込んだ。 本物の、鬼だ。 こいつはきっと、本物だ。 この目に魅入られたら、おかしくなる。 男はその影親の様子に喉をくっと鳴らすと、満足そうに微笑んで、首筋を舐めだした。影親は必死に抵抗しようとしたが、どこか力が入らない。その影親の足を割って、男の膝が影親自身を擦り上げると、思わず声があがった。 「……いい声してるねぇ」 分かっていて、男は影親の羞恥を誘う。それから影親の両手を片手で纏め上げると、自分の着物の帯でそれを縛った。 そこにふと、今まで寝そべっていた獣が歩み寄ってきて、低く唸った。黄金色に輝く瞳が、じっと男を見据えている。 「何だよ、なつ。お前は引っ込んでな」 男はそう言うと、影親の袷から胸元に手を差し入れる。どうやら今救いを求められるのはこの獣だけらしいと悟った影親は、無意味と分かっていながら、その金色の瞳に縋るような視線を送った。 「おいおい、やめておけ。次はあいつにやられるぜ。飼い主に似て、どうも美人が好きらしい」 男がくすくすとそう笑う。 「はっ馬鹿な。あれはただの狼だろう」 影親が事態に似合わぬ強い口調でそう言うと、男は面白そうにその顔を眺めた。 「狼だってよ、なつ。お前も随分偉く見られたな」 男の手は、止まることがない。滑らかな影親の肌を堪能するように撫でまわされ、胸の突起を探し出すと、今度はそれを丹念に転がした。膝もまだ動かされたままで、影親はそれに翻弄されそうになっては歯を食いしばって堪えていた。 「……違う、のか」 「……強情な姫さんだな。さっきみたいないい声、聞かせてくれないのか」 男は影親の問いに答えずに、そう言って胸の突起を口に含んだ。ねっとりとした温かな舌の感触に、影親は漏れそうになる声を、必死に噛み殺す。 身体が、痺れたように動かない。でもせめて、声だけは上げるものかと、むきになっている。 「あれはただの犬だよ。……なぁ、いいかげん諦めたらどうだい?」 口ではそう言いながら、男は今の状況を楽しんでいるようだった。股間に与えられる刺激は絶え間なく、そして、緩やかだった。そのもどかしさが、影親には堪らない。もっと強い刺激が欲しくて、思わず男を見ると、男はふいに動きを止めて、満足げにゆっくりと下唇を舐めた。 それが、いやに艶かしい。 それからすぐ、男の手が隠していた布を剥ぎ取ると、ひんやりとした空気にそれが触れて、影親ははっとしたように身を起こしかけた。といっても、頭上に手を縛り上げられていて、思うように起き上がることなどできはしない。 「おっと。まだ終わっちゃいねえ。お楽しみはこれからだ」 男はそう言って、影親の肩を押さえると、視線はその顔を見ながら、自分の指をねっとりと舐める。影親はこの後行われることを考えて、微かに背筋を震わせた。 男の背後に、その身体を覆うかと思うほどの大きな月が見えていた。満月にほんの少しだけ足りない、不完全に丸い月。 人は、こうやって狂っていくのかもしれないと、影親は思った。 男の指は影親の後ろをこじ開け、荒々しく動いた。苦痛に顔を歪めると、男が笑うのが見えた。 「そう言う顔も、そそるねぇ」 そう言って、男は片目を開いて少し考えた後、いきなり自分のものを突き立てた。 「うぁっ……」 あまりに突然で、影親は思わず声を上げた。圧迫感と痛みに、身を引き裂かれる。 「少しもったいないが、仕方がない。口止めにはこれが一番だからな……」 男が、そう呟く言葉さえ、影親の耳には入らなかった。動かれて、目の前が真っ赤に染まる。 「許さない。決してお前を、許さないぞ……」 揺られながら、影親はうわ言のようにそう言った。この屈辱を、忘れることはできない。 「あぁいいさ。許さなければいい。でもいいかい、俺のことは誰にも話すんじゃない。狼と鬼のことは黙っておきな。明日にはみんな、終わることさ」 男は、そう何度も言った。影親はそれを、痛みと屈辱の中で、聞いていた。 ―――噂は噂のままにしておきな…… そこからどうやって帰ってきたのか、影親は覚えていない。ひどく疲れ果てた様子に、和馬が何か言いかけるのを遮って、そうそうに床についたのは覚えている。 夢だったのか、と起きたときは思った。でもそれが、馬鹿げた希望だと、身体の痛みは教えている。 ひどく黒く艶やかな瞳が、じっと自分を見つめている。 その残像を追い払おうと、影親は何度も頭を横に振ったが、それはなかなか消えてはくれなかった。 「何をなされたのです」 影親が身体の具合がおもわしくないと横になっていると、和馬が見舞いにと訪れた。和馬は影親とは乳兄弟で、今は御文庫の取調方と言う表の役職を持ちながら、隠密まがいのことをしていた。 「兄上はどうしておられる」 影親は和馬には答えずに、天井を睨みながら呟いた。 「……今日は牧野殿から御講義を受けておられます」 「そうか……」 影親の視線は、天井から動かない。そこに思い詰めたようなものを感じて、和馬は思わず膝を進めた。和馬には、影親の考えていることがわからない。子供の頃のように、何でも話せる間柄では、なかった。 「影親様」 「和馬、言うな。わかっている」 今宵は満月。そして、満月の夜には――― 「動いたら、すぐに報告せよ。監視は怠るな。よいな」 和馬はそれに、ゆっくりと頭を下げると、するりと部屋から出ていった。 満月が、来る。 もうこれで、何度目の満月だろう。 ―――明日にはみんな、終わることさ。 男は、そう言った。そうであればいい。でも、今日が終わっても、また月は欠けては満ちるのだ。 影親はいつまでもじっと、天井を見つめて動かなかった。 その夜和馬がやってきたのは、亥の刻にも近い頃だった。 「影親様」 「……和馬か。御苦労だった。休んでよいぞ」 「しかしっ」 「和馬、情けだ」 影親がそう言うと、和馬は諦めたように自分の寝所に戻っていった。影親はそれから一人、そっと城を抜け出した。身体のだるさと痛みは取れていなかったが、そんなことを気にしているときではなかった。 自分の前を、見知った背中がゆらりゆらりと、何かに憑かれたように揺れながら歩いている。満月の夜に、それは恐ろしいほど殺気立っていた。月明かりにほの暗く照らされた横顔は、影親の知らないものだった。鈍く光る目が、狂気に侵されている。 兄は、狂ってしまったのだ。 影親はそう思うと、その姿から目を逸らした。いつからだったのだろう。こんな風に、狂ってしまったのは。 兄の宗親は、文武両道、人柄も優しく、誰からも好かれる影親の自慢の兄だった。影親にも優しく、幼い頃は、和馬とともに、宗親の後をよくついてまわっていた。 和馬が調べたところに寄れば、宗親の言動が多少なりともおかしくなったのは、兄弟の母である正室、お千代の方が亡くなられてからだと言う。 お千代の方は、とても厳しい人だった。兄弟にも、文武両道を極めさせようと、寝食を削ってまで、学問や剣道に励まさせていた。それでいて、とても弱い人だったのだと影親は思う。だから、色々なありもしない影に追われて、兄弟を、特に宗親を鍛え上げていたのだ。必ず、後継ぎになるようにと。 そんな母の重圧に耐えられたのも、兄がいたからだと影親は思っている。実際、宗親は母親の期待に充分すぎるほど答えていた。 その母の死が、何ゆえ兄を狂わせたのか。 それは、和馬にも影親にもわからないことだった。 ただ、和馬に城内を騒がせている狂人のことを調べさせた折、偶然のようにその宗親の所業が知れたのだった。 城下は風もなく、静かだった。月だけが煌々と、怯えたような町を照らす。そこに、闇を切り裂く鋭い叫び声が響いた。目を逸らしたのは一瞬だったのに、その視界から、宗親は消えていた。 影親は慌てて声のした方向へ走り出した。そう遠くはないはずだ。そう思いながら、胸が締め付けられるのを覚えた。 どうせなら、この手で――― 影親は鬼の正体が兄だと知ったとき、そう決めたのだ。鬼を眠らせるのは、自分であろうと。 しかし、声のした小さな路地に影親が入ったときには、娘が一人倒れているだけだった。近寄ってみると、気絶をして倒れただけで、着物が乱れている様子もない。 では、兄は―――? 影親はそれから必死になって兄の行方を探したが、とうとう見つからなかった。暁には城内に戻らないと、面倒なことになる。影親は探索を諦めて、重い足を引きずりながら、城へと戻った。 「影親様っ」 城に戻り、眠れずに夜明けを待っていると、廊下をばたばたと走る音が聞こえた。影親はそれに、すぐに身を正すと、和馬の到着を待った。 「何事だ」 襖の向こうで和馬が控えたのを察すると、影親は低い声でそう問い掛けた。 「申し上げます。宗親様が御寝所で自害なされました」 和馬がそう言い終わらないうちに、影親は襖を開け放した。 「和馬。今なんと申した」 「宗親様、御寝所にて自害……」 和馬の精一杯押さえた声を最後まで聞かずに、影親は兄の寝所へと向かった。 ―――どういうことだ? ―――兄上が、自害? 昨晩、兄を見失ったすぐ後、兄は城内に帰ってきて、自害をしたというのだろうか?罪の意識に、堪えられなくなって……? 慄く女中や小姓たちを尻目に、影親は兄の寝所の襖をばたんと開けた。そこには、昨晩と代わらぬ着物を着た、兄が確かに、こと切れていた。その腹に、深々と刀を差して。 「江戸に急使を」 影親は城代たちにそう告げると、しばらくその場を、動けずにいた。 ―――北の河原の鬼が消えたよ。これで町も平和かね。 しばらくすると、城下にはそんな噂が流れていた。その噂を聞いたときには、影親は、兄の死によって後継ぎとなっていた。兄の自害は気が触れたためと簡単に治められ、影親はそれに、何の異議も唱えることはしなかった。 それから一度目の、満月の夜。 影親はこっそりと城内を抜け出して、北の河原へと向かっていた。 ―――明日にはみんな、終わること あの男は、確かにそう言った。痛みと羞恥の中でのことで、影親は深く考えられずにいたが、あの男は、もしや鬼の正体を知っていたのではないかと思うのだ。 兄が自害したと、何度も信じ込もうとした。でも、影親にはそれは、俄かに信じがたいことだった。あの夜、自分は確かに狂った兄を見た。 ―――そして、消えた兄。 あの小路は行き止まりで、他に逃げ道はない。一体どうやって、兄上はあそこから消えたのだろう? 影親は色々考えてみたが、答えは見つからなかった。 無論、分かったところで、真相を暴こうなどとは思っていない。兄が自害したと言うのなら、それが最良の結果だったと言える。 ―――北の河原の鬼が消えたよ。狼もいないよ。 その噂を聞いたのは、最近のことだった。そうして、影親はその男を思い出したのだ。 全てを、知っているのかもしれない、その男を。 例え知らなくても、侮辱されたことを影親は忘れていない。殺してやると、誓ったはずだ。 北の河原はすっかり秋になっていて、葦に薄が混ざって、穂を揺らしていた。その風も、いまはもう冷たくなってきている。 忘れかけていた道順を思い出しながら、ようやく小屋にたどり着くと、そこはまるで誰もいなかったように、しんと静まり返っていた。風が草を揺らす音だけが、さわさわと微かに鳴っている。小屋の中も覗いてみたが、人気は全くなかった。 ―――北の河原の鬼が消えたよ。 あれは、本当に鬼だったのだろうか。 ―――あぁいいさ。許さなければいい。 月を背負ってその男は、哀しげでさえあったのではないか。 あの、不完全に丸い、月の夜に。 小屋を出て、見上げた月は満月だ。その月に照らされても、今夜は何も、起こらない。 ―――男と犬が、消えただけ。 影親の耳に、どこか遠くで、哀しげな犬の遠吠えが聞こえた気がした。 了
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終わりに。 絵を書いてくださった螢草さん、本当にありがとう。 もともとは、螢草さんのホームページ「冬虫夏草」さんでのキリ番リクエストとして、書いていただいたものです。お題は、「和風の絵」 私、この原画ももってるんですよ〜。 本当に、素敵な絵を貰ってしまった私は、幸せものです。 ところで、今回は肝心な男の名前が出てきていません……犬くんにはあると言うのに!いや、彼にも名前はあるんです。きちんと。 今回は、どうしても出せなくて…… と言うことで、続編はご希望により。 最後にもう一度、螢草さん、本当にほんとうにありがとう。 |