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二 人 の 領 分


果実が熟したことを知るのは、それが木から落ちる時である。    A.ジイド

高校生活も二年目となると、中だるみと呼ばれる時期になる。
つまらない。
毎日が、ただ過ぎていく毎日が、つまらなかった。
そこそこの進学校と呼ばれる高校に入って、中学から続けているバスケ部にも入った。
勉強は、本当のことを言えば、ワンランク高校のランクを下げたから、楽といえば楽だった。中学の先生も、親さえ騙して、この高校に入ったのだ。
別に、どうしてもこの高校が良かったわけではない。
でも、高校生活を勉強だけに終わらせるのが嫌で、ランクを下げたのだ。行きたい大学に行ければ、それで良いと思ったから。
だから、テストでもさほど必死に勉強しなくても、常に上位トップテンには入る。
このことを知っているのは、ただ一人。
ついうっかり言ってしまったこの話を、俺らしいと笑った、倉本佑也、こいつだけだった。
こいつの頭も良かったから、俺の運があったといっても言い。普通だったら、嫌味なヤツと思われても仕方がない。分かっているから、俺は、このことは絶対に誰にも言わなかった。
いや。こいつの性格も良かった。
大人しいが、言うときははっきりと物を言う。
その変わり、後腐れしない。俺のときも、「イヤナヤツー」と言いながら、俺の気持ちもわかるといって、笑った。
きついことを言われても、ふわりと微笑まれると、途端に誰も何も言えないのだ。
言っていることも、正しい。
でも、それだけじゃない。
瞬間じっと見つめられて、ふと微笑まれると、頷くしか、なくなってしまうのだ。
見とれている合間に。
勝手に、首が動いているような気さえする。

「おまえ、また先輩に言い寄られたんだって?」
もうすぐ、夏が来る。陽の落ちかけたこの時間でも、昼間の暖かさが衰えない。
珍しく走るだけで部活が終わって、俺は佑也と帰っていた。佑也は、生徒会に入っているから、こうして時々遅くなる。
「なんか嫌な言い方だな、言い寄られたって」
「だってそうだろう?」
「まあね」
佑也が、ため息をついた。俺の通う高校は一応共学だが、それなのに、佑也は男から言い寄られるのだ。一年のときも、何人かには言われていたみたいだが、二年になってからはとどまるところを知らない。
「健吾だって、一年の女の子に呼び出されたんでしょう?」
確かに。今日の昼休みに、突然。女の子って言うのはすごい。友達のためなら、二年の教室に来て、俺を平気で呼び出せるのだから。面識もないのに、だ。
「見てた?」
「聞いた」
俺が文系で、こいつが理系だから佑也とは、クラスが違う。それでももう知っているのだから、噂って言うのは早いと俺はそんなことに感心していた。
「どうだったの?かわいい子だったんでしょう?」
からかうように、笑っている。俺が断るのを知って、言うのだ。
俺は彼女とか、特定の恋人を作るのが嫌だった。束縛されるのが、堪らなく嫌いなのだ。
今は、女子大生と付き合ってはいる。でも、それはセックスフレンドみたいなもので、恋人でも何でもなかった。そんなお気楽な付き合いが、俺には一番だった。
「泣かれはしなかったけど、しつこくてちょっとまいったな」
それじゃあお友達で。お昼を一緒に食べましょう。
なんて言われても困る。それは、普通で言ったら、お友達には見えないんじゃないだろうか。
「付き合ってあげればいいのに」
「俺はおまえと食べてるほうがいいね」
そう言ったら、ふと顔を背けられた。もうすっかり落ちた日に、暗くて表情が見えない。
「おまえは、どうしたんだよ」
ふつりと黙った佑也に、俺は佑也の話に変えた。
「先輩、結構真剣だったんだろう?付き合ってあげれば?」
いつもの、冗談だった。いつもと、同じ答えが返って来ると思っていた。だから、言ったのだ。ほんの、軽口のつもりで。
「……それも、いいかもね」
返ってきたのは、予想もしない答えだった。俺は思わず、佑也のほうを見た。
でも、相変わらず、その顔は見えなかった。
輝きはじめた一番星を探すように、佑也は空を、見上げていた。

「え?」
今、なんて言った?
「だから、佑ちゃん、北上先輩と付き合ってるの?」
「どう言うことだよ」
「知らないわよ。聞いてるのはこっちなんだから」
祥子が両手を腰に当てて仁王立ちをしている。俺は良い天気に、窓を開けて外を眺めていた。その寄りかかっていた窓から、身を起こす。
「北上…」
聞いたことがある気がする。先輩と言うのだから、三年だ。
「やあね。運動部の先輩ぐらい覚えてなさいよ。バレー部の、キャプテン」
祥子が呆れたようにため息をつく。
「あぁ、この間佑也に言い寄ったヤツだ」
思い出した。確かに、そんな名前だった。
「またぁ?懲りないのね」
「またって…」
その俺の呟きに、祥子が盛大にため息をついた。目が、非難している。
「一年の時から、ずっとでしょう?知らなかったの?」
知らない。佑也はいつも、俺が聞かない限り何も言わないから。噂として耳に入れば、この間のように話題には出すが、それ以上は何も言わない。多分、佑也も聞かれるのを嫌がっている。
祥子は、佑也の幼馴染だ。俺と佑也が知り合ったのも、一年からクラスが一緒で、わがバスケ部のマネージャーの祥子に紹介されたからだった。
本当は幼馴染と言うより、姉のようだった。それを佑也に言うと、困ったように笑っていた。
「北上先輩って言ったら結構ファン多いのに。なんで男の佑也になんか…」
そこまで言って、祥子は仕方ないか、と呟いた。
廊下を、佑也が横切ったのだ。
男から見ても、線の細い、可憐と言う形容詞がぴったりなのだ。白い肌に、涼しげな顔。人形のように整っているパーツ。
でも見かけと違って、だいぶ頑固で、芯はしっかりしている。
極めつけは、あの微笑。
その全てを見ると、惹かれずにいられない。
それは、誰もが認めている。
「付き合ってるって、どこから聞いてきたんだ?」
「バレー部のマネージャーの子。マネージャー網をばかにしちゃいけないのよ」
「先輩が言ったってことか?」
「見れば分かるって、その子は言ってた」
そんなに、北上先輩とやらは嬉しそうな顔をしているんだろうか。
「まぁ、佑也が決めたんだから良いんじゃないか」
そう言うと、冷たい視線が返って来た。
「そ。健吾がそう言うなら知らない」
そう言って、祥子は怒って自分の席へ戻って行ってしまった。
…知らないって、何をだ?

「うん」
夜電話をかけて、付き合っているのか、と聞いたら、佑也はそう言った。
「いつから?」
「健吾に、関係無いだろう」
俺は一瞬、固まった。そう返ってくるとは、思っていなかった。
「関係ないって……そりゃ、そうかもしれないけど」
俺の中に、少しだけ、怒りが生まれる。
事実その通りだとしても、その言い方はないんじゃないか?
かりにも、俺たちは友達じゃないのか?
「冷たいな」
「そう?僕、わざわざ健吾にのろけるほどばかじゃないから」
何を言いたい?
見えないのが、もどかしい。
いつもの佑也じゃないのは分かっているのに、声だけではわかることが少なすぎる。
「今から、そっちいく」
「何?」
「おまえん家の近くの公園、そこで待ってて。一時間ぐらいで行くから」
俺は、返事も聞かずに受話器を置いた。聞いちゃいけないと、わかっていたから。
断る隙なんて、与えてやらない。
俺はすぐに、靴を履いた。

佑也の家まで、電車と徒歩で一時間。でも、俺は駅から走っていた。
月が、欠け始めた月が、街を照らしている。
不意に視界に入ったその月に、俺は少し不安を抱いた。
佑也のことが分からないなんて、なかったのだ。
こんな風に、突き放されるとは、思っていなかったのだ。
はしゃぐだけじゃなくて、ただ黙っていても、邪魔にならない。
そういう友人を、俺ははじめて見つけたのだ。
走りながらそんなことを考えているうちに、俺の足取りは、だんだんゆっくりになっていった。
佑也は?
佑也は、どうだったんだろう。
居心地が良いと思っていたのは、俺だけかもしれない。
その考えに、顔をしかめた俺は、ふと佑也の姿が目に入って、歩みを止めた。いつのまにか公園についていたのだ。
公園の、ブランコの囲いに寄りかかって、空を、見上げていた。
俺は声が掛けられなかった。
見たことのない、佑也がいた。
月明りに浮かび上がるその姿は、優しく輝いていて、でも、消えそうな雰囲気を纏っていた。
触れたら壊れると分かっているのに、触れたくなるシャボン玉のように。
俺は、追いかけられない。子供のように、無邪気にそれを追いかけられない。
ふわふわと飛んで行くのを、眺めているしかない。
「どうしたの。急に来るって言うからびっくりした」
そう微笑んだその笑顔が、割れないように、祈るしかない。
行き着く先を、佑也自身が決めたのだから。
「会いたかったんだよ」
俯いてそう言ったら、佑也は、泣きそうな顔をした。
どうして、そんな顔をする?
そう聞きたかったのに、聞けなかった。もう離れてしまった距離に、俺は戸惑いと不安しかなくて、その距離そのものを測ることさえ出来なかった。
「それで、一時間もかけてここに来たの?こんな夜中に?」
呆れたように、小さく、微笑む。瞳は、泣きそうなのに。
それが直視できなくて、俺はまた俯いた。
「先輩、優しい?」
馬鹿なことを、聞く。
「優しいよ」
声が、震えている。
「ごめん。もう行かないと怒られる。黙って出てきちゃったから」
そう言って、歩き出した佑也を、俺はひきとめなかった。
引き止められるはずがなかった。
その夜、俺の頭から、佑也の姿が離れなかった。
月明りに佇んでいた、あの、姿が。

「ばかなんじゃない」
祥子が、俺の頭上からきつい一言を浴びせる。
「何が」
わかっているのに、俺はふてくされた声でそう答えた。
「佑ちゃん取られて、ふてくされて、みっともないったら」
容赦がない。分かってるよ、そんなこと。
「わかってない。健吾は何もわかってない」
祥子がそうため息をつく。
「この間からなんだよ。知らないとか、わかってないとか」
「教えてあげない。そんなことは自分で佑ちゃんに聞きなさい」
だから、何を聞けって言うんだ?
あいつが、北上の隣にいることを選んだんだ。北上は男だけど、友情より愛情をとるのは、仕方ないじゃないか。
「……ばかすぎて、相手してらんない」
祥子が、怒ったようにそう言った。俺もいいかげん腹が立ってくる。がたんと立ちあがって、佑也のクラスへ向かった。
とにかく、聞いてみよう。祥子が何を言っているのか、聞けと言うんだから、聞いてみよう。
俺はそう思って、残り少ない昼休みを気にしながら、佑也のクラスへ行った。
それなのに、佑也はいなかった。北上に呼び出されたらしい。
俺は急いでバレー部の部室へ向かった。でも、そこに行くまでもなかった。
部室に行くときの、近道。体育倉庫の裏を通ったら、二人がいたのだ。
キスを、していた。
壁に押しつけられて、佑也の口に、北上の口が、重なっていた。
瞬間、俺は回れ右をした。
見なかった振りをした。何も、見なかった振りをして、駆け出した。
見なかった振りを、しようと思ったんだ。

「部活、どうしたの」
「休んだ」
俺は生徒会の終わるまで、佑也を待ち伏せた。自分でも、何をしたいのかわからない。でも、そこを動こうという気はなかった。
「レギュラー、外されるよ」
「かもな」
教室には、誰もいなかった。今日も夕焼けがひどく赤かった。教室中の空気が、赤く染まったようになっていた。
俺は机に腰掛けて、佑也を見ていた。ゆっくりと、鞄に教科書やらノートやらを詰めている。ひどくのろのろしたその動作が、濃い夕陽の空気に、溶けていくようだった。
白い肌。
白いから、綺麗に夕陽に染まっている。
柔らかい髪が、それを誇る様に、きらきらと光っている。
俺はそれに吸い込まれるように、佑也のそばに立った。
我慢ができなくなって、その髪に触れる。佑也が、びくりと体を竦ませたのが分かる。手が、止まった。
そっと、肩に手を置いて、口付けた。
触れるだけの、一瞬の、キス。
「見てたんでしょう」
唇が離れた途端、佑也の自嘲気味の笑いが聞こえた。俺ははっとして、肩から手を退けた。
「最近は女子大生のお姉さんに相手して貰ってないの?」
「佑也…」
「それとも、男とやるのに興味があった?」
「佑也っ」
思わず声を荒げた俺に、佑也が俺を睨みつけた。
「中途半端な独占欲なんて、いらないんだよっ。そんなの、残酷だよ」
泣くまいと、必死で耐えているのが分かる。手を、ぎゅっと握って、必死で。
「友達、なんだろう?俺たちは、それ以上には、ならないんだろう?」
友達なら、友達の領分で。優しさも、独占欲も、嫉妬も。
分からなかった。
俺は、何処まで踏み込みたいんだろう?
口付けたのを、間違いとも、気まぐれとも言いたくなかった。
そんなことは、絶対無いと、言いきれる。
でも、分からなかった。自分の気持ちが、わからなかった。
俺は、佑也を好きなんだろうか?

夏休みが、迫っていた。
俺と佑也は、相変わらず、友達を続けている。
二人で、大事なことには触れないように、避けている。
何も無かった様に、以前と変わりない、そんな関係を、続けている。
「そんなんでいいの?」
祥子が、半ば諦めたように言った。
「健吾、残酷」
それから、そんなきつい言葉を言ってくる。
そんなこと言われても、佑也がそれを望んでいるのだ。以前のままでいたいと、望んでいる。
「おまえ、知ってたの」
窓からの風が、気持ちがいい。知らない間に、夏が来ていた。照りつける日が、熱い。
「なんとなく」
「女の感?」
「小さい頃から知ってるから。あの子の、あの無い表情を読むの、得意だったのよ」
祥子も、窓に背を向けてその桟に寄りかかる。
「気付かない本人も本人だと思うけど」
相変わらず、きつい。
「どっちかにしなよ。健吾の優しいのは、私も知ってる。それに甘えたくなるのも。佑ちゃんからは、離れられないんだよ」
わかってる。でも、祥子、それは少し違う気がする。離れられないのは、佑也じゃない。
俺は、盛大にため息をついた。晴れた空に、似合わないくらい。

部活が終わろうと言うときに、ちょっとおいで、と犬のように俺を呼んだのは、かの北上先輩だった。
にっこりと笑った顔は、優しそうで、男前だ。人気があると言うのも、分かる気がする。
キャプテンを見ると、行って来いと、顎で促された。俺はストレッチを途中で切り上げて、隣のバレー部のコートへ入った。
「何ですか」
なるべく、平静を保つ。俺は、昔からこんなことは得意だった。
「噛み付いてくるかと思ったら、いやに冷静なんだ」
たった一つしか違わないはずなのに、大人の笑いをしている。それが似合うから、嫌味なんだ。
「ちょっと俺とストレッチしよう」
「は?」
俺が聞き直している間に、肩を掴まれて、座らされる。俺も背は高いし、そこそこ筋肉はついているはずが、やはりバレー部のキャプテン兼エースには、敵わないらしい。
前屈をするように、背中を押される。ちょっと力が入りすぎてる気がするのは気のせいか?
「柔らかいんだね。つまらないなぁ」
やっぱり気のせいではないらしい……。
今度は、足を開いての前屈。
ぎゅっと押された瞬間、耳元で囁かれた。
「佑くん、かわいいよね」
思わず振りかえろうとした俺を、ぎゅっと力いっぱい押してくる。痛いだろうっ。
そうは思っても、意地っ張りな俺は、口には出さない。
「はい、次は右」
声が笑ってる。佑也、こいつはやめておけ。性格悪い。
「キスしたら、真っ赤になっちゃって……」
「のろけるなら、他の人当たってくれませんか?俺、これでもレギュラーなんです」
苦しいのに、それを見せずに言ってやる。
「ごめん、ごめん。はい、足組んで」
組んだ足の、両膝を押さえられる。本当に、容赦無い。
「何を言いたいんです?」
俺は少しイライラしてきていた。遊ばれているのは、趣味じゃない。
「うつ伏せに寝て」
答える気がないのか、北上は指示を出すだけだ。俺はため息をつきながら、指示に従う。その俺の足を片足づつ、折り曲げる。
「健吾くん……」
「はい?」
「あの子が、そう言ったんだよ」
「え?」
「抱こうと、シャツのボタンを外したら…」
俺は、反射的に北上に掴みかかった。うつ伏せになって、足を押されていたのに、だ。
「危ないよ。ストレッチ中に急に動いたら」
それなのに、北上は顔色一つ変えずに、そう言った。俺に胸倉を掴まれて、いるのに。
「すいません」
その顔に、俺も冷静になる。
俺の、口出すべきことじゃない。
その激情が、本物だとしても。
今になって、そんなことが分かっても。
「謝られたら、こっちの立場が無いなぁ」
北上が笑った。それから、またストレッチに戻るように促す。
「仰向けね」
また、片足づつ折り曲げられる。その顔が俺の真上に来たとき、北上がにやりと笑った。
「ごめん。嘘」
は?
「抱いてないよ。キスしただけ」
……嵌められた。俺は、悔しさにその手で床を思いきり叩いた。
北上が、そんな俺を楽しそうに眺めていた。
やっぱりこいつの性格、悪いぞ、佑也。

ストレッチが終わった頃には、もう俺の方の部は解散していた。俺は部室で一人、着替えていた。
からりと戸が開いた。誰か忘れ物でもしたのだろうと、俺は気にせず帰る用意を続けていた。でも、いつまでも戸を閉める音も、中に入ってくる様子も無くて、俺は振り向いた。
「佑也……」
立っていたのは、佑也だった。
「北上さんなら、隣。でもまだじゃないの」
俺は、冷静さを装う。さっき気付いたばかりの感情は、置いておこうと、努力する。
「知ってる」
「どうしたんだよ」
「待ってたのは、健吾だよ」
俺は、思わず顔を上げた。今まで、見られなかったのだ。怖くて、だめだった。
「北上先輩とは、なんでもないんだ」
「でも、倉庫裏で……」
「あれはっ、急に北上先輩が押さえつけてきて」
佑也が真っ赤になっている。部室の、裸電球の小さな明かりでも、はっきりと分かる。
俺は、それと同時に、わかった。あれは、わざとだったんだ。俺が来ているのを知っていて、北上がやったんだ。
「おまえ、付き合ってるって言ってただろう?」
そう、まだ引っかかっていることはある。はっきり、そう言ったのを、俺は忘れていない。
「健吾が、付き合ってみればなんて言うから」
「でも、付き合ってないって?」
俯いたまま、こくりと頷く。俺は手にしていた荷物を、取り敢えず机の上に置いた。それからゆっくり、佑也に近づく。まだ中に入っていなかった佑也の後ろに手を伸ばして、ドアを閉める。必然的に、佑也は前に歩を進めた。
目の前に、佑也がいた。
俯いて、ぎゅっと手を握って。
「どうして」
囁く。その耳に、触れそうになるほど近くで。
小さく、佑也が震えるのが分かる。
「僕が、言うの?」
「だって、よく考えたら聞いてない」
「……だから」
「ん?」
「健吾が、好きだから」
目の前の耳が、真っ赤になる。俺は堪らず、佑也を抱きしめた。
「俺も好きだよ」
囁いて、口付ける。
「もう、なかった事にしないから」
もう一度。
それから、耳元に、首筋に、キスを降らす。躊躇っていた佑也の手が、俺をぎゅっと抱きしめた。
その瞬間。
「佑くん、一緒に帰ろう」
そう言って戸を開けて現れたのは、北上だった。顔が、堪えられないと言うように笑っている。
「てめぇ、確信犯だろう!」
「イイコトしたいなら、鍵くらい閉めようね、健吾くん」
「閉めてたって、邪魔しただろう」
そう言う俺に、北上はもちろんと、頷いた。
「健吾くんには貸しがあるからね。しばらくは楽しませてね」
そう、にっこりと笑う。俺は、何も言えなくて、ぐったりと佑也に寄り掛かった。
「け、健吾?」
佑也が、困った顔をしている。それがかわいくて、俺はまた、脱力した。
つまらない毎日とは、これでさよならだ。
そう思うと、なんだか名残惜しい気がしてきた。
失って初めて気付くことの、なんて多い事だろう。
でも、もう離さない。
もう、絶対に。



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