モノクロームの部屋
灰色の街が、灰色の雲に覆われている。
目に見えないほどの細かい雨が降っているのは、部屋の中にいる高生にはわからなかった。猫のネストールを抱きながら、ぼんやりと眼下の路地を見ていると、足早に通り過ぎる人々が、どうやら雨が降っているのだということを教えてくれた。
この街の人々は、これくらいの雨なら傘を差さない。濡れたままで、下手をすれば悠々と歩いている。それでもこの霧雨は、しっとりと布に染み込むはずだ。
そんな風に一人、長身の影がゆっくりと路地を歩いてくるのが見えた。鼻歌でも歌っていそうな雰囲気で、濡れているはずの金髪は、まるで太陽の日に光るように、きらきらとしている。メトロの駅からこの部屋まで、それほど遠くはない。だからまだ、髪に水滴がついている程度なのだろうと、高生は考えた。
どこからか飛ばされてきた、マロニエの茶色い葉が、その足元に落ちている。それを一つ一つ楽しそうに避けながら、男は高生の部屋の窓の下まで来ると、ふいに顔を上げた。高生は驚いて、思わず窓から顔を背ける。それでも、その瞬間に見えた、にっこりと笑った顔が、焼きつけられたように脳裏に残っていた。
「なんで引っ込めちゃったの?」
案の定見えていたのだろう。ジェロームは扉を開けた高生に、不思議そうにそう言った。高生は適当にごまかすように笑うと、タオルを差し出した。
待ち侘びていたように思われるのは、嫌だった。何度も頼まれて、しぶしぶモデルになることを了解したのだ。今ではそれが、楽しみになっているなどと、言えるわけがなかった。
「あぁありがとう。でも平気だよ。すぐに乾く」
差し出されたタオルをジェロームはそう言って断ると、柔らかく笑った。高生はその笑顔に顔が赤くなりそうになって、キッチンへ向かう振りをして、くるりと後ろを向いた。ネストールが、その脇をするりとすり抜けて、ジェロームの足に顔を擦りつけて挨拶をしている。最初は噛み付かんばかりの勢いで警戒していたはずのこの気難しい猫でさえ、今はジェロームになついているのだ。
そのネストールに、ジェロームはフランス語で挨拶をしている。祖父が日本人だと言うジェロームは、高生とは好んで日本語を話した。
「ジェローム、カフェ(コーヒー)?テ(お茶)?」
「緑茶!」
その答えに高生は微笑んで、急須に茶葉を入れる。こんな雨の日は、ジェロームは大概緑茶を欲しがるのだ。それがどうしてなのか、高生は聞いたことはなかった。
緑茶を持って部屋に行くと、ジェロームはネストールを膝に抱えて、撫でていた。ネストールは気持ちよさそうに、目を細めている。
ジェロームは写真専攻の学生だったが、趣味として絵を描いているらしく、高生をモデルに、二週に一度はデッサンをする。それがここ半年ほど続いて、ここのところはずっと、高生の背中を描き続けている。
今日も高生は、上半身だけ裸になって、ぼんやりと外を眺めることになった。座って、という指示が出たために、膝を抱えて空を見上げる。どれだけ目を凝らしても、やはり雨の水滴は見えない。
高生の背中は美しい、とジェロームは言う。すらりとした、無駄のない筋肉が柔らかく骨を浮かび上がらせて、とても綺麗なのだと。高生には、あまり美しいと言う言葉がわからない。ジェロームにそう言うと、だから哲学専攻の奴は……、と笑われた。でも、高生は本当に分からないと思うのだ。背中、指先、瞳。ジェロームはそれらを、美しいと言う。だから、高生はわからなくなるのだ。近くで見ても、遠くで見ても、自分の指先を美しいと思ったことは一度もない。
静かな部屋に、木炭の音だけがかすかに響く。電気を点け忘れたせいで、曇りの日の部屋は暗いが、ジェロームはそんなことには気が付かないだろう、と高生は思った。真剣に、じっと高生の背中を見つめているジェロームが目に浮かぶ。こんな風に、背中を向けているときの方が、どうしてその顔をはっきりと見ることが出来るのだろう。
出会ったのは、大学だった。天気のいい昼休みに、外でサンドイッチに齧りつきながら本を読んでいるところに、声を掛けられたのだ。あまり癖のない日本語に、高生は瞬間何も答えられなかったのを覚えている。そのときに、祖父が日本人で、幼い頃から日本語を習っていたのだが、昨年祖父が亡くなってから話し相手がいなくなったのだ、というようなことを言っていた。それで、日本語を忘れないようにするためにも、話し相手になってほしい、と言うのが始まりだった。
言葉だけではなく、ジェロームは日本的なところがあった。そう言うと、おじいちゃん子だったからなあ、などと言う。その言葉に、高生は感心しつつも可笑しくて笑ってしまった。
モデルに、と言われたときには、高生は困惑した。自分をモデルにして絵を描こうというジェロームの気持ちも分からなかったし、他人にじっと見つめられることに慣れていないこともあった。
「いつかは、写真も撮らせて貰うかもしれないけど、今は絵を描きたい。それに、慣れてないなら慣れればいいよ」
渋る高生に、ジェロームはそう言った。それでも、高生はなかなかいいとは言えなかった。
そのころから、ジェロームに強く惹かれていたのかも知れない。フランス人的な情熱さもあるかと思えば、冷静に自分を見詰めたりしている。何よりも、彼は孤独の素晴らしさを知っている。
高生には、フランス人は常に誰かと一緒に居たがっているように見えた。だから、孤独を愛せる仲間を見つけたようで、とても嬉しかったのを覚えている。この週末に、たった一人で部屋で本を読んでいようと、寂しいなどとは言われないのだ。
こんな雨の日は特に、ただぼんやりと考えごとをしたり、外を眺めたりするのが高生は好きだった。
――そこに、ジェロームがいる。
それが少しも邪魔な存在ではなくなってしまったことに、高生は戸惑っていた。そんな風に他人を自分の領域に入れる日が来るとは、思っていなかったのだ。
よく耳を澄ますと、さわさわと雨の音が聞こえてくる。少し、雨脚が強くなったのかもしれない。高生は膝を抱えて座ったまま、すっと顔を上げた。窓を見ると、確かに雫がガラスを伝っている。
ジェロームが好きなのだ、と高生は思う。
自分を描き出す、筋肉質なあの腕に抱かれてみたいと思いさえする、その自分の気持ちを、高生はどうすることもできずにいる。そうなることをわかっていて、高生はモデルになることを拒否していたのだろう。
「少し、休憩しようか」
ぼんやりと窓ガラスを見つめていた高生に、ジェロームがふわりとシャツをかける。そのままジェロームがことりと頭を肩に乗せてきて、高生は一瞬硬直した。
「また、上手くいってないの」
「日本語は優しいね。全てを曖昧にできる」
ジェロームは高生の質問には答えずに、そんなことを言う。それに、同じことじゃないか、と高生は思う。フランス語で言っても、きっとジェロームには伝わるだろう。それがたとえ、少しばかりおかしな文でも。誰が、誰と。そんなことは言わなくてもわかりきっているから、高生は言わないだけだ。曖昧にするのは、高生ではない。聞かれている、ジェロームだ。
「お茶を淹れよう」
高生がそう言って立ち上がろうとすると、ジェロームがもう少し、と小さく呟く。こんな接触を、高生は嫌っていたはずなのに、そのままジェロームを抱きしめたくなってしまう。
ジェローム。
呼んでしまったら、きっとわかってしまう。だから高生は、ただ目を閉じて、その衝動をやり過ごす。
雨の日のジェロームは、いつでも少し不安定だ。どこかとてもくらい瞳をして、デッサンをしていることが多い。そして、こんな風に触れ合うことを求めるときは、ずっと付き合ってきた彼女と上手くいっていないときが多い。
何度それを繰り返しても、二人は離れられないのだ。そんなことは、高生が一番良く知っている。高生がジェロームと知り合った一年の間に、何度も繰り返された傷つけあい。その互いの傷を直すことが出来るのも、互いしかいない。
ひどいことだ、と高生は思う。自分の入る隙なんて、これっぽっちもないのだ。
そのジェロームの彼女、今では高生の数少ないガールフレンドでもあるマリアから電話が来たのは、それから数日経ってからのことだった。高生はグラスにビールをついで、電話をとる。晴れた日の午後、授業のない日は、昼間からビールを飲むのが好きだった。くせのない、スコッチ入りの、かすかに甘いビール。
「高生?元気?」
自分は少しも元気そうではない声で、マリアが囁くように言う。少しだけハスキーなその声を、高生は気に入っていた。
「元気だよ。ジェロームとはまだ仲直りしてないの?」
受話器を肩と顎の間にはさんで、片手にビールを持ったまま、もう片方の手で電話を持ち上げて窓際に移動する。電話を置いて出窓に腰掛けると、向いの住人がキスシーンを繰り広げているのが見えた。
「ジェロームの話はやめて。私はあなたに電話しているのよ」
マリアのフランス語はゆっくりしている。始めは高生にわかりやすいようにゆっくり話してくれているのかと思ったが、マリアは誰にでもこんな風に話す。それで議論に負けたりしないのは、マリアの声と微笑みのせいだと高生は思っている。耳を傾けずにいられない、なかなか遮ることの出来ない、真摯でチャーミングな声。
「そうだね、ごめん」
ビールを流し込みながら、それ以外のどんな用事で電話など掛けてきたのかと思っている高生は、誠意を込めずにそう謝った。
ぴったりと、もうセットとなっている二人。
「飲んでる?」
「うん、わかる?ビールをね。晴れていて美味しい」
「ええ、わかるわ。いい匂いがする」
マリアがそう笑う。それにつられて、高生も小さく微笑んだ。ジェロームが、落ち着いていていい笑顔だ、と誉めた顔だ。
ジェロームは何も知らない。それが、高生を安心させる。無邪気に、作為なく、高生の背中が好きだというジェローム。
「ねえ、私も日本語を習おうかしら」
「どうしたの、突然」
日の光が、コップに注がれたビールをきらきらと照らす。
「知らなかった?私、ずい分前から日本に嫉妬してたの」
マリアが明るくそう言う。高生は、それは奇遇だ、と笑った。
「実はね、僕も前から嫉妬してたんだ」
暖かい陽だまりのなか、少しだけ酔ったのかもしれないと、高生はぼんやりと思った。
フランスの四季はわかりずらい。暑さが和らいで来たかと思って、秋を心待ちにしているうちに、冬がきてしまう。だから、後になって、あの頃が秋だったのだ、と思い出したりするしかない。そんな風に、秋はもう過ぎてしまったかのような、寒い夜だった。朝から降りつづけている雨は夜半過ぎにも止まず、日を一度も見なかった街は冷え切っている。高生は、その冷たい石畳を足早に歩いていた。美術館の図書室で調べものをしているうちに遅くなり、どこかで軽く食事をして行こうと考えているところに、同じ学校の生徒に会ったのだ。二三度言葉を交わしたことがあるだけの相手だったが、一緒に食事をしようと強引に誘われ、結局日付が変わってから解放された。
高生は思わず、ため息をついた。
一人で食事をするよりは、大勢でした方が楽しいのは高生も一緒だ。でも、今日はそういう気分ではなかった。頭に詰め込んだ資料を整理したかったし、静かで豊かな食事を必要だとも思っていた。お酒を呑む気分でも、なかった。
断れなかった自分が悪い、と思う。はっきりと言わなければいけないことは知っているのだ。それでもときどき、流されてしまう。
寒さに震えながらアパートまで辿り着いた高生の影に、ふともう一つの影が重なって、高生は差していた傘の中から顔を上げた。
「ジェローム?!どうしたのこんなところで」
叫んだ息が、ほんのり白い。ずい分と気温が下がっているのだ。
「高生を待っていたんじゃないか。それなのに、高生はちっとも帰ってこない」
高生はそう言われて、思わず約束をしていただろうか、と思い巡らすが、そんな記憶はない。強くなくとも降りつづける雨に、ジェロームはすっかり濡れてしまっていた。
「コード知ってるのに、なんで入らないんだよ。すっかり濡れて、これじゃあ風邪をひく」
高生はそう言いながら、急いでコードを押してドアを開ける。それから、ジェロームを押し込むようにその中へ入れた。
高生の部屋は六階だが、幸いなことにエレベーターがついている。高生は呆れた顔のまま、ジェロームをそのエレベーターに押し込んだ。決して新しくないエレベーターは、がたんっと大きな音を立ててゆっくりと昇っていく。
「来るなら、連絡してくれればよかったのに」
「部屋まで行ったけど、高生はいなかったじゃないか。連絡しても同じだよ」
拗ねたようなジェロームの声に、まるで子供のようだ、と高生は思う。高生は気付かれないようにため息を我慢すると、エレベーターのドアを開けた。
部屋の鍵を開け、ジェロームにシャワーを浴びるようにいい、コーヒーを淹れる用意をすると、高生は今度は盛大にため息をついた。ジェロームがこんな風に、高生の部屋を訪れたことはない。いつでも、きちんと電話をいれてくれるのだ。
――マリアと、雨か……
高生はまだ降りつづけている雨の音を聞きながら、ソファーに座った。途端、疲れが襲ってくる気がする。ネストールが足元によってきて、労わるように顔を擦りつけた。
「……ごめん」
シャワーを浴びたジェロームは、出てきて最初に、そう呟いた。高生より体格のいいジェロームに、大き目の服をあてがったと言うのに、やはりどこか窮屈そうだ。
「いつからいたの」
「高生に、迷惑をかけるつもりじゃなかったんだ」
ジェロームは高生の質問には答えずに、そう言った。
「……迷惑なわけじゃないよ」
高生はようやくそれだけ言うと、言葉を続けられずに黙ってしまった。静かな部屋に、雨の音だけが流れている。
迷惑なわけでは決してない。でも、切なくて、辛い。
「コーヒー、飲むだろう?」
沈黙に耐えられずにそう言って立ち上がると、ジェロームにふいに抱きつかれた。
「ジェローム」
心臓が跳ね上がって、それから泣きたくなって、高生は目を閉じて必死に自分を落ち着ける。何も知らない、残酷なジェローム。
「雨が降ると、祖父を思い出す」
大きい身体を高生に預けたまま、ジェロームがそう呟くのが聞こえた。
「小さい頃から祖父に預けられた俺は本当におじいちゃん子でね。気も弱くて、少しだけフランス社会のはみ出し者みたいだったんだ。文化のギャップっていうのかな。俺、フランス人なのに。祖父の故郷にいたら、どれだけ楽だろうと思ったよ。その祖父が亡くなったのが、こんな雨の日だったんだ」
情けないことに、未だにそれをひきずってるんだ、とジェロームが言う。
「高生は、祖父を思い出させる。大好きだったんだ」
ジェロームの言葉に、高生は小さく「うん」とだけ言うと、その背中を軽く叩いた。
「大学辞めて、日本に行こうかと思ってる」
ふとジェロームがそう言って、高生は思わず「え?」と聞き返してしまった。
「マリアが、それに反対してる。もう、帰ってこないつもりかって」
日本に、嫉妬してるのよ。そう言った、マリアの哀しそうな声が蘇った。そのマリアに、高生は少し同情する。
「マリアがそう言うのも、少しわかる気がするよ、俺」
高生がそう言うと、ジェロームがやっと顔を上げた。
「マリアを、連れて行かないの?」
「まだ、早いだろう。日本で仕事でも見つかれば、そのときは呼ぶつもりだけど」
「それ、ちゃんと言った?マリアに」
微笑むようにそう言いながら、自分はちゃんと笑えているだろうかと高生は頭の隅で考えていた。
「言わないよ。確実じゃない約束なんて、できない」
でもそれでは、マリアは不安だ。
「将来のことを、ちゃんと二人で話し合いなよ。それから、日本行きのことを決めれば」
高生がそう言うと、ジェロームは少し考えて、頷いた。
高生は、雨の中を飛び出していきたい、と思っていた。そうしたら、泣いてもきっとわからない。
「コーヒー、入ってるから。俺もシャワーを浴びてくる」
そんなことが叶うはずがなくて、高生はそれだけ言うと、シャワールームに向かった。
いつまで、こんな風に、良い友達でいられるだろう。
高生はただ必死に涙を堪えながら、そう思っていた。
あとがきという名の……
カウンター15000の際の地中海さんからのリクエストでした。
リクエスト内容は、「キーワードは秋の雨。舞台はフランス。」それに、物静かで、きちんと真面目な美人さん。そういう人が片思いをしているのもいいかも。というものでした。
片思い。
そう言えば書いていない(基本的にどんな意味であろうと、ハッピーエンドが好きなので、きっと書いていなかったのでしょうね)と思い、片思いに。
リクエストしてくださった地中海さん、ありがとうございました。
これからも、am5h00ならびに初瀬をよろしくお願いします。 初瀬 拝