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ナチュラル・ライフ
ニッキ1001記念
たった一言に、振り回されている。
「その声で言われたら、何でも信じちゃいそうだよな」
「好きですよ」
「え?」
「信じました?」
誰かが遠くで呼んでいるが、もう二日も寝ていない総(そう)の頭は容易に起きようとはしない。狭く、寝心地の悪いソファーで毛布を引きずり上げて、総は雑音を防ごうとした。
「起きてください、先輩」
「うわっ」
ずり上げたばかりの毛布を跳ね飛ばして、総は跳ね起きた。心臓がドキドキ言っている。
「お前なぁ……」
まだ起き切らない頭を抱えて、総がうめいた。その隣で、栄(さかえ)は可笑しそうに笑っている。
「耳元でしゃべるなって言ってるだろ」
「……そうしないと起きないくせに」
「何だって?」
「いいえ。お仕事ですよ」
総とは反対に、栄は爽やかな顔をして、そうにっこり笑った。その笑顔に、総はどうしてこいつはこんなに元気なんだろうと思いながら、すぐ行くよ、と言ってまたソファーに横になる。栄はそれを呆れたように見ながら、コーヒーでも持ってきます、とため息をついた。
―――まったく心臓に悪い。
総は、遠ざかる栄に見えないようにため息をついた。栄の声は、いつ聞いても背筋がぞくりとする。それは、穏やかで、甘美で、温かい。それでいて、どこか麻薬のように、癖になる。
「あぁ、ありがとう」
コーヒーの香ばしい匂いが香って、総はやっと起き上がる。時計を見ると、もう昼近かった。これでも、五時間は寝たのか。
「もう五日は帰っていないでしょう?体壊しますよ」
栄は総の足元に腰掛けて、コーヒーを渡した。まだ眠そうな目に、思わず笑みが零れた。撫でつけることも忘れられた髪は、あらゆる方向に向いていて、総の年をさらに若く見せる。まるで、子供みたいだ。
「説教はいいよ。何が起きた?」
寝起きだからと言うだけではなく不機嫌な声を出して、総がコーヒーを啜った。
「見つかりましたよ、先輩が探し回ってた彼女が」
栄の言葉に、総の動きが一瞬止まる。それからこくりと音をさせてコーヒーを飲むと、話の先を促した。
「しばらく友達の所にいたようですが、すぐに新しい男を見つけてそこに隠れていたようです。住所は……」
「行こう」
総は立ち上がって、上着を羽織る。栄はその後を、急いで追い駆けた。
「何も知らないわよ」
沙希はそう言いながら、煙草の煙を総に吹きかけた。それから、煙たそうな顔をする総ににっこりと笑いかける。冬なのに暖房の効いた室内で、下着のようなキャミソール姿で、太腿も露な格好をしている。
「下倉から何か預かってないの?」
「なーんにも」
総の愛想のいい笑顔に、沙希がそう答えながらしな垂れかかる。確かに、男をたらしこめる身体だ。
「それなら、何故逃げたんだ?」
進まない会話に、栄が少しいらいらしたように、沙希の耳元で脅すような口調で言った。隣で、沙希の肌が鳥肌立つのが総にも分かる。
かわいそうに、と総は思う。
あんなに至近距離であの声を聞いたら、堪らないだろう。
「に、逃げてなんかないわ。あいつがいなくなったから……」
「何を置いて?」
沙希は助けを求めるように総を見るが、総にもにっこりと笑われて、諦めたようにため息をついた。
「これ持ってたら、必ず迎えに来るっていったのよ。それで海外に行こうって。あいつが何をしたかなんて、知らなかったのよ」
沙希はそう言いながら、化粧道具の中から鍵を取り出した。211番のタグがついている、ロッカーのキー。
「嘘はいけないなぁ」
総がそう言って、それを受け取る。整った顔が笑って、違った意味で背筋をぞくりとさせながら、二人とも、刑事にしておくのはもったいないわ、と沙希はそんなことを思っていた。
「現れましたよ」
足元に落ちている煙草の吸殻を踏みつけながら、栄がそう囁いて、総は顔を上げた。確かに、写真ではもう嫌と言うほど見た顔が、きょろきょろと辺りを見回しながら歩いている。
「だから、耳元で話すなって言ってるだろう」
総は吸いかけの煙草の火を消して、男から視線を外さずに呟いた。
「だって、大声で言っていいんですか?」
栄と総の身長差は五センチ。栄が小声で話すことも、総には囁きとなる。それをわかって、栄は笑いを含んだ小声でそう言うのだ。
確かに、仕事柄内緒話をすることは多い。だから、総は困るのだ。栄の声は、身体にも心臓にも悪い。でも、そんなことは、総には言えなかった。
あれが悪いのだ、と総は思う。
冗談のように言われた、あの一言が、総を余計に困らせる。あれ以来、身体も心臓も、過剰に反応している気がする。
いつかきっと、もたなくなる気がする。
総はそう考えると、深くため息をついた。
「くそっ。お前が悪いんだぞ」
「はい?」
「なんでもない。ほら、行くぞ」
男がロッカーに手を掛けたのを見て、総が歩き出す。栄が笑いを堪えた顔で、その後に続いた。
やめられないのだ。
耳元で囁くたびに、薄っすらと項を染められると。
「鍵はここだよ。貸そうか?」
ちゃらちゃらと手の中で鍵を弄びながら、総がにっこりと笑うと、目の前の男は一瞬動きを止めて、逃げようとした。でも、警官に囲まれた彼に、逃げ口はない。総は鍵でロッカーを開けると、中から白い粉を取り出した。
「ずいぶんと金になるものを持ってるね。これなら海外にも行けるわけだ、下倉さん」
総のその言葉に、男は観念したかのように大人しくなった。既に不法所持で、指名手配されていたのだ。もう、いいわけも出来ない。
下倉がパトカーで連れて行かれるのを見ると、総はやっと肩の力を抜いたように、のびをした。
窓の外は、まだ暗く、冷たい闇のままだった。
「……はい伊勢」
携帯の音に、布団から手だけ出して、栄は布団に携帯を引き込む。暖房の切れた部屋は、朝にはもう寒い。
「寝てた?」
その栄の携帯から、総の楽しそうな声が聞こえてきた。昨日事件が解決して、やっと家でゆっくり眠れたのだ。こんな朝早い時間に起きているわけがない。栄がもぞもぞと動いて時計を見ると、まだ五時を回ったばかりだった。
「どうしたんですか。事件ですか?」
寒いと思いながら、栄は身体を起こしてエアコンをつける。
「いや……わからないけど、どうかしたのかもな」
その答えに、栄がひっそりと笑う気配がした。たぶん、声が聞きたかったのだと総は思う。こんな寝起きの声は一段と、ぞくぞくする。
囁くような、電話の声。
ひっそりと、でも暖かな感触のする笑みに、総はなんだか満足した。
満足。変だけれど、それが一番近い実感。
「あーなんかもう、いいみたい」
「何がですか」
「用件、済んだみたいだ」
相変わらず、わからない人だと栄は思う。眠いはずなのに、こんな時間に電話をしてくることが時々あるのだ。職業柄、その電話には必ず出てしまう。
「まだ、もう一眠りできますよ」
「そうだな」
「おやすみなさい」
背筋にぞくりと来るような声で言われて、総は思わず目を閉じた。そう言われると、眠れる気がする。過去の、さまざまなことを忘れて。
事件が起きるたびに、過去のことを思い出していたらきりがない。それなのに、ときどき、眠れなくなるのだ。それでなんとなく、栄の携帯に電話をかけている。
あぁ、でも、眠れそうだ。
総は携帯を握ったまま、ゆっくりと目を閉じた。
栄は、すっかりと覚めた目で、携帯を見つめた。総はこうやって、突然電話をしてくる。何をして欲しいのかも分からない、用件さえわからない電話。
ただそれが、総を安心させていることだけはわかっている。そうやって、眠ることが出来るのだ。そうふと言われてから、栄えはこの電話を無視できない。自分に掛けてくれるなら、それでいいと思う。
いつも、耳元で話すなと言われる栄が、唯一怒られずに囁けるところだ。思い切り、いい声で囁くことにしているのだが……。
どちらが振り回されているのか、わからないな、と栄は思った。
『お前なぁ……そう言うのは女に言えよ』
信じると言うから、言ったのに、返ってきたのはそんな呆れた声だった。あのとき、臆病だった自分を少しだけ恨んでいる。そんな隙など、与えなければ良かったのだ。
もう一度、もう一度言ったら、信じるだろうか。
いつの間に日が昇ったのか、窓からは、ひどく暖かそうな光が差し込んでいた。栄は通話の切れた携帯を手に持ったまま、その光に手を伸ばした。
ニッキで1001hitsを踏まれた、藤也さんのリクエストで、
「声フェチの話」でした。題名からも多少の推測が出来るように、最初はもっとほのぼのとしたものが出来るはずが、何故かこんな風にいらないエピソードつき。でも、気に入ってます。この二人。作者の私だけではなく、少しでも、少しでも、藤也さん、そして皆様のお気に召されたら嬉しいです。
いつもニッキを読んで下さっているみなさま。
改めてお礼申し上げます。
ありがとうございます。
そして、これからもam5h00並びにこのニッキを、よろしくお願いいたします。
2001年9月27日 初瀬拝