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夏 ノ 終 ワ リ
―――友へ
鳥の影が地面に映って、ふいと消えた。空は目に痛いほど青く、日の光は優しかった。
木々の葉が揺れて、風が通ったことを知る。
郁(かおる)はベランダから身を乗り出して、空を仰いだ。両手に体重をかけて、めい一杯空に近づく。
「落ちたいの?」
含み笑いをした晶(あきら)が、そっと郁の背中に手を当てた。温かい感触が、背中の一点にじわりと広がる。
「落としてくれる?」
出来れば、少し遠くに落ちるように投げて欲しいんだけど。そう言うと、それは無理だと晶は笑った。
少し軒のでている屋根は、いくら身を乗り出しても郁に日の光を与えてはくれない。
地面は、遠い。これなら、十分な浮遊感は得られるだろう。
死ぬときは、落ちて死のうと、ふと決めた。
出来るだけ高いところから、遠くへ飛ぶように。
「どうしたのさ」
「何が」
「教務主任、怖い顔してた」
ちょっと悪戯に失敗してね。そう言いながら、晶はベランダの手すりに両腕をだらりと垂らした。まるでそこに水があるかのように、手のひらで空気を掬い上げる。
郁は晶の方をちらりと見て、ベランダに下りた。
「暑いなぁ」
「でも、もう終わりさ」
遠くで飛行機が飛ぶ音がした。見上げると、白い機体が碧い空をゆらりと飛んでいった。
夏休みの学校が好きで、休みなのに二人は毎日のように学校に来ていた。閑散として静かな学校は、何もしないのに適している。
でも今日は、晶は呼び出されたと郁は知っている。
物憂げな夏が、終わろうとしていた。
晶の肌は、透き通る様に白く、絹のように滑らかだった。夏になると、その陶磁のような肌に触りたくなって、郁はふいと手を伸ばすことが多かった。
冷たい、血の通っていないような肌の熱。
大きな瞳で見つめられると、展示ケースに入った高貴な磁器のようで、郁は肌を滑らす自分の手が、美術品を触る手になっていることに気付く。
「夏の終わりの海も、いいだろうね」
「…あぁ。海月がきれいだろう」
呟いて、晶が遠い目をした。ゆらゆらと、海を映す。全身にその色を吸い込むように、でも、決して混じり合わない。
「知ってたのか」
「…うん」
郁が、晶の手を取って、頬を寄せた。
この手も、決して何ものにも染まらないだろう。
「いつ行くの」
手を郁に任せたまま、晶は小さく、さぁ…と答えた。
「床が一つ空くと言うんだ。そうしたら、僕が入ることになっている」
微かな命の灯火が、今揺らいでいるのだ。海辺の風は、そんな脆く淡い火を、簡単に吹き消してしまうだろう。
晶は丹念に、教室一つ一つを回った。
木の手すりの階段、時々きしりと鳴る床の音。踊り場の淡い光、机のキズ。薄いカーゼのカーテンを揺らす風。
全てを、そっと、その陶磁の手の中に包み込んだ。それはゆっくりと、その手に吸い込まれて行く。きっと、長い時間をかけて。
晶がふわりと、郁の頬に触れた。さらりと、髪を撫でられる。
「海月を見に行くよ」
「あぁ、待ってる」
温い風が、窓から入って二人の髪を揺らした。
それは確かに、夏の終わりを予感させた。
了
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