最後のレシピ
version01
悲しい夜も、泣けない夜も、切ない夜も。
日に焼けた、油の跳ねた染みのついた、この紙を。
材料は、コンソメの素、バター、塩、コショウ、玉葱、フランスパン、にんにく、そしておろしたてのパルメザンチーズ。
―――何よりも大切なのが、「切れない」包丁。
もう聞くことが出来ないはずの彼の声が、頭の中でこだまする度に、僕の目は熱くなった。
くらくらと、熱に浮かされたような脳をもてあまして、立ち止まる。
聞こえない振りをしようとすると、悲しさが倍増するから、必死になってその声を追いかける。
褪せない。
どんなに再生しても、カセットテープのように褪せていくことは、なかった。
CDやMDのように、いつでも変わらない音。
そのものを意識的に壊すか、再生装置が壊れない限り、なかなかその声から遠ざかることが出来なかった。
……再生装置は、壊れかけているのかもしれない。
何度も、何度も、壊れたレコードのように、同じ音の繰り返し。
もっと、たくさんの言葉を知っているのに。
繰り返し、繰り返し。
呼ばれるのは―――僕の名前。
たくさんの絵、たくさんの詩。彼が残したものは、膨大な量に上っていた。
いつか見た、夕焼け。いつか見る、青空。
明日を謳う、詩。
その中で、僕に残されたのは、一枚の紙切れ。
油の染みの付いた、水にぬれて少しふやけた跡のある、小さな紙。
彼が料理好きなのは、知っていた。何度か、その手料理を食べたこともある。
手際良く、リズミカルな音をさせながら、見目にも食欲を誘う料理を作り上げる。
絵を描くだけあって、色彩にも、異様なほどの神経を使っていた。
二日酔いの朝の鳥粥。針生姜の薄い黄色と、さらさらの白いお粥と、万能ネギの鮮やかな緑。その、温かさ。
ほんのりと漂う、お米の懐かしい匂い。
その匂いに、起き上がるのが億劫に感じていた僕の頭も、負けてしまう。
おひたしにも、わざわざだし醤油をかけていたな。
時々小麦粉から作っていた、カレーも絶品だった。
そんな数々のものを食べられなくなって、味気ない病院食を食べていたのに。
薬のせいもあって、食欲なんて無かったはずなのに。
彼は、僕に一枚の紙を残した。
彼の部屋の台所の窓に留めてあった、一枚の紙を。
「玉ねぎ、玉ねぎ…っと」
僕は玉葱をネットから取り出す。大き目の玉葱を二つ。一人で食べるのだから一つで十分だろうけれども、彼のレシピどおりに、二つ。そう言えば、いつも二人分作っては誰かを呼んでいたな。
「それから…」
『玉ねぎは、切れない包丁で切ること。』
その一文に、目が止まる。後から書かれた、鉛筆のその字。この紙を貰ってから、何度も読み返した。
―――切れない包丁。
それは、材料のところにも、わざわざ書き足してあった。
僕の包丁は、たいして良いものじゃない。ときどき簡単な料理を作っていただけだから。特別に切れ味が良いなんてことは無い。
でも。
切れない包丁。
優しい、彼の笑顔が浮かんでくる。いたずらを仕掛けた子供のような、笑顔。
ふわりと揺れる、髪。だんだんと温かくなる、手の温もり。
ゆっくりと紡がれる、言葉。
僕は、玉ねぎを半分に切った。
ざくりと、瑞々しい感触。それから、薄く切ってゆく。
慣れない、おぼつかない手つきで。
切れない、包丁で。
半分を切り終わらないうちに、玉ねぎが目に染みて、ぼやけてきた。
目が、痛い。
何度も、何度も、手の甲で涙を拭う。それでも、涙はとまらない。
ざくり、ざくり。
切れない包丁で、玉ねぎを切り続ける。
ぼろぼろと涙が落ちていたのに、僕は切りつづける手を、止めることは出来なかった。
笑顔。
俯いた、睫の影の映った顔。
真っ直ぐな、瞳。
柔らかい、声。
温もり。
二度と感じることの出来ない、温もり。
冷たくなった、握り返してくることのない手。
開かない、瞼。
―――記憶の中でしか、聞くことの出来ない、声
僕はいつしか、手を止めていた。
声を上げていた。
目よりも痛い、心を見つめて。
僕は…
泣いていた。
切ない夜も、泣けない夜も。
忘れられない、夜も。
オニオングラタン・スープを作ろう。
塩味は、控えめに。
なによりも、欠かせないのは「切れない包丁」
泣けない僕へと、
君が残した、最後の、レシピ。
version02
真昼のスーパーは、どこか気だるい。そののんびりとした雰囲気は、どこかほっとする。男は玉ねぎとバター、パルメザンチーズとコンソメの素を籠に入れて、ついでのようにビールも手にとる。ワインに伸ばしかけられた手は、その形を指がなぞるだけで、引き込められた。
帰りがけに、あのパン屋でフランスパンを買わなければならない。
結局、男はもう一本缶ビールを籠に入れて、レジへと向かった。
外は風が吹いていた。春の生温かい風は、人の体温を思い起こさせる。真昼は、こんなにものんびりしたものだと、男は知らなかった。
人通りの少ない通りの信号を渡って、パン屋でフランスパンを買う。レジの女の子の声が、明るく響いて、男は思わず苦笑した。昼間に似合うのは、こんな声なのだ。
あいつの声は少し掠れていて、笑うとかさかさと音がするようだった。でも、それは可笑しそうに笑うのだ。その声に似合わない、幼さを残したような笑顔は、忘れられるものではない。
褪せない。
声も、その顔も。
何度も繰り返し見ることで、聞くことで、いつか記憶が薄れていくのなら、俺は惜しみなくその残像と残響を再生するだろう。
あんなにもはっきりと、聞こえてくるのは、見えるのは、残酷すぎやしないかと思うのだ。
その中で生きていけるほど、俺はきっと狂っていない。いや、もう、狂い始めているのかも知れない。
たくさんの言葉と顔を知っている。
でも、繰り返されるのは、同じ言葉。同じ笑顔。
繰り返し、繰り返し。
呼ばれるのは―――俺の名前だ。
男は部屋に入ると、冷蔵庫を開けてビールとバターとチーズをその中に放り込んだが、すぐに考え直して、ビールを一本取り出した。それから冷蔵庫の扉を開けたまま、缶ビールの蓋を開けた。それを一口飲んでやっと、扉を閉める。
「まずは玉ねぎか……」
男は一人呟くと、ビニール袋から大き目の玉ねぎを二つ取り出した。食べるのは一人なのだから、一つで十分な気もしたが、指示どおり、二人分で作ることにしたのだ。
男は目の前の窓に止められた日に焼けた茶色い紙を見た。材料はそろった。塩コショウに玉ねぎ、コンソメの素、おろしたてのパルメザンチーズ、バター。
そして。
切れない包丁。
それだけ、鉛筆であとから無理やり書き足されていた。あとは、黒いペンでわりと大雑把な字で書かれている。
あいつは、膨大な量の絵や、詩や、レコードを残していた。
いつか見た、夕焼け。いつか見る、青空。
明日を謳う詩。
洪水と化すような、音の破片。
その中で、俺に残されたのが、この一枚の紙だった。
油染みのついた、水にふやけた跡の残る、日に焼けた、ノートの切れ端。
あいつは確かに、料理も好きだった。絵を描くだけあって、色彩や並べ方なんて言うものにも、気を配って楽しんでいた。
二日酔いの朝の鳥粥には、針しょうがの黄色と、白い粥、万能ねぎの鮮やかな緑。その温かさ。俺には、それよりも、その匂いのほうがよほど食欲をそそられた。
ほんのりと漂う、懐かしいお米の匂い。
美味しいものを作れる人間が、それを食べられなくなると言うのは、残酷なことだ。味気ない病院食ばかり食べていて、薬の所為で、食欲さえなかったはずだ。
それなのに、あいつは俺にこの紙を残した。
あいつの部屋の台所に留めてあった、この紙を。
俺もたぶん、食べたことがある、オニオン・グラタン・スープの作り方の示されている、小さな、メモ。
男は、死顔を覚えている。笑顔と同じように、すぐに思い出すことができる。それは、あまりに穏やかで、眠っているようにしか見えなかった。
ずっと、ずっとその顔を見ていた。男は、瞬きさえしていないのではないかと思うほど、じっとその白い顔を凝視していた。
むせび泣くような声は、遠い世界だ。確かに聞こえているはずのその声の方が、嘘のようだった。
ただじっと、見つめている。
最後まで、その目から涙がこぼれることはなかった。
男は玉ねぎの皮をむいた。
「それで……」
『玉ねぎは、切れない包丁で切ること』
この一文に、男はふと動きを止める。これも、鉛筆であとから書き足されていた。男の持っている包丁は、料理をあまりしない男の包丁だ。こだわって買ったわけでもない。切れ味がそう良いとは思われなかった。
それにしても。
―――切れない包丁。
材料にまでわざわざ書き足されていた、その言葉。
男は、それを残した男の、悪戯をしかけたような顔を思い浮かべた。優しい、瞳。
ゆっくりと温かくなる、手の温もり。
男は玉ねぎを半分に、ざくりと切った。瑞々しい感触だ。それから、おぼつかない手つきで、それを薄く切り始める。
切れない、包丁で。
半分も切らないうちに、玉ねぎが目に沁みて、視界がぼやけてきた。
目が痛い。
何度も、何度も、手の甲で目を拭うが、涙は止まらなかった。
ざくり、ざくり。
切れない包丁で、男は玉ねぎを切りつづける。
ぼろぼろと涙が零れ落ちていると言うのに、男はその手を止めなかった。
笑顔。
真っ直ぐな、瞳。
掠れた、柔らかい声。
細い指。
温もり。
二度と感じることの出来ない、温もり。
冷たくなって、二度と握り返してはくれない手。
開かない瞼。
記憶の中で再生されるだけの―――声。
そうだ、もうそれは、記憶の中でしか、聞くことも、見ることも出来ないのだ。
何度呼びかけられても、それに何度答えても、笑うだけの、顔。もう、次の言葉はない。
あいつはもういない。
もう、いない。
男はいつしか手を止めていた。
声を上げていた。
痛くて、痛くて、堪らなかったのだ。
男は、泣いていた。
声を上げて、泣いていた。
home モドル