心 音
小さい頃から、メトロノームを動かすのが好きだった。
七沢(ななさわ)の姉はピアノを習っていて、自宅にピアノがあったために、いつもレッスンは先生が自宅まで来ていた。そのときに、七沢はメトロノームを見つけたのだ。狂うことなく、ひたすらに同じ調子で動き、音を出すメトロノームが手放せなくなったのは、いつからだったのだろう。
「眠れないだろ……」
一人呟く声は、暗闇に空しく響く。こんなときの独り言は、かえって孤独が増すことを知っているのに思わず声を出した。一人暮らしが長くなって、癖のようになった独り言は、最近は減ってきたと思ったのに。
ごめん、と頭を下げた伊波の顔が思い出される。本当に申し訳なさそうだったし、なにより本人が名残惜しそうな顔をしていたのだ。
だったら、断れよ。
出来もしないことを、七沢は思った。もうすっかり目は冴えて、隣の空間を恨めしそうに見る。売れているのはいいことだが、こんなに長いこと一緒にいられないとは。
一ヶ月。
転々と国を変えての海外ロケから帰ってきて、一ヶ月ぶりに会えるはずだった。七沢は明日の締め切り前に連載を一本書き上げて、待っていたのに。でもそれは、悔しいから言っていない。
「いってらっしゃい」
と思い切り不機嫌な声で追い出して、玄関のドアをガラスが割れるかも知れないほど、派手な音を立てて閉めただけだ。
そういえば、キスもしていかなかった。
思い出すと、ますます腹が立ってくる。どうせ海外でグラマーで美人な外人モデルと楽しく過ごしていたんじゃないかと、要らぬ詮索までする。――いや、伊波には前科がある。まだ恋人にはなっていなかったといっても、人を口説いている最中に何度か女を抱いていたはずだ。
理由は、聞いた気がする。
でも、こんなときにはそれは、理由ではなく、言い訳に格下げされるだけだった。
ごそごそと、しまっておいたメトロノームを探し出す。速度をゆっくりめにして、針を揺らした。規則正しい音がする。
規則正しすぎて、温かさもなくて、七沢はやはり眠れなかった。
別に、七沢は仕事より自分を取れといっているわけではなかった。それは男同士。どうしても強くいえないところだ。モデルという仕事が大変なのもわかる。
でもあの日。
絶対帰るから家にいろといったのは伊波だった。それがどうしてまた、三日も先伸ばされるのだ。いいかげん、頭にもくるだろう。
鳴らされたチャイムにドアをあけて、冷たい目をする。
「七……」
「どちら様でしょうか?セールスはお断りしています」
こういうときの七沢は、怖い。触れたら火傷しそうなくらい、冷たい。
「ごめんっ」
謝ってしまうに限る、と伊波は頭を下げたが、冷たく見下ろされた視線はそのままだ。これは相当怒っているなと、伊波は小さくため息をつく。やっかいなのだ、これが。
「セールスお断りって言っただろう」
「七沢〜」
「謝罪と男は必要ないんでね。……あぁ女なら良いかな」
「おい」
「どうせお前はさんざん抱いてきたんだろう?」
七沢のその言葉に、伊波はぶるぶると首を振る。それでも、七沢の冷たい目は凍ったままだ。
「それでしたら、お試しになってはいかがですか?」
セールスマンのように伊波はそう言って、するっと中に入ってくる。お預け食らっていたのはこちらも同じ。抱き合えばすぐに問題は解決する、と伊波は単純に思う。
「何を試すって?お前の絶倫さはよく知ってるよ」
七沢はそう言って、奥へと歩いていってしまった。伊波はやれやれと、ようやく靴を脱いだ。
七沢のマンションは、結構広い。でも、三部屋ある部屋の一部屋は書斎に当てられていて、結局はダイニングキッチンとベッドルームという一人暮らしにはちょうどいい大きさになっていた。
七沢は、キッチンで食後のコーヒーをいれていた。カップは一つ。当然、伊波の分はない。
「なんか煙草臭いよ。だいぶ吸った?」
伊波がそう言っても、七沢は答えなかった。からからと窓を開ける音がする。伊波は煙草があまり好きではない。知っていて、七沢はこの部屋を煙草の煙で覆ったのだ。
「身体に悪いから、あんまり吸うなって……」
ついお説教を始めた伊波に、七沢の冷たい視線が注がれる。伊波が思わず黙り込むと、そのまま無言で寝室へと向かった。
伊波は小さくため息をつくと、羽織っていたジャケットを脱ぎ、ソファーに投げた。それから七沢を追って、寝室へ向かう。軽くノックをしてドアを開けると、七沢はドアに背を向けてベッドに丸くなっていた。
頭上に、メトロノーム。
伊波はまいったな、と呟いて寝室に入ってそのメトロノームを止めた。耳を澄ますと、雨の気配がした。ベッドの端に座って、そっと髪に触れる。
「ごめん……」
呟くと、七沢がゆっくりと顔を上げた。口が、音を発することなく、来いよと誘う。
「今日はお預けかと思った……」
微笑んでそう口付ける。啄ばむように何度か口付けを交わし、それはやがて長く深い口付けとなる。
「俺も男だからね」
七沢がそう笑った。伊波はもう一度、ごめん、と呟く。メトロノームの復活は、伊波にショックを与えたようだった。カチカチとなる音が、罪悪感を募らせる。
仕事を放り出すことは出来ない。だから仕方がなかったのだとしても。
「どうせ姉貴だろう。この間男に振られたからひがんでるんだ」
七沢がため息をつく。伊波のマネージャーが、七沢の姉なのだ。二人は彼女に大きな貸しがあって、虐められつづけている。
三日前、怖いくらい殺気立っていたのは、そのせいだったのかとようやく伊波は納得する。七沢のマンションに来るのさえ、駄目だといったのだ。その監視を抜け出しての、束の間の逢瀬。
「キスぐらいしてけってんだ」
口付けが首筋、鎖骨と落ちていくのに息を荒げながら、七沢が呟いた。それに伊波が顔を上げる。
「できるか。したらそれで終わらなくなる」
一ヶ月、我慢していたのだ。それまでは毎日のように抱き合っていたのを。本当は、顔を見るのも、声を聞くのも辛かった。
「…っ…あ…それで、外人モデルと楽しんで……」
「まだ言うか?お前はどうしてたんだよ」
「え?んあっ」
久しぶりの舌の刺激に、身体中が敏感になっている。その上、知り尽くされている、と分かるほど、伊波は七沢の感じる場所をついてきた。
「俺はお前を思いながら、ホテルで虚しく一人でしてたよ。ったく、恋しくて堪らない」
と、七沢のすでにいきり立った中心部をやんわりと握る。突然のことに、七沢は身を捩った。
「ん…はぁ…焦らすなばか」
「お前はどうしてた?」
少し不安げなのは、七沢の聞き間違えではないだろう。お互いに、言い訳できない過去がある。七沢はふっと笑って、身を起こした。突然の行動に呆気に取られた伊波を、ぺろりと舐める。
「同じだよ。俺もこいつが恋しくってね」
そう口に含むと、ゆっくりと舐めあげる。うめく伊波に、七沢は得意げに笑った。
ふざけ合うように交わす言葉は、虚勢だ。離れれば不安になることを、二人は確認させられた。それは互いの、過去の罪。見つめあいながら、他人の手を握りつづけた二人への――罰。
「入れるよ」
「ばかっ、慣らしてないだろ」
それでも。
確認したい。はやく。
伊波がここにいること。
「おいっ、待てって」
伊波が慌てて身体を起こす。向かい合うように密着して、思わず笑った。七沢がことりと額を伊波の胸に預ける。
「早い……」
いつもより、激しい鼓動。
「当たり前だろ。あんなことされて」
伊波がするりと七沢の髪を撫でながら、首筋に手をあてて、お前も同じだ、と笑った。
――メトロノームの代わり
七沢が幼い頃から離せなかった、安眠のためのメトロノームは、今は伊波の鼓動に代わっていた。互いの心音は、聞いているうちに混じり合い、同じ速度になる。そうして七沢は、安心して眠る。
「なぁ」
「ん?」
「壊れるくらい、やろうぜ」
もっと早く。
休む間もないほどに狂ったように鳴る鼓動を。
それでもきっと――同じ速さで。
了
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