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やわらかい午後

ニッキ1000hits記念



どこが好きかと問われれば、その手と答えるだろう。
煙草を吸う手。
キーボードを叩く手。
コーヒーカップを持つ手。
書類をめくる手。
伸ばされる、
――その手。

「何?」
 じっと見つめられている気がして、振り向いた先には、やはりいつものように友江の視線があった。分かっているのに気づかない振りをしているのは、単に楽しいからだ。
 熱心に見ている、と言うわけではない。ただじっと、何となく見ている、と言う感じ。こんなに、近いのに。
 火傷しそうな熱さではなく、いつまでも浸っていたいような、生温さ。
「いいえ、別に」
 友江はそう言って、微かに笑う。視線ははずされないまま、目を細めるように微笑むと、高原が視線を逸らすのを知っていて、そんな風に笑う。
 項が、薄っすらと染まる。それを、友江が楽しんでいるとは知らずに。
 夏だと言うのに、きちんと背広を着ていても涼しそうなのはどう言うことだろう。友江は、その染まる項を横で見ながら、そんなことを思った。オフィスは確かに冷房が効いているが、外に出たときも、あの夏のねっとりとした空気の中を、高原はまるで魚のように歩いていく。
 ゆらりゆらり。
「はい、いいよ。あとはこれを課長に持っていって、判子貰って来い」
 とんとん、と書類を揃える高原の手を見て、長い指だなぁと思う。なんだか、持て余しそうなくらいだ。
 書類を受け取ると、ありがとうございました、と頭を下げて、友江はオフィスを出ていった。その後ろ姿を、高原はじっと見つめる。ただでさえ背が高いのに、姿勢が良いせいでさらに高く見える。本当は、自分とほんの少ししか身長は変わらないはずだ。あの大柄で、一つ一つのパーツも大きい身体で、てきぱきと仕事をこなす様は、なかなかの見物だ。――少し、惚れ惚れするぐらい。
 昼休み中のオフィスには、高原以外に人はいない。細分化されたオフィスは、小さくも居心地が良い。ときどき回るファンの音と、コンピューターの音だけがしている。それを聞きながら、友江が帰ってきたら、少し遠くにお昼を食べに行こうか、と高原は思った。
 高原は、友江が運転する姿が好きだ。長い腕と、大きな手と、それが滑らかに動く。少しも無理している風ではない、心地よい運転。横に座る自分への、さりげない気遣い。合わされない視線のもとでの、軽い会話。軽口を叩いて微笑んでも、目だけが真剣だったりする。安心して乗れる、友江の車。
 男の目から見ても、素直に、カッコイイと思ってしまう。
 ――車の中でなら、襲われてもいいと思うくらい。
 ハンドルを握る手が、その上を滑るように、自分の肌を撫でたら――。
 自分のその考えに、高原は苦笑する。そろそろ、限界なのかもしれない。あんな風に見つめられるたびに、手を伸ばしたくなる。車の中で、襲いたくなる。
 ゆるゆるとした、温かさのなかで、眠りたくなる。
 はやく、友江が負けてしまって欲しい。欲望に、衝動に。
 意地の張り合いのような、駆け引きめいた、このゲームに。

 書類を置いて帰ってくると、開け放したままのガラス張りの戸口で、友江は足を止めた。そっと、その戸口に寄りかかる。
 高原が、ぼんやりと外を眺めていた。
 地上十二階のこのオフィスでは、少しばかり空が近い。大きなガラス張りの窓に肩を預けて、腕を組んでその空を眺めている。その無表情が、友江は好きだ。無防備すぎるくらい、透明な顔。こんなときにしか見せない、横顔。
 いつから、こんな顔を見るようになっただろう。はじめは、先輩としての顔しか見ることが出来なかった。優秀で、少し怖い先輩。ときどき笑う素の顔は、それは貴重で。
 こんな無防備さは、一欠けらもなかった。
 でもだからこそ、こんな顔を見ると、ひどく貴重なものを見ているような気がする。そう思いながら、清らかなものを、汚したくなるような、そんな衝動に駆られる。それでいて、ずっと見つめていられたら、とも思うのだ。
 でも、そんな顔も一瞬で。すぐに気付いて、こう言うのだ。
「何?」
 見つめていると、絶対に返ってくる言葉。
 ゆっくりと、少しだけ顔をずらして、微笑むでもなく問い掛ける。答えを求めるための問いかけではない。視線を絡めるための、ただのきっかけ。それでもそれは、いつも純粋な問いかけの響を帯びている。
 望まれる答えは、何だろう。
 ――負けてしまえと、その目が言う。
 柔らかそうな髪を、さらりと掻き揚げる。その手が、途中で止まる。
 ――黒い髪に絡んだ、長い指。
 無意識なのか、わざとなのか。そのまま、ふいと顔を背けられた。また、ぼんやりと外を眺める。無防備だ。自分がいつも問い掛けるその問いの答えも、友江の衝動さえも手に入れているくせに、高原は無防備すぎる。――悔しいけれど、白旗を揚げようか。瞬きが、出来なくなるから。
 巻き返しは、いつでもできる。これから、たくさん。
 でも。
「いいえ」
 いつものように微笑んだ。微笑みながら、高原の後ろの窓に手をつく。
 ただ負けるだけなんて、冗談じゃない。
「別に」
 そのまま、唇を重ねる。啄ばむように、何度も。それから、抱きつかれるまで、執拗に攻めた。
 傍らから注がれる日の光が、温かい。
 ガラスについた手が、少しずつ温められる。
 二人が触れ合っているところだけ、熱い。
 もう少し。
 ――あと、少し
 ふと唇が離れた瞬間に、その背中を掴まれた。
「くそっ」
 俯いて見えない顔から、小さな呟きがもれる。
「お昼、行きましょうか」
 堪えきれない笑いを漏らして、友江がそう言うと、高原に睨まれた。
「覚悟しておけよ、お前」

 ――車出せよ。
 妖艶に、そう囁く高原の真意を、友江は見抜けない。
 自分がどんな姿で運転しているのか、友江は知らないからだ。

 夏の午後の日差しが眩しくて、外に出た途端、二人は空を見上げた。
 ゆっくりと真っ直ぐ、飛行機が軌跡を残して、青い空を飛んでいた。





今回は、お題が秀逸でした。
ニッキで1000hitsを踏まれた、佐藤さんのリクエストは、
「綺麗な人」
でした。容貌や性格ではなく、雰囲気や存在感が綺麗な、と言う人。
とても難しく、少しだけ、ずるをしました。
「人にはそれぞれ、綺麗な瞬間がある」
と言うお題に少しだけすり替え。
本当は、さらに、ほのぼの、のんびりなら……と言うことだったのですが、筆がついていかずにご要望どおりとはいかなかったです。申し訳ない。
少しでも、少しでも、お気に召されたら嬉しいです。

いつもニッキを読んで下さっているみなさま。
改めてお礼申し上げます。
ありがとうございます。
そして、これからもam5h00並びにこのニッキを、よろしくお願いいたします。

2001年5月27日 初瀬拝