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閉じた手の中 by dtfyさま |
人は産まれた時、握り締めた掌に夢や希望を持っているのだと言う。 じゃあ。 この掌から零れたそれは。 一体どこに行ってしまったのだろう。 いなければ良い…。 ここに来るまで、何度も願った。 そんな事を願う位なら、自分こそ出向かなければ良いのに。 それさえも出来ず。 だから、相手に願いを託して。 逢わずに済む事を考える。 逢ったら言わなくてはならない。 今夜こそ、言わなければならないのだ。 …もう、逢わないと。 漆黒に近い紺碧色のフロアに、思い出したようにたまに、深紅の光が走る。 そんな中を、後月(しつき)は泳ぐように、するすると進んだ。 カウンターの一番右端。後月の指定席に誰の影もない事を願い、目を凝らす。 「後月。」 後月がその影を認める前に、柔らかな声が掛けられる。 それだけで。 心が踊った。 「…来て、たんだ。」 いなければ良いという願いも虚しく。 相手は、いた。 それでもまだ。 未練がましく、願ったりしてみる。 別に自分を待っていた訳ではないと。 他の相手を待っていたのだとでも。 告げられる事を。 「当たり前、だろ。待ってた。」 端正な、と言えるその顔に、ほんのり照れのような表情が浮かぶ。 「…そう。」 その顔を見れない。 目を伏せた後月に気付かぬように、相手は隣の椅子へと促した。 「ウォッカ。」 さり気なく近づくバーテンに注文すると、後月は居心地悪く隣の席をちらりと見た。 相手は、随分機嫌が良いのか口元を綻ばせて、後月を見ていた。 「な、に?」 「ん?ようやく逢えたな、と思って。」 「…先週は…。」 本当は、先週ここで逢う筈だった。 でも後月は、来なかったのだ。 勇気がなくて。 「…ごめん。」 待ちぼうけを食らわせたのだ。 どんな理由があるにせよ、それだけは、謝るべきだった。 「いいよ。忙しかったんだろ。」 「…。」 そんな事はない。 ずっと。 じっと、時間が過ぎるのをただ待っていただけだ。 何もせず。 「俺なんか待ってなくても…。相手、幾らでもいたろ?男でも女でも。」 何かを口走りそうになり、後月は、誤魔化すように慌てて言った。 「…何それ。」 「お前、格好良いもんな。皆、放っておかないだろ?誰か、良い奴いた?」 「お待たせしました。」 からからと。 何かが空回っているような。 脱力感に襲われる。 何も言わず、じっとこちらを向けられる視線に耐え切れず、後月はグラスを掴んで殆ど一気に飲み干した。 「そんな呑み方。」 眉をしかめられたが、気にしない。 「お代わり。」 どうせ酔わない。 こんなお手軽な快楽では。 もっと深い。 灼熱の快楽があるのだと。 知ってしまってから、後月は、酒に酔う事がなくなった。 再び差し出されたグラスを、ほぼ同じスピードで飲み干す。 それを三度続け、もう一度と頼もうとした手は、止められた。 「駄目だ。」 「…っ。」 勢いで言い返そうとしたのに、その視線にぶつかって言葉にならなかった。 すぐに顔を伏せ、目を逸らす。 「どうしたの?」 「なに、が。」 「不安定だね。」 自分より年下であろう、男に。子供をあやすような口調で問いかけられている。 「…何でもない。」 「俺に…、逢いたくなかった?」 ビクリと。 身体中が震えた。 「やっぱり。」 「…あ。」 顔を上げてみれば、哀しそうな視線にぶつかる。 胸が。 痛かった。 苦しくなる。 だから。 逢いたくなかった。 「酷い。」 堪えきれず。 「うん。」 「酷い、男だ。」 「そうだね。」 いつの間にか、頬が濡れていた。 「ごめん。」 「酷いのに…。」 「でも、好きなんだ。」 耐え切れず。 「好きなんだよ。」 抱き締めた。 「んぅ…っ。」 合わせた唇の隙間から、甘い声が零れる。 後月は、もどかしくてその背中に腕を回しきつく抱き着いた。 「いいの?」 「…っ!」 もっとと欲しがる後月を宥めるように、身体を離され、顔を覗き込まれる。 良い訳がない。 なのに。 我慢できない。 触れられればこうなると。 分かっていたから、逢いたくなかった。 「俺に抱かれたら、また後悔するんじゃない?」 見透かされている。 たまらずに、後月は首を振った。 「怖いんだ…。」 「うん。」 「お前といると…。どんどん夢中になって…っ!」 何もかもを貪りたくて、奪われたくて。 怖くなる。 「こんな…っ、こんな握り潰すみたいな。」 手の中に閉じ込めて、いっそのこと握り潰したい衝動が、後月を揺さぶる。 そんな激しい感情、生まれて初めてで。 如何したら良いのか、分からなくて混乱する。 「後月。」 「厭だ。これ以上、好きになりたくないよ。怖い…、怖いんだ…っ。」 「でも、好きだ。」 強く、抱き寄せられる。 「好きだよ、後月。」 「…どうしてっ!?」 どうして自分なんだろう。 こんなに見目が良くて、優しい男がどうして。望めば男でも女でも、幾らでも相手はいるのに。 自分みたいな頼りない、それでいて歳だけは上の男に。 抱いてくれる男なら、誰でも良かったのに。 「後月の優しいところ。」 「優しくなんか…っ。」 「じゃあ、臆病なところ?」 あやされるように頬に口づけられて、後月は、自分がまた泣いている事に気付いた。 「身体が冷たい人は、臆病だって言うけど。本当だな。」 涙が優しく吸い取られる感触に、後月は目を閉じた。 「怖くない。大丈夫だよ。俺は、ずっとこうして、抱き締めていられるから。」 「…うそ。」 そんな優しい嘘、聞きたくない。 嘘なら、何も聞きたくなかった。 「うそじゃないよ。」 「何で…。こんな、俺みたいな汚い奴…。」 一晩でよかった。 寂しくて、虚しくて。せめて一晩だけでも、誰かに抱き締めてもらえれば。 それで良いと思った。 「後月は、どこも汚くない。」 「汚いよ。男…、漁ってたんだよ?汚いに、決まってる。」 抱いてくれるなら、誰でも良い。そんな自分が汚れていない筈がない。 「捕まえたのは、俺だ。」 「…っ。」 一晩だけのつもりだった。誰でも良かったから。 なのに、優しく抱かれたから。 また、逢いたくなった。 「どうして…?」 逢いたくなって、同じ場所を歩いた。 同じ場所で、同じように。優しく微笑んでいてくれた。 だから。 「好きになった。それだけだ。」 歳も、仕事も。呼び名以外は、何も聞かずに。幾度も身体だけを重ねた二人なのに。 一晩で別れる、そんな二人だった筈なのに。 後月の手は、離されず。後月の手は、離せず。 ここまで来てしまった。 「間違ってる。」 「知らない。」 「人と、違う。」 「みんな、同じだろう。」 強い男、優しい男。何もかも、後月と違うこの男が。 欲しかった。 「じゃあ、抱いて。」 後月は涙を見せながら、笑った。 それは、男を誘う時のクセのような笑み。 「好きなら、抱いて。」 灼熱のような欲望が、後月を満たして。 安心させる。 そしてまた、傷つける。 また…、後悔している。 好きなのか、と問われれば迷わず答える。 「好きだ。」と。 けれど、問い掛ける者はいない。 だから後月は、言葉にする事なくここまで来た。 後月は、笑う。 手の中から零れていく幸せに。 笑い続けた。 |
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