琥珀に沈む月
01
その手は温かくて、その唇は熱くて、その目は優しかった。
それが、人生最高の贈り物なのだと思った。
彼に会えたこと。愛したこと。
――愛されたこと。
それが、神様が俺にくれた、一番の贈り物なのだと。
その思い出を抱えていれば、生きていけると思った。
朗。
その名を、呟けるだけで。
その日々は、ゆっくり、幸福の結晶になっていった。
音が溢れていた。
目を瞑れば、簡単にどこかに飛べそうで気持ちが良い。俺は持っていたジーマの瓶を一口呷って、目を閉じて少しゆらゆらとした。瞼の裏にきらきらと光を感じる。
「気持ち良さそうじゃん、春」
誰かの手が肌を晒した腰を撫でていく。俺はそれに目を閉じたまま笑って、またライムが入ったジーマを呷る。揺れたままだったから、口から少し零れた。それを手で拭ったら、腰に腕が巻きついてきた。目を眇めて横を見ると、テツだった。長身で、顔が良い、この辺りでは有名な奴だ。だがその気になれない俺は、うっとうしいと腕から抜けた。
「なんだよ、いいじゃん。やらせろよ」
しつこい。俺は伸びてきた手を容赦なく叩いて、カウンターに向かう。何人かの男の視線を感じたが、俺は完全に無視した。ここが男を漁りに来る場所だとしても、相手をするかしないかは、俺の自由だ。俺は音に身を委ねながら、赤いカウンターに空になった瓶を置いた。
「もう一本ちょうだい」
目の前の銀色のミキサーの中で、金魚が一匹だけ泳いでいる。俺はそのミキサーのガラスを指先でこつこつと叩いて、一人で淋しくないの、と金魚に訊いた。金魚は俺の言葉など聞いていないのか、優雅にひらひらと泳いでいた。
ジーマがすっと出てきて、顔を上げると、見たことのないバーテンだった。週に数度はここに来る俺は、ここのバーテンならほとんど知っている。
場違いな奴だな、と思った。顔はかっこいい部類に入るが、すれてなさそうな目をしていた。ここには、一晩限りの遊び相手を探しに来るのが普通だ。そんなところのバーテンだから、俺が知っている限り、みんな遊び人だった。だが、こいつからはその匂いがしなかった。目が合っても、ぎこちなく逸らされた。
照れているんだろうか。俺は楽しくなって、微笑んだ。こんな反応は久しぶりに見た気がする。
「ねえ、ライム絞ってくれる?」
ぺたりとカウンターに腕を伸ばしながら言うと、新しいバーテンは一瞬困惑してから、長い指でライムを絞ってくれた。ごつごつした、でも引き締まった綺麗な手だった。
「ありがと」
笑いかけると、目を伏せる。俺はすっかりいい気分になって、ごくりと渡されたジーマを飲むと、それをバーテンに差し出した。残念ながらそうされたのは初めてではないのか、彼はぺこりと軽く頭を下げて、それを呷った。
頭なんか下げられたのも、初めてだ。他のバーテンののりなら、ラッキー間接キスだ、とでも言うところなのに。実際、隣では客とバーテンがカクテルにストローを二本挿して、一緒に飲んでいる。
返された瓶にもう一度口をつけて、俺は「間接キス」と笑った。彼はほんの少し目尻を赤くして、顔を伏せた。
こんな純情そうな男が、どうしてこんなところでバーテンなんかしてるんだろう。
それが、井嶋 朗(いじま ろう)と出会ったときの、第一印象だった。
アパートに帰ると、同居人の恭司はヘッドホンで音楽を聴いていた。何を聴いているのかわからないし、興味がない。足にこつりと当たったビール缶を、俺は軽く蹴飛ばした。
二人で真夜中、無理矢理ヘッドホンを片方ずつ耳に押し当てて音楽を聴いた日々は遠い。やっぱこれじゃ、音変だって、と笑ってキスした、あの日。
俺は散らばる缶を拾ってゴミ箱に入れて、ため息を吐いた。あのバーで結構飲んできたつもりだったのに、どうしても飲みたくなって、グラスに氷を入れてウイスキーを注ぐ。それを流し込むように飲んで、敷きっ放しの布団に潜り込んだ。ダブルのベッドに寝る気は、とうの昔になくなっていた。
恭司と出会ったのは、俺が高校を三年目で中退して東京に出てきたときだった。もう、三年前になる。親に男と付き合っていることがばれて、大喧嘩をした。その上、相手の年上の男はばれたとわかると逃げ出した。携帯も通じなくなって、よく行っていた店にも現われなくなった。俺はそこに居場所をなくして、都会ならなんとかなるだろうと、単細胞な考えで東京に出てきた。
温もりが欲しかった。
傍にいていいと、言って欲しかった。
恭司とは、やはり男が男の相手を探すバーで会った。俺に家もないと知ると、それならウチに来るか、と笑って言ってくれた。
温かかった。
何度も抱き合って、一緒に一枚の布団に包まって眠った。
どこからおかしくなっていったのか、良くわからない。色々なことがあって、そのどれもがきっかけな気もするし、ただ緩やかにおかしくなっていったのかもしれないとも思う。
恭司は働いていない。親から多少の援助は受けているらしいが、膨大なCDやDVD、それに――薬に消えていっている。薬は、たぶん俺と一緒になる前からやっていた。やめろと何度言っても、無駄だった。家賃や食事がままならなくなっていって、俺は働き始めた。でも、高校中退の身に、稼げる職など決まっていた。俺は誘われるまま、裏では売りもやっている、クラブに身を置くことにした。
恭司は嫉妬深い。バーやクラブに行って、俺が誰かと話をするだけでも、機嫌が悪くなる。最初はそれも愛されている証だと、呆れながらも嬉しく感じていた。でも、そのうち携帯を勝手に見たり、一日の行動も全てを報告しないとならなくなったりして、嫌気が差した。外に出ていても、恭司から掛かってきた電話にすぐに出ないと、あれこれ詮索が煩い。
そんなだったから、俺はクラブで働くことは恭司には言わなかった。でも、所詮狭い世界だ。恭司はすぐに俺がどこで働いているのか知った。
思えば、あれが大きなきっかけだったのかも知れない。
恭司は俺に止めるように言った。でも、それでは俺たちは生きていけなかった。だからと言って、恭司は自分で働く気はなかった。
――恭司も働けよっ。そうすれば、俺だってこんな仕事しなくてもいいんだ。
そう言った俺に、恭司は何も言わなかった。ひどく苛ついた顔をして、近くのゴミ箱を蹴っただけだった。
それから何度か、仕事先に来て、俺を連れて帰ろうとしたりすることもあった。だが、恭司が店の屈強な男たちに敵うはずがなく、いつもいいようにあしらわれていた。
一度だけ、「どうせひもなのに、金づるの邪魔してどうするんだよ」と言われて、殴り合いになったことがあった。でも、恭司の勢いは最初だけで、あとは殴られて終わりだった。恭司はしばらく、固形物が食べられなかった。
あのときは、俺も泣きたいような気持ちになって、両者を止めていた。やめろ、やめろって、と何度も言って、なんだか絶望的な気分だった。
それなのに、別れることもせずに一緒にいるのは、俺は恭司の温もりを知っているから。あのとき、泣けるほど温かかった、その身体を覚えているからだった。
もう、その温もりも欲しいとは思わない。それなのに、記憶の中の温もりだけが、俺を捕らえていた。
自分は一人で、全ての人に見捨てられて、淋しくて堪らなかった、あのときに得た他人の体温。あれがどれだけ俺を救ってくれたか、知っていたからだった。
ふいにひんやりとした空気を感じて、俺は眠りかけていた意識を戻した。首筋に、生温かいものを感じる。胸や背中を弄られて、目を開ける。俺はうんざりとした気持ちを隠さず、やめろよ、と言った。だが、恭司の手は止まらない。
「やめろって」
押し返しても、今度は足に口を寄せてきた。それを無理矢理引き抜きながら、上半身を起こす。暗闇の中、蔑むような恭司の目があった。
瞬間、かっとして、恭司の胸倉を掴み上げた。勢いで、恭司が床に転がって背中を打ち付ける。でも、俺は掴んだシャツを離さなかった。
どうして、おまえにそんな目で見られなければならないんだ。
毎日毎日、ただ音楽を聞いているか、馬鹿な友達と遊ぶか、ゲームをするか、そんなことしかしていないお前に。
遊んでは、人の買ってきたビールを飲むお前に。
それを片付けもしないお前に。
言いたいことはたくさんあった。シャツを握り締めた手が白くなっていた。
でも、恭司はただ無表情だった。無表情に、俺を見ていた。