琥珀に沈む月
02
クラブで愛想笑いをして、ベッドで感じる振りをする。金だけは溜まっていった。ゼロが並ぶ通帳を見ると、何をしているのかわからなくなる。
俺は「goldfish」に来て、カウンターに頬をつけてぼんやりとしていた。ミキサーの中でひらひらと泳ぐ金魚を見る。ひどく狭い世界で、それなのにゆったりとした金魚。回る光が、ときどきその金魚を照らしていた。遠くで、楽しそうに踊って騒ぐ声がしている。
「ねえ、名前、なんて言うの」
純情バーテンに訊くと、「井嶋です」と生真面目な声が答えた。
「じゃなくて。下の名前」
ミキサーに手を伸ばす。でも、金魚は全然俺なんか見てくれない。
「……朗です」
やはり生真面目な声が言った。
「いくつ?」
「二十歳です」
「あれ、同じ?」
首だけ回してカウンターの中を見ると、少し胡散臭そうな目と出会った。俺は苦笑する。
「ほんとだって。今年二十一」
俺はなったばっかりです、と朗が言う。
「なんだ。じゃあ年下? いつだったの、誕生日」
先月、と簡潔な答えが返ってくる。
「二月の、何日?」
「二十二日」
二ばっかりだ。今度は俺が疑い深そうな目をした。
「本当です」
朗が笑った。かなり控え目な微笑みだったけれど、もの凄くいいものを見せてもらった気がした。
俺が身体を起こそうとすると、何かが後ろから覆い被さってきた。
「春都ー、踊ろうぜ」
遊び仲間だ。俺が重たいと文句を言っても、なかなかどこうとしない。
「俺は朗と喋ってんの。まじで重たいって」
「春都、手が早いなー。もう新人くんに手、出してんの? でも朗は気を付けなよ。オーナーのお気に入りなんだから」
和志さん、と困ったような朗の声がした。
ふっと背中が軽くなって、和志がようやくどいたのがわかった。動こうとしない俺に諦めたのか、ふらふらとフロアに向かっていった。
「………………オーナーのお気に入りなの?」
訊くと、「お世話になっています」と返って来た。俺は「ふーん」と言って、ミキサーをこつこつと叩く。やっぱり金魚は、こっちを見てくれない。
耳元で、かしゃかしゃとシェーカーを振るう音が聞こえてきた。俺はそれを聴きながら、目を閉じた。
最初に声をかけてきたのは、恭司だった。クラブで踊りつかれて、カウンターでぼーっと煙草を吸っていたときだった。たまたま隣にいた俺に、火をくれないかと言って来たのが、恭司だった。俺はライターを出すのも面倒で、そのまま煙草を相手の煙草に近付けた。何度か吸って、火の勢いをつける。でもなかなか火がつかなくて、俺は少しむきになって何度も頬をすぼめた。仕舞いには、二人で笑い出した。
しけてんじゃねーの、と言う俺に、途中で可笑しくなって笑わないように息止めてた、と恭司は言った。協力しろよ、と笑うと、意地になっていくのが面白くて、と笑われた。
ああいう恭司の笑顔を見られなくなったのは、いつからだろう。二人で馬鹿笑いをしたのは、いつが最後だろう。
最後とか、いつからとか、俺はそんなことばかりを気にしている。思い出しても、そんなことがわかっても、仕方がないというのに。
夜道から見上げると、アパートには灯りがついていた。もう夜中の二時だと言うのに、つけっ放しで寝たのか、まだ起きているのか。どちらにしろ、その灯りを温かいなんて、もう思わなかった。
クラブに行って、時には売りをして、憂さ晴らしにバーに行って、浴びるように酒を飲んで踊って。そう言う生活をして、一年以上経っていた。二年かもしれない。数えられない。
時を数え始めたら、立ち竦むしかなくなってしまう。
だからいつでも、俺は誰に対しても、まるで昔馴染みのように接する。そういうことが、許される世界で生きてきた。だけど、朗は違った。俺のそののりに、着いて来てくれなかった。
少しずつ、親しくなる。顔を知って、名前を知って、何度か会ううちに、少しだけ砕けた喋り方をするようになって。それでも未だ、朗は俺を「湯野さん」と呼ぶ。フルネームを教えたのは失敗だった。でも、それを「未開の温泉地みたいな名前ですね」と言ったのは気に入っていた。
毎日のようにgoldfishに顔を出すようになって、ひと月が経っていた。まだ夜はときどき寒いときがあるが、昼間はもう、春の陽気だった。
一度だけ、恭司がバーに来たことがあった。他の男と騒ぎになりそうになって、俺は仕方なく恭司を連れて帰った。
「春都、そんな奴放って置けよ」
言われて、俺は曖昧に微笑んだ。恭司の虚ろな目が俺を見ていた。虚ろででも、弱々しく。
帰り道、俺たちは何も話さなかった。帰り着いてからも、何も話さなかった。俺を抱こうとした恭司を押し退けて、俺は自分の部屋の扉を閉じて、その前に荷物を置いて、開けられないようにした。がん、がんっと何度かドアが荷物にぶつかっていたが、俺は布団をかぶって目を閉じていた。
それから、恭司はバーには来ていない。
俺たちの住むアパートは、小さかったけれど、各自部屋を持っていた。それに、ダイニングキッチン、バスルーム、トイレ。ダイニングには、ものがたくさん置かれたテーブルと、二脚の椅子がある。ご飯を食べるときは、そこの荷物を適当に寄せてスペースを作って、コンビニ弁当とかカップラーメンとか出前とかピザとかを食べる。恭司の部屋の方が少しばかり大きくて、同居を始めたときに買ったダブルベッドが置いてある。
もう、帰る場所というより、寝る場所だ。夜中の道を歩きながら、そんなことを考えた。仕事先のクラブの客とホテルに行くときは、ときどきそのまま泊まることもある。客が帰っても、俺一人で。ラブホテルのほうが深く眠れるなんて、笑えない冗談だ。でも、今日の客は執拗さが鬱陶しくて、俺はさっさとホテルを出てきた。goldfishにも行く気がしなくて、部屋の布団が久しぶりに恋しかった。
無言でドアを開ける。かちゃかちゃと静かな夜に鍵の音が煩い。部屋は灯りがついているのに静かで、よけい淋しい気分になった。もう三年も住んでいるのに、よそよそしい部屋。テーブルの上の観葉植物は枯れかけている。
着替えて煙草を吸っていたら、部屋のドアが開いた。俺は窓の外を見たままだった。満月が、ぽっかりと浮かんでいる。
恭司は何も言わずに、俺に手を這わせてきた。首筋に、肩に、口付けを落とす。胸を弄って、パジャマ代わりのスエットのズボンに手を掛けたところで、俺は立ち上がった。だが、足を掴まれて、動けなくなる。俺はため息を隠さず、手を離すよう足を動かして促した。でも恭司は、そのまま俺の股間を布の上から舐めだした。俺は手でその髪を鷲掴みすると、離そうと後ろに引っ張った。
いつもの、恭司の何を考えているのかわからない顔があった。壊れたロボットみたいだ。制御の利かないロボットは、力任せに俺を掴む。
「離せ」
言ったところで、通じない。ただ欲望に忠実に、また顔を股間に近付ける。
「やめろって。離せよ」
俺も力を入れて足を動かしたら、恭司の顎にヒットした。頭がぶれる。そこから緩慢に顔を上げた恭司の目に、じっと見られる。俺はその目を、見下ろす形になった。
それからは、恭司は本当にただの凶暴なロボットのようだった。無表情のまま、俺をやることだけを考えていた。顔を殴られ、手首を力の限り掴まれ、首を締められそうになった。俺は抵抗した。自分でも訳がわからないほど、めちゃくちゃに暴れて、ようやく恭司の下から抜け出して、部屋を飛出した。玄関に放り出していた春もののコートを掴んで、後はただひたすら走った。
運の良いことに、コートにはいくらか金が入っていた。俺は何も考えずに、goldfishに向かった。多分、最終の電車だった。構わなかった。
酷い格好だった。さすがにこれではバーには入れなくて、俺は裏口に坐り込んで、煙草をふかした。街のざわめきが聞こえた。ひどく、遠い。すぐ二メートル先くらいの道は明かりに照らされているのに、俺がいるのは暗く湿ったところだった。俺は何度も、煙草を吸った。のどがひどく痛かった。殴られた口の中は、錆びた血の味がした。
「湯野さん?」
戸惑うような朗の声が聞こえたのは、煙草を一箱吸い終わりそうになった頃だった。俺を見て、僅かにぎょっとした。
「あー……顔、酷いことになってる?」
口元が腫れているような感覚はあった。朗は手にしていた袋をゴミ箱に投げ入れると、中に入っていった。俺は坐ったまま、残りの煙草を吸った。
「煙草消して、中に入ってください」
朗はすぐに戻って来た。かちゃりとドアが開いて、明かりが俺の隣を照らし出す。
「まだ終わってないんだけど」
「ここは禁煙なんです」
俺は煙草を地面に擦りつけた。それから立ち上がると、おざなりにコートの汚れを叩いた。
「口の中、切ってますか」
「血の味はする」
「隣、トイレなんで、すすいで来て下さい」
俺は言われるまま、口を洗った。冷たい水が、口の中に染みた。
人の気配に顔を上げると、朗が手にタオルを持って立っていた。それを受け取って、顔を拭く。それから「これで冷やしてください」と渡された氷を包んだタオルで、口元を冷やした。思ったより、店の喧騒は聞こえてこなかった。
「帰るとこ、なくなった」
ぽつりと呟くと、朗はロッカーからコートを取り出しながら「うちに来ますか」と言った。いつもの、戸惑ったような声ではなかった。ただ、ひたすら優しい響だった。
「いいの?」
「一人ですから、構いません」
ばさりと、コートが掛けられる。温かい。
「たぶん、あと一時間で上がれると思うんで」
俺は頷いた。
朗が出て行って、コートを掻き合わせる。ふわりと朗の香りがした。温かかった。
ぽろりと、前触れもなく涙が落ちた。
俺はひとしきり、声を押し殺して泣いた。ものすごく久しぶりに泣いた気がした。