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雨に似ている

01
 クラシックは嫌いではなかったが、こんなに素晴らしいものとも思っていなかった。伊織はこの仕事を受けて良かったと、苦笑した。湊が聴けないことを悔しがったのも分かる。
「まあ、成宮様のご子息がいらしているの?お珍しいこと。わたくし初めてお会いしますわ。ご挨拶に伺わないと」
 伊織の耳に、甲高い声が聞こえてくる。これさえなかったら最高だったのだが、仕事だから仕方がない。もうこれで何人目だろうか。湊のやつ、本当に社交界には顔を出してないらしい。まあ、この雰囲気に湊が耐えられるはずもないと思うが。
 成宮 湊、成宮グループ総帥の秘蔵の孫。もったいぶって、余り人前には出さない。そう知れ渡っているが、ただ単に面倒くさいだけだろうと、伊織は思っている。それが何故今回は顔を出しているのか。天才ヴァイオリニストの、久々の日本公演を聞きに来たというのはわかる。でも、それがパーティーにまで顔を出しているとなると、注目の的にもなる。
 伊織はいささかげんなりした気持ちで、でもそれをおくびにも出さずに、笑顔を振り撒くことに集中した。
 なんと言っても、目的は達成しているようだ。これが成宮湊だと、覚えてもらわなければならない。
湊が狙われていると相談を受けたのが、一週間前だった。拳銃での遠隔射撃。幸いボディーガードの各務がいたおかげで、怪我もしなかった。身に覚えもないし、犯人の目安もつかない。
 湊の顔は一部を除いて知れ渡っていない。その一部では、湊が成宮グループの次期社長といわれていることが知られていない。
 だから、犯人が捕まるまで、身代わりになってくれないかと依頼された。だいたい、十八、九の探偵を探すのが難しいだろう。こんな仕事をできるような者は、特に。その点伊織は、財政界にも何人かの知り合いがいる、もうベテランの領域に入るような探偵だ。この話も、一度娘のボディーガードをやったことのある、財界の要人からの紹介だった。
 初めて湊に会ったとき、その華奢な印象に、いくらなんでも自分とは違いすぎると思った。身長はそれほど変わらない。でも鍛え上げた肉体を持つ伊織は、どうやってもこの線の細さは出せないと思った。
 ところが話をするうちに、そのはじめの印象は全くの間違いだったと知る。
 その存在や、立居振舞いが、湊を大きく見せる。
 自分の命が狙われている話をしているというのに、全く動じない。それどころか、楽しんでさえいる様に見えた。
 だから、伊織はこの仕事を引きうけてみようと思った。湊の挑戦的な視線に、つられたと言っても良いかもしれない。
 今日はその代役第一日目だった。一週間で成宮家のことを、湊のことを頭に詰め込んだ。まずはぼろさえ出さなければいい。
「あぁ湊、」
 その成宮グループの総帥が呼んでいる。あのじいさんも相当な役者だ。伊織は優雅な足取りでそこへ向かった。小さい頃、父親に何度か社交界と言うものを覗かせてもらった経験が今になって役に立っている。あの頃は嫌で仕方がなかったことに、苦笑する。
「紹介しよう。真藤和音君だ。和音君、これが我が不肖の孫、湊だ」
 小柄で、華奢と言う言葉がぴったりくるそのヴァイオリニストに、伊織は心底驚いた。この体のどこからあんなパワーが出るのだろう。
 よろしくと、差し出されたその手さえ、握って大丈夫だろうかと思うほどだった。でも滑らかな、その白い手を、握ってみたいという思いにも囚われる。湊になっているいまならば、それも許されると思った。伊織としてその手を握ることは、きっと自分自身が許せない。穢れた、その手では。
「はじめまして。素晴らしい演奏でした。この演奏を今まで聴かずに生きてきたのがもったいないくらいに」
 これは、正直な感想だった。ただ、こんな言葉が出てきたのは、湊の振りをしているおかげだ。普通なら、言わない。
「ありがとう」
 ゆっくりと微笑まれて、伊織は顔が赤くなるのを阻止しなければならなかった。驚くほどきれいな笑顔だ。こんな人なら、あの音楽を奏でられると納得した。
 違う場所で、また成宮のじいさんが呼んでいる。伊織は軽く礼をして、その場を離れた。離れがたい思いと、離れられてほっとした思いの、二つを抱えて。
 何か、危険な匂いがした。それは、甘い、甘い誘惑だった。あの笑顔を、見てはいけないと、心の奥底が必死で止めていた。その思いに戸惑いながら、伊織はまた、湊の笑顔を振り撒いていた。

 それから一週間、伊織の周りには何の変化も起きなかった。かといって、湊も平穏に暮らしている。時々夜中に遊びに行くのを、伊織に怒られるのを除いて。伊織が湊になったこの作戦は、成功しているのか、いないのか。全く分からなかった。
 一度の失敗で、犯人も諦めたのかもしれない。
 みんながそう思い始めた頃、二度目の襲撃があった。
「おとなしくしろ。爆弾も持っている。逆らえばみんなぶっ飛ぶぞ」
 都心の喫茶店で、余りにもの外の寒さに一休みしていたときだった。湊は週一回、スポーツジムに通っている。伊織にしてみれば、どうせ各務が居るからいいだろうと思うのだが。でも体を動かすのは嫌いではないし、こうして犯人をおびき寄せられたのだからよしとしよう。
 椅子に座った伊織のわき腹に、硬質なものを感じる。それをうまく体の角度と手に持ったコートで隠している。なかなかのプロだな、などと伊織はのんきに思っていた。
 この男に、爆弾を使う勇気は無い。伊織の直感がそう言っている。やくざのチンピラどまりの怖さしかない。わき腹に突き出している拳銃は本物だろうが、相手は一人。なんとかなるだろう。でも、さすがにこんな街中で騒ぎを起こすわけにもいかない。
 さて、どうしたものだろう。
 伊織は促されるままゆっくり立ち上がる。隣の席においていたコートとマフラー、そして伝票を持って、レジへと向かう。その間も男はぴったりと伊織に寄り添っている。お金を払って、木の重たいドアを開けたとき、思わぬ人物に会った。
「あれ、湊くん」
 今の伊織たちの雰囲気には場違いなほどのその笑顔を、忘れるはずがない。外の冷たい空気に、ほんのりと頬が赤く染まっている。厄介な人に会ったものだと、伊織はわざと迷惑そうな顔をした。それに気付かなかったのか、手など差し出してくる。
「この間はありがとう。会えて嬉しいよ。君とはゆっくり話をしてみたかったんだ」
 そう、にっこり微笑む。伊織はしぶしぶ手を握り返す。白い手が、寒さに一段と透明になっている気がした。陶磁のような、手。
「すみません。これからちょっと用事があるので今は時間がないんです。せっかくの機会なのに」
「お友達?全く時間ないのかな?」
 この二人を見てお友達もないだろう。伊織は思わず苦笑しそうになる。でもそう和音が微笑みかけた一瞬、男の意識が自分から逸れたことを伊織は見逃さなかった。
 思いきり、その腹に肘鉄をくらわす。そのあまりもの強さに、骨の折れる鈍い音がして、男は苦痛に顔を歪めてうめきながら崩れ落ちた。
「え?」
 伊織は無言で和音を引っ張って外に出る。そのまま、ひた走りに走る。すぐ隣のデパートに入って店内を駆け抜ける。休日でもないのに、人でごったがえしているような気がした。
「駐車場っ」
「え?!」
「僕の車、あるから」
 和音が苦しそうに叫んだ。伊織はコートを手に持っていたが、和音は着たまま走っていたのだから、もっと苦しいに違いない。伊織は周囲の様子をうかがって非常用階段のところで立ち止まる。
「どこ?」
「屋、上…」
 答える声が酸欠状態だ。それなのに、和音は伊織の手を引っ張る。その目が、早く、と命令している。伊織はそれに圧倒された。
 なんて、強い。
 仕事柄、何人もの人を見てきた。幾多もの危険を乗り越えてきた人も、悲しみを乗り越え運命を受け入れた人も、みんな強い瞳の輝きを持っていた。でも、それとは違う。
 もっと、根底からの強さ。
 伊織がそれに嫉妬するくらいの。
 屋上についた和音は、自分の車へとまっすぐに走って行く。そして、運転席に乗り込むと、助手席のドアを開けて、伊織に早く乗るように促した。
「何してるの?!早く」
 また、あの強い瞳で見つめられる。でも、伊織は、今度はそれに流されるわけにはいかなかった。
「助かりました」
 そう言って、戻ろうとする伊織の前に、和音は急発進して、自分の車を回りこませた。広い駐車場にブレーキの音がこだまする。伊織は驚いて、立ち止まった。また、目の前の扉が開く。
「乗って」
 怒ったような声がする。有無を言わせない、強い口調。それなのに、冷静なその声。そしてその瞳は、射るように伊織の方を見ている。口調と同じ、強い、冷静な、そして少し怒っているような視線。伊織はため息をついて、乗り込んだ。
「ばかだよ、あなた」
 そう呟いた伊織の声に、和音は小さく笑った。拗ねたようなその口調が、おかしくて。
 ばかだと、自分でも思う。
 でも、放っておけない。助けなくてはとか、そんなことではなくて、ただ、置いて行くのも、置いて行かれるのも、嫌だった。そのわがままな気持ちに、和音は自分に苦笑する。
「何?」
 シート深くに身を沈めた伊織がその小さな微笑に気が付いたのか、ふとこちらを見たのが分かる。
「いや、なんでもないよ」
 沈黙が続く。和音は何も聞かない。伊織も何も言わない。和音は前を、伊織はバックミラーをじっと見ている。
 追っ手は居ないようだった。
 隣の伊織の、痛いくらいの緊張が伝わってくる。でもそれに触れている和音は、逆に安心している気がしていた。
 不思議な気分だった。
 喫茶店で会ったとき、緊迫した状況だった事はすぐにわかった。関わらないほうがいいと、それが最善だと、分かっていた。でも、気持ちがついていかなかった。
 演奏会の時に、強い孤独を感じたことを思い出した。
 淋しさや、悲しさではない、もっと研ぎ澄まされたような孤独。
 手を交えるその一瞬に、匂い立つように感じられたその感覚に、眩暈がするかと思ったほどの。
 もっと、話してみたい。
 それは、和音にとっては珍しいことだった。常に人から注目されている和音は、あまり他者に関心を持たない。それは十五の時から国際舞台で活躍し、常に競争を強いられてきた和音の、処世術だったのかもしれない。
 和音はウインカーを出して高級ホテルの前に車を止めた。鍵をボーイに渡して、伊織にも降りるように促す。
 広いエントランスを真っ直ぐにフロントまで突き進む。部屋の鍵を受け取って、振り向いた先に伊織の姿を認めて、和音はほっとため息をついた。
 すらりとした長身が、所在なげに立っている姿がなんだかおかしい。でもその周りに張り詰めた空気を発してるのも、和音には感じ取れた。和音が見る彼は、いつもそんな空気を纏っている。微かで、常人には気づかないほどのその空気を、和音はどうしてか感じ取ることが出来た。
 エレベーターで、最上階まで行く。
 カードキーを差し込んで、その大きな扉を開ける。その間、和音は伊織の腕を掴んでいた。
「逃げないですよ」
 伊織が苦笑交じりにそう言うのに、和音は少し顔を赤くして、その手がやっと離される。なんとなく、無意識に捕まえていた。
 部屋の中に入って、伊織は思わず口笛を吹いた。自分の住むアパートのリビングよりも広い部屋。大きな窓。高価な調度品。
「立っていないで座ったら?そんなに珍しくないでしょう、成宮の御曹司なんだから」
 和音が香りのいい珈琲を持ってきて、テーブルに置きながら笑った。
「うちのおじい様は厳しいんです。こんな贅沢はできません」
 うっかり忘れていたことを、伊織は湊のじいさんの所為にすることにした。
「それより、とても助かりました。ありがとうございました」
 伊織がそう言って頭を下げたのを、和音は面映いような顔をした。
「僕は、何もしていないでしょう?ね、顔を上げて、湊くん」
 ゆっくりと、優しい、柔らかなその声に、伊織は嘘をついている心苦しさを感じた。でも、話すことの誠実さより、話さないことの安全を伊織は選んだ。
 何が、どうすることが最良か。
 その事だけを考えて行かなければ、伊織は生き残っていけない。
 伊織が顔を上げた時、ドアをノックする音が聞こえた。一瞬こわばった顔をした伊織に、和音が微笑みかけてドアに近寄る。
「俺だ」
 低い声が聞こえて、和音がドアを開けた。そこにはスーツを着た長身の男が立っていた。長い髪を、後ろできっちりと縛っている。するりとドアから体を滑り込ませるようにして入ってきて、そしてそのまま、伊織の方に目を向けた。その眼が、鋭く光る。威嚇するようなその眼から、伊織は逃げることはしなかった。
 こういう目をされると、対抗意識が湧いてくる。子供っぽいと思いながら、やめられない。それは多分、相手も同じなのだろう。これは、同じ雰囲気を持った者達の、いわば挨拶のような物なのだ。
「成宮の御曹司だよ」
 和音が、志筑がじっと伊織を見ていることに気が付いて穏やかな声で言った。でも、言外に、何も言わせないというようなニュアンスを感じとって、志筑はため息をついた。
「真藤」
 物言いたげな、少し責めるような声だ。和音を苗字で呼び捨てにするのはこの男ぐらいだろう。同じ大学に通っていた、その頃の名残だろうか。
「送ってやってよ。湊くん、僕のマネージャーをやってくれている志筑」
 和音はそんな志筑を無視して、にっこりと笑う。志筑がもう一度ため息をつく前に、伊織が口を開いた。
「大丈夫ですよ。帰れます。お邪魔して申し訳なかったです」
 なんとなく居心地の悪さを感じる。そんなことは仕事柄何度もあったが、今はなんだか居たたまれない。早く帰って、犯人の追跡もしなくてはならない。なんとか志筑に送らせようとする和音の好意をやっとの思いで断って、伊織はホテルを出た。
 目の前に車が止まる。和音が珈琲をいれている間に、携帯で仲間にメールを発信しておいたのだ。それに乗り込んで、伊織は大きく、ため息をついた。

「ふーん。真藤さんもやるね。それで?犯人、わかったの?」
 湊がソファーにゆったりと座る。伊織も促されて、その向かいに座った。自分の命が狙われているというのに、興味なさそうな、他人事のような口調で尋ねる湊に、伊織は小さなため息をつく。
「友部哲矢、32才。元暴力団幹部だ。今は内部の島争いに敗れて、逃亡中。昔、警察官をやっていたそうだ」
「元警察官で元やくざ?知らないな。各務は?」
 隣に控えていた各務が軽く頭を振る。
「こいつは主犯じゃない」
 その伊織の言葉に、湊が初めて顔を上げた。その眼が鋭く、それなのに楽しそうに光っている。伊織はぞっとした。
 遊び歩いている風で、成宮という看板を背負う自分に、どんな価値があり、何が出来るか湊はよく知っている。だからこそ、命を狙われることさえゲームの様に楽しんでいる。
 敵には回したくないな。
 それが、伊織の素直な感想だった。
「こいつはただ雇われただけだ。雇ったのはあんたのとこの医療グループの神野薬品の社長だ」
 神野薬品という名に、湊が微かに反応するのを伊織は見逃さなかった。
 こいつは何か知っている。
 伊織は最初からそう思っていた。だから今回の襲撃の前に、最近の湊の動きも追っていた。そこで出てきたのが、神野という名前だった。
「こいつが裏で薬の横流しをしている。」
 伊織は湊から視線を外さずにここで言葉を切った。湊が、面白そうに、挑むようにその伊織を見つめ返す。
「この薬の横流しに感づいた奴がいる。せっかく苦労してルートを作ったんだろう。どうしても潰したくない神野は、そいつを消すために友部を雇った。多分、この友部という男にも報酬と共に、その恩恵を恵んでやるとでも言ったんだろう。もともとこの友部のいた暴力団にでも卸していたのかもしれない。」
 一呼吸置いて、伊織は、もう一度口を開いた。
「違うか?」
 湊が下を向いてくすりと笑うのが聞こえる。伊織はその瞬間に、自分の推測が合っていることを知る。
「みくびってたなあ。伊織くんがそんなに仕事が出来る人とは思わなかった」
 くつくつと、楽しそうに笑っている。伊織はやっと湊から視線を外して、ソファーの背もたれにどかっとその体を預けた。両手を広げて、その背もたれに腕も預ける。それからあきれた様にため息をついた。
「なんで最初に言わなかった?心当たり、無いって言ったよな。」
「だって、無かったもの」
 湊はしらっと言いのける。まったく、とんだ御曹司だ。伊織は諦めて各務を見る。こいつも全て知っていたに違いない。各務は湊の方を一瞥してから、ゆっくりと口を開いた。
「神野薬品とは、医療グループの創設時からの付き合いです。出来るなら、ことを大きくせずに済ませてしまいたかったのです」
 それで命が狙われていては仕方が無い。
「何で分かったの?」
 湊が伊織の方に身を乗り出してきた。
「あんたの回りを調べたら出てきたってだけだ。友部には発信機をつけておいたしな」
「ふーん。じゃあ、今何処にいるか分かるんだ。」
「俺の仲間を張り込ませてる。まあ、ここから先は俺の仕事じゃないが」
 伊織のその言葉に、湊は意外そうに瞬きをした。
「なんにもしないの?」
 無邪気にそう笑う。伊織はその湊をあきれた様に眺めた。
「お前のじいさんは何のために警察のお友達に連絡したんだ?あとはそのお友達に任せればいい」
 伊織は確かに犯人を捕まえたければ捕まえればいいと、湊に言われていた。でも、それでどうするというのだ?わざわざ警察のために捕まえてやるほどお人よしじゃない。
 まもなく電話が鳴って、各務が受けた。ほとんど無言で各務はその電話を切って、湊に頷く。
「犯人、捕まったみたいだね」
 湊が少し、がっかりした様に呟いた。伊織はそれを合図に立ちあがる。
「報酬は契約通り。この口座に振りこんでおいてくれ」
 そう言って、一枚の紙をテーブルにおいて、伊織はそこから立ち去ろうとした。
「待ってよ」
 湊がその紙を各務に渡しながら引き留める。伊織はいつもの自分の格好であるジーンズのポケットに両手をかけながら、面倒くさそうに無言で振りかえった。
「犯人を見つけてくれたお礼。おじい様じゃなくて、僕からの」
 すらりと伸ばされた手の指に挟まれているその紙を、伊織は少し考えてから手にする。
 それは、コンサートのチケットだった。
「真藤さん、明日で最後なんだ。良かったって言ってたでしょう?」
 湊の目がいたずらな子供の様に光る。でも、伊織は自分の手にしたチケットを見ていて気が付かなかった。じっと、食い入る様に見つめている。
「どうかした?」
「いや。おまえも行きたいと言っていなかったか?」
 伊織はそのチケットをしまうこと無しに、湊に尋ねる。
「僕の分はちゃんとあるよ。だからどうぞ」
 伊織は少しだけ、躊躇した。貰ってはいけないもののような気がしたのだ。でも、結局あの日の音楽を思い出して、手放せなかった。
「じゃあ、ありがたくもらう」
 そう踵を返してドアへ向かった伊織に、湊は笑いながら、
「またね」
 と呟いた。



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