雨に似ている 02 |
「何を企んでいるんです?」 伊織が出て行くと、各務が紅茶を淹れながらため息をついた。今回は少々湊の遊びが過ぎる気がする。 「なんにも」 湊が美味しそうに紅茶を口に含んだ。ふわりと、良い香りが漂う。 「和音くんがね、もう一度会いたいって言うから。今回は協力してもらったし、滅多に頼みごとなんてしない和音くんのたまの頼みごとぐらいききたいでしょう」 「真藤様が?」 「そう」 和音の、切羽詰ったような声が思い出される。本人は、きっと気付いていない。その声が、その名を呼ぶときに、どんな色をしているのか。 自分と同じ名を呼ぶのに。 「もう一人の湊くん」 そう、呟くその声が。 その素直さに、湊は嫉妬した。 湊は各務に手を伸ばした。ゆっくり、顔が近づいてきて、そっと、口付ける。冷たいその唇の感触に、湊は思わず、噛み千切りたい、そう、思った。 言わなければ、回されない腕。 決して、自分から攻めてくることの無い口付け。 どれだけ誘っても、答えてくれない。 「抱け」 その言葉がなければ。 上着を脱がす。筋肉質なその腕に、小さな傷がある。シャツの上からでも、湊はその傷の位置を的確に触ることができる。ほんの一週間前に、湊をかばって受けた傷だ。 「見せて」 湊のその言葉に、各務は一瞬瞳をきつくした。でも、一度言い出したら聞かないと知っているから、ネクタイを外して、綺麗にアイロンのかけられたその白いシャツを脱ぐ。 湊の白い、細い腕が伸びてきて、指がその傷をそっとなぞった。 「痛くなかったの?」 まだ赤く、思ったよりも傷が深かったたのがわかる。湊はその傷を、じっと見つめている。 「仕事、ですから。お気になさらないで下さい」 各務のその答えに、湊は一瞬その瞳をきつくして、その傷に爪を立てた。突然のその行為に、各務は痛みに顔を歪めた。その傷から、つうっと、血がたれて、各務のたくましい腕を伝わって行く。その軌跡を、湊はじっと見つめている。 「どうしたんです…」 各務が、その傷に構うことなく聞く。痛いだろうに、かばうこともしない。声も立てない。また湊の指が伸びてきても、ひるまない。 「汚れます」 そう言うだけ。湊が唇をきゅっと噛んだのは、各務には見えない。 「手当てをしておいで。待ってる」 湊はそう言って、ソファーにぐったりと座り込んだ。 悔しい。どうしてかわからないが、悔しくて堪らない。そして、もう一つ、強い感情が溢れてくる。 音も立てずに部屋から各務が出て行くと、湊の頬に一筋の涙が伝わった。 そのことに湊は、気がつかなかった。 チケットは、二枚。 演奏会は、明日。いや、もう今日になるか。 伊織はずっとそのチケットを眺めている。カーテンを開けた窓から月明りが射し込んで、ぼんやりとその薄いピンクのチケットを浮かび上がらせている。行こうか、行くまいか。何度その問いを自分に投げかけてみても、答えは出ない。 「なあに?」 となりで眠っていた瞳香がふと目を覚まして顔を上げた。長い髪がさらさらと音をたてる。 「あら。真藤和音じゃない。どうしたのそれ?取りたくってもなかなか取れないわよ、そのチケット」 完全に起き上がって煙草に火をつけて、伊織の手元を覗きこんだ。 「貰った」 「えー?さすがに顔が広いのね」 瞳香は心底うらやましそうな顔をする。伊織より九つ年上なこの女は、伊織のセックスフレンドの一人だった。姉のようなこの瞳香に、伊織はときどき甘えている。 「一緒に行くか?」 伊織がその口から煙草を抜きとって自分がくわえる。でもそれを、瞳香は許さない。 「こら未成年」 そう言って、取り上げる。伊織は一口だけ吸ったその紫煙を、味わうように、ゆっくり吐き出した。 「けち。その子供と何やってるんだよ、お姉さん」 伊織のそのからかったような言葉に、瞳香は小さく笑った。 「煙草はね、体に悪いでしょう?そう言うものは堂々と吸えるようになってから吸いなさい」 瞳香はお酒に関しては、飲みすぎなければあまり何も言わない。本当に自分の体のことを思っていっているのだろうと分かるから、伊織はいつも降参するしかない。 「非番なんだろう?」 伊織は話を元に戻すことにした。チケットをベットの隣のサイドテーブルに置く。そのままそこのランプをつけようとしたが、止める。 「だって…いいの?」 なにか含み笑いが聞こえる。 「何が?」 「私で」 「こんな良い女は他に知らない」 伊織がそう言って瞳香の髪を触る。でも、それが甘い言葉でも、恋人への言葉でもないことは、二人ともわかっていた。駆け引きを、楽しんでいる。 「よく言うわね」 ふふ、と笑う声が楽しそうで、伊織はようやく眉をひそめた。 「何?」 「変わった」 「誰が」 瞳香は呆れたように伊織を見た。その目が、あなただと、告げている。 「そんなに会ってなかった?」 「やあねー。自覚してないのね」 伊織が髪を触っていた手を止める。瞳香は起きあがってベットに腰掛けた。顔だけ伊織の方を見て、優しく微笑む。 「大切な人、出来たでしょう?」 滑らかな、白い肌が月明りにぼんやり浮かび上がる。それを何か不思議なもののように、伊織は眺めていた。その伊織の顔を見て、瞳香は声をたてて笑った。 「本当に分からないの?自分によく聞いてごらんなさい。」 瞳香はそう言って、チケットに手で触れる。 「せっかくだから行くわ。シャワー、浴びてくるわね」 最後のデートになるかもしれない。瞳香はそう思って、少し淋しげに笑った。伊織には、見えないように。 でも、良かった。 心底そう思う。伊織には、自分からそう言う気持ちを排除する傾向がある。他人には優しいが、その優しさは誰に対しても同じものだ。特別は、絶対に作らない。 瞳香はそのことに強く惹かれた。 初めて出会ったのは、瞳香が捜査をしていた事件の容疑者としてだった。強い、強い個性と孤独を身に纏って、たった一人で立っていたその姿を、瞳香はいまだに覚えている。 手を、差し伸べたいと思ったのは本当だ。でも、助けるつもりが、その強さや優しさに瞳香の方が救われた。 自分では、伊織をこの孤独から救うことは出来ない。 そう分かったのは、いつのことだったのだろう。 伊織はきっと、今の自分の気持ちに気付いていない。気付こうとしていない。 特別なものなど、何もないと、言い聞かせている。 気付いても、きっと伊織は苦悩する。悩んだ末に、その思いを、手放そうとするだろう。 どうか、それに負けないで。 瞳香はまだ見ぬ相手に、そっと祈った。 結局、開演ギリギリになって行った演奏会は、最高のものだった。たった一週間。その間に、和音の音が変わっていた。でもそれが何なのか、伊織にはわからなかった。 「なんだか違う音を出すようになったのね、彼」 十分に演奏を堪能して、満足そうな顔をした瞳香がそう言って、伊織は歩みを止めた。 「この間聴いたときとは違ったけど…どう違うんだ?」 「なあに?2回目なの?」 「ああ。初日に聴いた」 羨ましい、瞳香が呟く。答えをもらえない伊織は、イライラしたように先を促す。ずっと、この違いは何なのか、そのことに囚われていた。 「以前はね、もっとこう、清らかとか、澄んだって言葉がぴったりだったの。でも、今日は…そうね、情熱とか、情愛とか、そういう激しさが在った気がする」 考え考え、瞳香が口にした言葉に、伊織はやっと答えを発見して、満足そうに微笑んだ。 そうだ。安らぎを与えてくれた彼の音楽に、もっと、心を締めつけるような激しさがあったのだ。 何がそんなに彼を変えたのか。 ふとそんな思いに至って、伊織は奇妙な感情を覚えた。その気持ちを、もてあます。名も分からない、奇妙な気持ち。 「また彼のレパートリーが広がるわね。楽しみだわ」 そう呟く瞳香の隣で、伊織は一人、自分のこの感情を排除しようと必死になっていた。 怖い。 この感情は、危険過ぎる。伊織が分かるのは、それだけだった。 初めて和音と会った、あのときに感じた危険な匂い。同じ匂いが、今している。 それは、今まで嗅いだどんな危険な匂いよりも、甘い、甘い、香りがした。 夜半過ぎになって、雨が静かに降りはじめた。そのことにふと気付いて、伊織は顔を上げて外を見た。小さなぼろアパートの二階からでは、巨大なビル群に挟まれて空も見えない。時折通る車の光がなければ、そこにはずっと、漆黒の闇が広がっている。 手に持っていたグラスをテーブルにおいて、伊織は立ちあがってその窓に近寄った。その窓から空を見上げても、見えるのは隣のビルの壁だけだ。 雨の音はしない。耳を澄ましても、無数の水滴は音もなくその闇の中を落ちて行く。目を凝らせばやっと見えるほどの、小さな、粒だ。 その霧のような雨に包まれている錯覚を覚えて、伊織は窓から目を逸らした。 似ている。 この雨は、彼の音楽に、似ている。 彼の雰囲気を思い出させる。 今一番、逃げたいものに、似ている。 静かな部屋に、突然電話の音が響いた。現実に引き戻されて、伊織はほっとしたように小さく息を吐いた。放り出していた携帯を取り上げる。番号表示がされない。伊織は用心深くボタンを押した。 「はい…」 低く、押し殺したような声で答える。仕事柄、名はいつも名乗らない。 「もしもし」 何も言わない相手に、伊織はさらに用心深くなる。これで何も言わなかったら切ろう、そう思ったときに、小さな、ささやきが聞こえた。 「湊、くん?」 ひどく、ためらったようなその声に、伊織はそれが和音だとすぐにわかった。 「真藤さん?」 「はい…」 なんだか様子がおかしい。ほとんど話したことなどないのに、それがはっきりとわかるほどに、弱々しい声。 「どうしたんです?」 自然と、自分の声が優しくなる。伊織はそれに、気付かない。電話の向こうで、微かな音がしている。そちらの方に、気がそれる。 「どこにいるんです?」 微かな音は、車の音だ。あのホテルの部屋からでは、こんな音はしない。 「君は…君は、どこにいるの?」 「外に、いるんですか?」 「うん…」 かみ合わない会話。ほんの少しの沈黙。それが、二人の間に不安を抱かせる。 「どこにいる?」 聞きながら、伊織はコートを羽織る。 行くべきではないと、分かっている。それなのに、マフラーを掴んで、靴をはいて、鍵をかけている自分がいる。 「ごめん」 その小さな呟きに、伊織は歩みを止めた。 「明日、帰らなくちゃ行けなくて。どうしても君に会いたくて。ここにきたら、また会えるかも知れないなんて思って…」 その言葉の合間に、小さなくしゃみが聞こえる。 「ごめん。僕、自分がこんなに自分勝手だとは思わなかった」 もう一度、ごめん、と謝る前に、伊織が言葉をはさむ。 「そこにいて」 和音は、答えない。 「そこにいろよ」 伊織は駐車場について、車に乗り込む。冷えてかかりの悪いエンジンに、イライラする。 答えのないまま、電話は切れた。 何をしているのか、伊織は自分が分からない。それでも、焦る気持ちを、押さえられない。 こんな風に、感情に流されるのはいけない。 それを分かっているのに、とめられない。 怖い。 この自分の感情が、怖くてたまらない。決して触れてはいけないものに、今、手を伸ばしている。それが何なのか、伊織はきっと分かっている。でも、分からない振りをしている。その先に、何があるかわかっているから。 全てが、壊れていってしまうことを、わかっているから。 だから、絶対に手を触れないと、誓ったのだから。 心はこんなにも怖がっているのに、伊織はどうしても、引き返せなかった。 二人が偶然会ったのは、たった一度。 そのデパートの前に車を止めて、伊織は急いで車から降りた。霧のような細かい、小糠雨がしっとりとその身を濡らす。 ゆっくりと、知らぬ間に染み込んでくるこの雨は、今の伊織の気持ちに似ている。 探すまでもなく、伊織は和音を見つけた。 ひっそりと、街路樹の近くで、車が目の前を通るのを見ている。遠くからでも、その美しい佇まいが感じられる。 近寄ることをためらった伊織に気付いたのか、和音がゆっくりと顔を上げた。 白い息が、漂う。 二人はじっと、見つめ合っていた。 どれぐらいそうしていたのか。 和音が寒さに震えたのが見えて、伊織は我に帰った。駆け寄って、その肩を掴もうとしてためらう。その手を、和音は悲しそうな視線で追った。 和音にも、わかっている。 こんなことをしても、伊織には迷惑なことを。伊織をただ、悩ませ、困らせることを。でもどうしても、一つだけ知りたいことがあった。 結局、伊織の手は、和音に触れることなくおろされた。 「風邪をひく」 「うん…」 遠くでは見つめ合えたのに、近くになると顔を見ることさえできない。見てしまえば、どうなるか分からない。全てが堰を切ったように、流れ出てしまいそうで。 それでもその誘惑に負けたのは、和音だった。 伊織の腕に手を伸ばして、そっと握る。顔を上げて、その瞳を覗くように見つめる。 逸らせなかった。 その瞳から、伊織は逃げられなかった。 「君の名前が知りたい」 必死な目で、和音がはっきりとそう言った。伊織はその目をきつくした。 「最初から知ってたのか」 電話を受けたときは気が動転していて、すぐには気付かなかった。でも、ここに向かう途中、ふと考えた。 なぜ、和音が自分の携帯の番号を知っているのか。 和音に携帯の番号を教えた覚えはない。自分のことを湊と呼ぶこの人が、何故、この番号を知っているのか。 和音はその声に俯いて、顔を上げることができなかった。 「湊くんとは、パリで何度か会っているんだ。でも、彼のおじい様もそれを知らない。彼はこう言うものには興味がないことになっているから、これをきっかけに引っ張り出されるのが嫌だったみたいで、知らない振りをしてくれって」 コートを握る手に、少しだけ力がこめられて、和音の不安な気持ちが伊織にも伝わる。分かってしまうから、振りほどけない。 「ここで会ったときも、知っていたのにあんな危険な真似を…」 手の、力が緩む。伊織の声が、冷たい。 怒っているのだ。和音の身を案じて。 分からなければいいのに、分かってしまう。伊織の優しさからくる怒りだということが。和音はそんな自分を恨んだ。 しっとりとした雨が、二人の上に降り注ぐ。 優しい雨に、泣きたくなってくる。 この雨が、似ているから。 互いの優しさに、似ているから。 「君は、誰なの?」 声が、震えている。寒さなのか、違うのか、和音にも分からない。 真っ直ぐに見つめられて、伊織は目を背けた。 答えることなど、出来ない。 でもそれが、無性に腹立たしい。 「本当の名前を教えて…。それだけでいいから、」 こんなにも、一人の人間に執着したことは無かった。でもその気持ちは、和音にとって大切な、大切な気持ちだった。きちんと、掴まなくてはいけない。この気持ちだけでも。その衝動が、和音を動かす。 伊織が唇を噛む。和音の手に、力がこもる。 「お願い…」 見てはいけないと思っても、その声に、伊織は引力の様に引っ張られる。見てしまえば、答えてしまうのに。 ゆっくりと、正面を向く。真摯な瞳が、自分を真っ直ぐに見ている。 押さえきれない。 駄目だという意識も何もかも、その目に負ける。 「伊織」 囁くようなその声を、和音は聞き逃さなかった。 「伊織…」 和音が思わず反復したのを聞いて、伊織はなぜ自分がその名を答えたのか、理解する。 呼んで欲しかったのだ。 その声で、湊ではなく、この、名を。 ふと視線を感じて伊織が顔をあげると、マネージャーだと言っていた志筑が、二人を見ていた。全身が、しっとりと濡れている。和音を探しまわっていたのだろう。その志筑に、伊織は現実に引き戻される。そっと、和音の手を離す。 「忘れてくれ」 悲痛な声。和音はその声に、自分の罪を知る。 苦しむと、分かっていたのに言わせてしまった。 「その名を知っていても、ろくなことは無い。忘れてくれ」 念を押されて、和音は小さく、ごめん、と呟いた。普段なら柔らかな髪が、しっとりと濡れて、雫が一つ、流れ落ちた。 忘れられるわけがない。 こんなにも切望して、やっと手に入れたのに。 それしか、縋るものがないのに。 その腕に、抱くことも、抱かれることも許されない。 手を伸ばすことさえためらっている、そんな、思いなのに。 伊織が背を向ける気配がする。それを和音は見ることが出来ない。別れが、辛すぎて。 もう二度と、出会うことはないだろう。 それを、わかっているから。 濡れたアスファルトの上を歩く音が、少しづつ、遠ざかる。和音はそれでもその姿を焼きつけようと、顔を上げた。 長身の、鍛えぬかれた、でもすらりとしたその後ろ姿を、和音は瞬きもせずに見つめていた。 でもその顔が、振り返ることはなかった。 やむことが、永遠に無いかのごとく降りつづける雨に、和音はもっと、濡れていたいと思った。 似ているから。 この雨が、似ているから。 |
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